脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

ドリフターズのコントは歌舞伎や落語と同じ伝統芸能になり得る可能性があった 『ドリフターズとその時代』読後感

 

 

小学校時代は土曜の夜が楽しみだった。翌日が休みだということもあったが、何しろ「8時だヨ!全員集合」という何を置いても最優先で観るべき面白い番組があったからだ。オープニングテーマが始まった瞬間は、齡50を超えた今となっても屈指のワクワク感を感じていた。

ロングコントのオープニングでいかりや長介氏が発する「オイーッス」という掛け声には、でかい声で「オイーッス」と応じていたし、とにかく番組中は笑い転げていた記憶しかない。私が一番この番組に熱中していた時期は、『東村山音頭』で志村けん氏が大ブレイクを果たした時期と一致する。日常生活の中でも『東村山音頭』はよく歌い踊った。

ドリフターズのコントは日常の一部であり、極端に言えば、当時の私の思想信条、行動様式の全てに影響を及ぼしていたと言って良い。前週の放送でドリフの誰かが放った下ネタをそのまま意味もわからずにそっくりそのまま真似て、よく父親に怒られたものだ。「そんなことばかり言ってると来週からドリフの番組なんぞ観せねーぞ」などと脅されて、必死に謝ったことも何度もある。とはいえ、彼らの発するギャグは大きな笑いと共に確実に私の中に残っていった。

 

ところが中学に入って状況は一変する。漫才ブームが突如として沸き起こり、そこから発生した漫才師たちが瞬発的なアドリブやリアクションで勝負する「俺たちひょうきん族」が始まり、「8時だヨ!全員集合」は一気に古臭く、幼稚なものになってしまったのだ。ちょうど年齢的にドリフ以外にもいろんな「笑い」があることに気づき、ドリフの笑いは状況設定が違うだけで、毎回ほとんど同じコントの繰り返しだ、ということにも気づいてしまった。

 

思春期の入り口にあった私の、乏しい知識だけを頼りにした愚かな偏見で「ドリフ=マンネリで幼稚」、「ひょうきん族=先進的で高度な笑い」という頑固な公式を勝手に作り上げてしまったのだ。しかしながら、この書を読み進める中で著者笹山氏が指摘していた事実には虚をつかれた。ひょうきん族も最初から高視聴率を取っていたわけではなく、ビートたけし氏をメインキャラクターにしたコント「タケちゃんマン」が始まってから視聴率が上昇したというのがその指摘。なんのことはない、ひょうきん族もある種のマンネリを始めたことで人気が上昇し、定着したのだ。しかものちにビートたけし氏自身に「ひょうきん族の笑いはあくまで出演者たちのキャラクターに頼っただけのもので、偶発的な笑いだった。ドリフのコントは細部までしっかり作り込み、きちんと各自の役割を決めた上で、さらにアドリブを入れてきたりする。笑いの質としてはドリフの方が上だった」という趣旨の発言をさせている。ドリフの笑いは決して幼稚なものではなかったのだ。

 

例えば古典落語というのは、誰が演じても同じ筋立ての噺をすることになるが、名人と言われる人が演じるのと、素人が演じるのとでは、出来上がりにそれこそ天と地ほどの差が出てくる。ドリフのコントというのも、こうした類の「芸能」だったのではないだろうか。

権力者(4人兄弟の母親であったり、探検隊の隊長であったり、学校の先生であったり、とにかく集団の中では一番偉いという位置付けの役)であるいかりや氏は冴えないキャラを与えられた仲本工事氏や高木ブー氏に対しては徹底的に強気に出ていじめることで笑いを取る。同じように志村けん氏と加藤茶氏にも強く当たろうとするが、そこでこの二人はとぼけてみたり、反撃に出たりして、徹底的にいかりや氏をおちょくることで立場の逆転という快感と共に大きな笑いを取る。大きな話の流れは固まっているが、そこで時事ネタを取り入れてみたり、ゲスト歌手たちのキャラクターを活かしたりして、表現の仕方をアレンジする。「伝統」が身についていたからこそ様々なバリエーションで笑いを取ることができていたのだ。

 

つい最近、往年のドリフのコントを現在のお笑い芸人たちが演じるという番組が放送された。私はまだ観ていないのでなんとも言えないのだが、笑えるとは思うが、どこかに違和感を感じながらの笑いにならざるを得ないような気がしている。ドリフ全盛期の志村けん加藤茶という二人のキャラクターは、もはやアイコンと化してしまっており、コント上の役柄と切り離して考えることが不可能な存在なのだ。ゆえに笑いを産むことはできても、二人が演じているという「安心感」まではどうやっても辿り着けない。志村けん氏の死去により、この二人のコンビ芸を見ることは不可能となってはしまったが、仮に今志村氏が生きていたとしても、往年のキレのある動きができない年老いた二人では「全盛期のドリフターズの中のコンビ」を演じ切ることはできなかっただろう。さらに言えば、やはり二人におちょくられる権力者はいかりや氏でないと収まりが悪い。

 

結局ドリフターズは唯一絶対の存在だったのだ。彼らのネタを完璧に踏襲した上で、なおかつ新鮮味を加えていってくれるようなグループが生まれてきてくれるのを望みたい、というのはオッサンのただの懐古趣味なのかもしれない。それでも私は望まざるを得ない。

自分の書きたいことを書くのが第一、でもそこで「飯」が食えないんだったらちょっと考えてみるべき『ブログ飯 個性を収入に変える生き方』読後感

 

 

私は2007年からブログってやつを続けている。元々、読んだ本の内容が頭の中にほとんど残っていないことに衝撃を受けたので、自分のために読んだ本の内容とその感想を記録しておくためにつけ始めた。とはいえ、単に自分だけの日記にしてしまうなら、そこらのノートにでも書きつけておけばいいオハナシで、自分が感じたことに関して世の中の方々がどんな反応をしてくれるのかにも大きな興味があったので、ただの日記ではなくブログという形式を取ったのだ。ちょうどブログを始めた際に利用していたエキサイトブログは、その時々のニュースをそのまま引っ張ってきて、ブログのネタにできるという機能も持っていた。ニュースについても、プロ野球の結果についても、大相撲の結果についても、書いてみたかったし、映画評も書いてみたかった。

 

そんなわけで、2007年の年初から書き始めてはや15年。使ったサイトは、複数だった時期も含め、エキサイト、Yahoo、FC2、Amebaと来て、今ははてなさんにお世話になっている。好きなことについて書いているというスタンスは変わらないし、一時期はAmebaの文章が定期的にとあるサイトに紹介され、それなりに反響もあったのだが、ここ数年は、全くと言って良いほどPVが伸びなかった。いっさくねん、首尾よくGoogleAdSenseの審査は通ったが、2年で収入が129円である。今時発展途上国で水汲みのバイトやったってもっともらえんじゃねーのか、というレベルの収入にしかなっていない。

 

自分の書きたい事を書いているし、文章の評価も、Webサイトで取り上げられるということはそれなりの水準にあるはずなのだが…。1日のPVなんぞ30も行けば万々歳という状態だ。

 

ようやく最近、ブログとは関係ないWebサイトの契約ライターの口を得て、それなりの収入が得られるようにはなったが、まだ私の当面の目標である、文筆業1本で飯を食うという状態には程遠い。

 

この本の奥付けを見ると、発行は2013年となっているから、私が鬱で苦しんでいた頃にリリースされたものだ。それから既に10年近く経っているので、テクノロジーとか、デバイスに関しては少々古くはあったが、内容の大筋は変わっていないし、今の世でも通用する内容だ。

 

他人様がわざわざ乏しいヒマを使っていろんなサイトを覗いてみるのはなぜか?それはそこで得られる情報なり、知見なり、知識なりが、自分の役に立つからだ。したがって、自分が今までの生涯で積み上げてきた経験を余すことなく公開し、その中から一つでも二つでも得るものがあったと認められれば、黙っていてもリピーターになってくれるし、数は力なりをシビアに判定している広告主がついてお金になるということだ。

 

私自身は、今のブログのスタンスを大きく変えるつもりはない。あくまで、自分が面白いと思ったこと、逆に怒りを禁じ得ない事を持ちうる文章テクニックを駆使して書き綴っていく所存だ。ただし、うつの症状については書くのをやめようと思う。書くとしたら、思いっきり毒と笑いをまぶしてユーモアエッセイに仕上げたい。読書ネタ、ラグビーネタ、映画ネタは、自分の審美眼を磨いて、多くの方に、納得いただけるとか、独自の視点を面白いと思っていただける文章を書いていきたい。

その上で、この本に書いてあるマーケティングテクニックも参考にしていきたいと思う。今の私のブログは「マーケティングの4P」で言えば「Products」だけが過多な状態で、残りの三つPlace(認知度低い)Price(まだ値段なんかつけられる状態じゃないが、安けりゃいいってもんでもない)Promotion(宣伝活動一切なし。SPAIAで少し名が知られるようになったかもしれないが 笑。あとはTwitterFacebookはてなブックマークくらい)の全てが不足している状態だ、もちろんコンテンツの充実が一番なのだが、少しばかり他の要素についても勉強はしてみたい。そう感じさせてくれた一冊だった。

壮大なスケールで描かれる暴力と死と再生の物語 『テスカトリポカ』読後感

 

第165回の直木賞を受賞した、ダークサスペンス。

 

題名ともなっている「テスカトリポカ」とはアステカの神話の中で最も主要な立場にある神。後にこの地に侵攻してきたキリスト教徒たちによって土着の邪神として貶められ、おどろおどろしいイメージを纏いつかされた。アステカの文化においてはこのテスカトリポカに人間を生贄として捧げることが信仰の証だとされていたこと、また生贄を捧げるにあたっては生きている人間の心臓を抉り出すという儀式を行なっていたことも、血みどろを好む悪神というイメージを助長するのに一役買っていたと思う。

 

物語は、メキシコの小さな町に生まれた少女が日本に流れ着くところから始まる。この少女は合法的でないルートを通って日本に来て、そこで男の子を産み落とした後で亡くなる。そしてこの男の子は並外れた身体能力を持ち、道徳感が全くないというサイコパスとして成長していく。

 

次に舞台は再びメキシコに戻る。世界に冠たる麻薬大国であるメキシコでは麻薬の利潤をめぐり、常に巨大な悪の組織同士が血みどろの抗争を繰り広げている。ある日、対抗組織によって無人武装ドローンで邸宅を襲撃されたのがロス・カサソラスという国内最大の組織。この組織はメキシコの土着神、すなわちテスカトリポカへの信仰をその母によって叩き込まれた四人の兄弟によって統率されていたが、三男のバルミロを除いて全ての兄弟が惨殺される。傷つきながらも生き残ったバルミロは身分を隠し、姿を変え、メキシコの組織がまず手を広げてこないであろう東南アジア、インドネシアの街角に紛れ込む。

 

そこでペルー人としてコブラサテ(コブラの丸焼き)の屋台を営みながら、対抗組織に復讐を果たし、メキシコ国内の「王座」に返り咲くことを目指して現地や中国のさまざまな組織とつながることで裏社会での地歩を固めていこうとしている。そこに現れたのが、日本人タナカ。数カ国語を操るタナカはぱっと見商社マンのようだったが、実際は心臓の移植ではそれこそ日本一の腕を持つとされながら、日本の医療界から追放された医師だった。

 

メキシコ国内に攻め込みたいバルミロと、自分が打ち込んできた心臓移植の技術を思う様に発揮したいタナカは、得られる利潤の大きさにも惹かれ、非合法な臓器移植斡旋の商売を始める。ヤクザとか金貸しの皆さんが「金がないんなら臓器売ってでも作らんかい、ボケェ」と脅す類の臓器移植である。金に困った連中が売りに出した臓器を必要とされている金持ちたちに売り捌く。摘出手術はタナカが行う、という段取りだ。

 

何かの願いを叶えてもらうために自分の臓器を差し出す。一方は神、一方は「ビジネス」相手と対象こそ違うが、生贄システムそのものである。その結果として神からはさまざまな厄災からの回避が、ビジネス相手からは報酬が得られ、いずれも苦しみを減じることにはつながる。一方は崇高で、一方は現世の欲に塗れていながら、生贄を捧げるというシステムそのものはよく似ている。

 

やがて、このビジネスは、供給源を自ら作り出すことにも着手する。日本の反社会勢力の一つに、息のかかった寺に大きな地下室を設えさせて、各地から無戸籍児童を引っ張ってきて囲い込んで、「適合」した患者が現れたら即時に「供給」するというシステムを作らせるのだ。この移植ビジネスの背後には中国マフィアもイスラム圏のゲリラ組織までも絡んでいる。アンダーグラウンドのさまざまな勢力が巨大な利潤を産むシステムを巡って争い、血生臭さがだんだん高まっていく…。息をもつかせぬ展開で、一気に結末まで引っ張っていってしまう迫力ある文章は、長い通勤時間から眠気を取り去ってくれた。特に、バルミロがいよいよ反転攻勢に出ようとアクションを起こし始めてからの記述にはすっかり惹きつけられた。

この、おどろおどろしさを纏ったサスペンスは、しかし、最後には一つの救いを持って幕を閉じる。最初に登場したサイコパスの少年も結末までに重要な役割を果たすし、ここにもアステカの信仰が巧みに織り込まれている。あ、なるほどこういう結末の付け方もありか。実に佐藤氏の話の転がし方は巧みである。

 

血生臭いシーンが嫌いな方はともかく、エンターテインメント作品としての完成度は非常に高い一作だった。直木賞受賞は納得の評価であると思う。

 

 

支離鬱々日記Vol.158(暑さとお題と業務連絡)

好きだった給食のメニューは?

 

スポンサーの要求は一旦無視して、普通の身辺雑事から。

暑い暑い暑い暑い暑い暑い〜!!

我が郷里は、今日明日と気温が40℃近くに上昇するという予報が出ている。コロナの発熱よりタチが悪いじゃねーか、この野郎!まだ梅雨も明けてねーんだろ。でこの気温って7月8月はどうなるんだよ?在宅勤務が増えたから、冷房を必要としている「場所」は確実に増えた。ということは電力供給はどうなる?そして、ロシアのウクライナ侵攻で化石燃料の値段は上がってるし、供給も不安定だ。これを理由に原発は再稼働させるのか?そういうことがあまり論点として見えてこない参院選ってどうなの?

 

…あまりに暑いが故に話がでかくなりすぎた。どこやらの党の党首みたいにオイシックスさんから強制退去を命じられると困るので(笑)、通常モードに戻ろう。

 

暑いことは悪いことばかりではない。私のカラダも徐々に汗を書くことの心地よさを思い出してきたようで、トレーニングを億劫に思うことがなくなり、むしろ積極的にトレーニングしてやろうという気になっている。トレーニングするとテストステロンが分泌されて、それが生活全般の「やる気」につながるという好循環が生じつつあるのだ。やはり私は本質的には暑い方が好きなのだな、と改めて実感した。とはいえ、やっぱり今の気候は異常だ。暑すぎる。ふらふらと油断したまま外出でもしよう物なら下手すりゃ熱中症で死んじまうような暑さなのだから。

 

というわけでお題に移ろう。

 

私の幼年期の居住地域は給食は小学校までで、中学以降は弁当持ちだった。従って給食の思い出というと小学校時代にまで遡ることになる。

 

好きな給食メニュー、それは米飯のメニュー全般ということになる。主に米国(当て字だが皮肉な名前だ)から強制的に買わされる小麦の消費のため、私の小学生時代の給食の主食はパンばかりだった。確か3年生か4年生になったくらいの時期に、今度は国内の米余りが深刻化したので、米の消費を促進するという名目でようやく月に1回か2回の米飯が導入されたと記憶しており、それまではパンオンリーだった。

 

朝食にパンを食べる習慣のなかった家に育ち、農家に預けられて、おやつといえば握り飯だった幼年期を過ごした私としては、パンを主食とした「食事」には大いに違和感があった。今でこそ、レストランでのディナーの主食がパンであることに関しての抵抗は無くなったが、小学生時代の違和感はいまだに残っていて、ハンバーガーやサンドイッチを「食事」としてしまうことには引っ掛かりを感じる。これらは食事ではなく、あくまで「おやつ」だ。日本人の食事の中心はなんといっても米飯であるはずだ。最近は持病の関係で糖質を制限する必要があるので、炭水化物を摂らないことすらあるが、それでもやっぱり食事の中心はコメの飯だという認識は変わらない。おそらくDNAレベルで染み付いた認識なんだろうと思う。

 

コメの飯のバリエーションはあまりなかった。一番多かったのは白飯にカレーだったかな。なんといってもほとんどの子供が一番好きなメニューだったし。白飯に納豆という組み合わせもあり、納豆が苦手な同級生からこっそりもらって二パック飯にかけて「おお贅沢だ」と思ったという記憶もある。

 

その中で一番好きだったのは鶏肉入りの炊き込みご飯だった。当時の当家は両親が共稼ぎをしていたので、調理にかける時間があまりなく、手間のかかる炊き込みご飯などほぼ食卓に登場しなかった。父親がまた狂信的なまでの白飯信者で、ちらし寿司とか炊き込みご飯みたいに飯に色がついたものを好まなかった(というより嫌っていた)こともある。そんなわけで、炊き込み飯の時はお代わりをしてしまった。当時所属していたサッカーチームのコーチからは減量を目的にお代わりは禁じられていたので、同じクラスにいたチームメイトにチクられれば叱責を受けることはわかっていたが、炊き込み飯の魅力には勝てなかった。今でも、究極の選択として、世界一の美女と、世界一の材料を世界一の料理人が調理した炊き込み飯のどちらかを選べ、と言われたら、炊き込み飯を選んでしまうかもしれない(笑)。

 

最後に業務連絡。ちょっと日にちは経ってしまったが、四本目の記事がSPAIAに掲載された。

spaia.jp

 

ついでにYahoo様にも取り上げていただいた。

article.yahoo.co.jp

 

おかげさまでPVも伸び、今の所SPAIAのサイト閲覧の週間ランキングでは3位に着けている。今日の対ウルグアイ第二戦についても投稿する予定なので、掲載が決まったらぜひご一読の上、いいねとかファイスブック、ツイッターでの拡散よろしくお願いいたします!!

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全ての作品を「公式」に当てはめて観ることには疑問を感じはするものの… 『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』読後感

 

 

私のこの駄ブログは読書、身辺雑事、ラグビーそしてエンターテインメントを四本の柱と位置付けている。なんだかんだで、愚痴を書きまくる身辺雑事が一番多くねーかよ、おい?というツッコミもあろうかと思うが、自分自身の位置づけなのだから仕方がない(笑)。

 

エンターテインメントには、音楽やドラマ、時には演劇鑑賞やオペラなんかも入ったりするが、基本的には映画がメインだ。で、折あらばなんとか飯のタネにしたいとの欲望も持ち合わせている。その昔通っていた文章教室の講師の先生が映画評というものの市場の大きさ、参入のしやすさを力説してくれていたというのがその理由の一つ。新作を封切館で観まくるのは、消費する金額面、時間面からなかなかにハードルの高いオハナシではあるが、DVDなら1枚100円だ。たとえ一本千円にしかならなくても、かなりの利益幅にはなる。時給という観点から言うとコンビニのバイトの方がよほど高くはあるが(笑)。

 

で、当然のことながら、金になるかならないかは批評の仕方による。「こう感じた」「そう思った」だけではカネはおろかオハナシにもならない。その昔の大学時代、文学評論の講義を取ったことがあったが、その時の教授(韓国の歴代の大統領の誰かによく顔が似ていた)は「この作品について、私はこう感じました」とか言おうものなら『〜と感じたというのは「印象批評」と言って、文学作品の鑑賞の中では下の下です。もっと論理的に、どこがどう優れているのかを説明しなさい』と今の世なら「アカハラ」とか「パワハラ」とか追求されるであろう内容と口調で厳しく咎められた。私が今この駄ブログに投稿している映画評なんぞ(書評もそうだが…)、この教授に言わせれば「印象批評」の最たるもので、なんの根拠もなくただ面白かったとか面白くなかったとか書き散らかしているだけだ。

 

というわけで、多少なりとも鑑賞の「方法」について参考にならないかと思って買い求めたでろう一冊が標題の書。紙の本として買い求めたのでいつ頃なのかはわからないが、奥付をみたら初版が2011年だから、出てすぐに買ったとしても既に10年以上が経過していることになる。買った本はすぐ読むべし、というのは鉄則なのだが、ついつい多くなる積ん読山(今はKindleに溜め読だが)。

 

さて、この書は映画を批評するのではなく「分析」しましょうというのが主な論旨である。著者沼田やすひろ氏は映画産業振興機構認定の「シナリオ・アナリスト」であり、監修の東京工科大学メディア学部客員教授が金子満氏が提唱したエンタテインメントの普遍構造を取り入れて確立した「KNセオリー」を用いて、文中で実際にさまざまな作品を取り上げて分析を試みている。

「KNセオリー」がどんなもので、映画というものをどのような要素に切り分けて、その各々をどう分析していくのかについては是非本文をお読みいただきたい。目からウロコなお話は満載である。なんとなく「この作品、なんか物足りないなあ」とか「キャスト大したことないけど、面白かった」とモヤモヤと感じていたことに対する明確な答えがズバリと出てきそうな予感がする、ってこれも印象批評だな。実際にある作品を分析してみるのが一番いい例示になるのだが、そうなるとこの書評のために一本映画を見なきゃいけなくなってしまい、拙宅に来て大暴れしていった姪っ子ちゃんの面倒を見た上に、一本ラグビーの原稿を書いた今日のこの状態ではとてもそんな気力はないので、読者の皆様には思いっきりの肩透かしで申し訳ない。

 

ただ、次回の映画鑑賞記はぜひこの「KNセオリー」を用いた分析を試みてみたい。おそらく、自分がなぜその作品を面白く、あるいはつまらなく思ったのかを具体的に説明できるとは思う。

 

一方で、映画はそれぞれの人がそれぞれの観方で観て、それぞれの感想を持ってもいいものだという気もしている。何がなんでも分析の公式に当てはめて考えるというのも窮屈ではないかと思う。たとえばアイドルの顔見世興行的な作品を分析しても、おそらくつまらないという結論にしかならないだろうが、ファンはそのアイドルさえ出ていればそれで満足なのだ。この「目当てのアイドルさえ出ていれば」という状態の楽しみについてもちゃんと「分析」されてはいるが(笑)。

 

批評というものに関してのかなり有益な指標を与えてくれた一冊であることは間違いない。

「ずっとやりたかったこと」に一歩踏み出した今だからこそ読んで良かった一冊 『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』読後感

 

 

繰り返し書いているが、私は郷里への転居を機に、本格的に文筆業の方に舵を切った。とはいえ、会社には籍を置いたままでそっちの方の日々に追われているし、まだ小遣い銭にもならない程度のギャラしかもらえてはいない。SPAIAに書いた三本はそれなりに反響ももらえたので、完全なアマチュアブログ書きからは一歩前進できたというところか。

 

というわけで、今の私は、いかに文筆業者としての道を歩んでいくかに一番関心が高い状態だ。そんな時に我が友Kindle君のオススメリストで見かけたのが標題の書。私はすでに何歩か「やりたかったこと」への道へ踏み出しつつあるが、まだ何をやりたいかが定まっていない人に向け、どうやって、自分が「やりたかったこと」を思いだしてそこにエネルギーを集中させていったら良いかをアドヴァイスする一冊だ。

 

まずは現時点での自分の姿を明らかにするために「モーニングノート」を習慣づける。これは著者が「頭の排泄」と呼ぶ通り、とにかく頭の中のことを、文章になっているとかいないとかいう以前のレベルで、とにかく紙に書いてしまうことだ。

 

実はこの方法、私はすでに数ヶ月前から続けていた。きっかけはおそらく別の本だったと思うが、会社の方のこっつまらない仕事が散々滞って少しも進まない状態で、焦りだけが溜まっていくという状態を解消するためだった。やらなきゃいけないこと、焦っている心境、愚痴や不満、そして文筆業への思いと意志の確認、「どんなトラブルが起こったって大したことじゃない」という自分自身へのアドヴァイスなど、その場で思いついたことをとにかく書いてきていたのだ。まさしく頭の中身の排泄行為であった。

 

ここで引っ張り出したいのは「本音」だ。よく「明日地球が破滅するとしたら何をやりたいか」などという問いを自分自身に発して出てきた答えを実行に移す、などという方法が語られるが、ここではそんなに大袈裟に考える必要はない。とにかく今思っていること、頭の中にあることを吐き出しまくればいいだけ。著者はノートに3枚書け、とっているが、私はこの行為を「モーニングノート」と自覚し出した初日は8枚書いた。なんだかんだで、私は誤字脱字や文法的なミスなどが許せない(その割にポカミスはよくやるが 苦笑)ので、それなりに整った文章になってはしまったが、本当はそんなことに気を使う前に、まず頭の中に浮かんだことを文字なり絵になりして出してしまうことの方が大切なのだそうだ。で、出てきたものは最低3ヶ月は読まないようにすること、というのも重要なポイントらしい。なぜそれが重要なのかは是非とも本文にあたっていただきたい。

 

もう一つは自分の中のアーティストと「デート」すること。好きな音楽を聴くでもいいし、絵画や彫刻などのアートに触れるのもいい。自分の中のクリエイティブな部分を刺激するモノに触れてみること。この時間を強制的にでも週に1回以上取り、気持ちをリラックスさせ、美を意識すること。そうそう、ここしばらくクラシック音楽なんぞゆっくり聴く暇もなかったし、映画も観てないことに気づいてしまった。ブログを書いたり、記事を書くことがその代用となっているという効果も見逃せないが。

 

この二つを軸にしながら十二週間にわたってさまざまなエクササイズを行い、自分の中のアーティステックな感性を刺激し続けてみること。そこから生まれてくる、「表現」への欲求こそが自分にとって「ずっとやりたかったこと」だというのがメインの主張だ。

 

著者自身が劇や映画のシナリオを書いたり、小説を書いたりすることを生業としているためどうしても「表現」の方にお話が引っ張られていってしまうが、別に「お金儲けが絶対だ」でも「筋肉を目一杯つけてのとびっきりのマッチョマンになってやる」でもいい。自分の全てを賭けても惜しくないと感じられること、何よりもやっていて楽しいことを見つけ、そのことに集中するためにどうしたら良いかを考え始めることがこの本を読むことの目的だと思う。

 

読み終えて、ますます文筆業への思いを強くした私は、早速いくつかのWebサイトのライター募集に応募してみた。残念ながら首尾よく採用とはならなかったが、ラグビー記事を軸に徐々に書ける分野を広げていこうと思う。取り掛かったはいいものの、しばらく手をつけられていない小説もある。で、それらを書き切るためにはどうしたら良いかをこれからは「具体的」に考えていきたいと思う。

支離鬱々日記Vol.157(毎年の憂鬱とお題と業務連絡)

今週のお題「本棚の中身」

 

私の奉職する企業では、毎年社員の意識調査なる催しがある。ま、要するに、仕事に満足しているか、コンプライアンス違反が発生していないかどうかを調べるアンケートだ。

 

この企画自体は悪くない。こうした、意見を述べる場があるだけで社員のガス抜きになる場合があるとは、メンタルヘルスマネジメントのテキストにも書かれていたことだし、会社側もこの調査の結果を元に実際に改善策を打ってきたりもしてきたはずだ。人事考課結果なんかも随分とオープンにされるようにはなった。

 

ただ、私の場合、この催しははっきり言って憂鬱なだけでしかない。私が島流しにあった際の人事異動の理不尽さを訴えても、行きたい部署に行けていない不満を訴えても結局は黙殺されているし、何かの改善につながったとしても、その改善が具体策として示される頃には私はすでに定年で会社にはいないだろう。むしろ毎年毎年、自分の中の不満を思い起こさせられて非常に不快な気分になる。不快になるだけならいいが、結構なメンタルダメージになってしまう。昨日もこの調査に応じた後、高校時代からの悪友と楽しく飲んだのだが、今朝は心のほうが非常に重い状態で、会社を休まざるを得なかった。ちょうど出社日にも当たっていたのだが、夢も希望もない場所に行くのをココロが拒否してしまったようだ。決して、飲み会で染みすぎて調子が悪かったわけではない(笑)。体の方はほぼなんともなかったが、何しろ「今日はダメ」という強烈な感情に囚われてしまったのだ。

 

こんな日は何をやってもダメなので、一日寝床でマンガ本を読んでいた。3冊分ほど書評のネタはあったがブログにも手をつけることができず、夜になってようやく少し持ち直したので明日からの生活のための「リハビリ」を兼ねて、お題とちょこちょこ身辺雑事を書いているところだ。

 

お題にいってみよう。

 

本棚。今更のお話だが、現在の本棚はストックスペースとしては十分な大きさがある。現在手持ちの本を全て収納してもまだゆとりがあるのだ。こういう本棚を持つのが一つの夢だったので、それを叶えたことにはなる。若干、棚の高さの調整が不自由ではあるのだが、電子書籍の比率が高まりつつある昨今においてはほぼ理想の本棚だ。

 

本に囲まれて、十分な広さのL字型デスクがあって、デスクトップ、ラップトップ2台のPCとプリンターと自炊用のスキャナがあり、10万した椅子に座って、好きな音楽を聴きながら知的な活動(会社の仕事も嫌々ながら含む 笑)ができる今の書斎は実に快適な空間だ。こんな空間で過ごす時間の味を覚えてしまったら、会社になんか行きたくなくなるのは当然のお話である。

 

取り急ぎ、旧居から持ってきた本を収納してしまうことを最優先にして、本棚に詰め込んでしまったが、著者のアイウエオ順にするとか、カテゴリーごとにまとめるとかの根本的な整理をしたいというのが今の希望。ただ、それをやり始めると週末を丸々潰すくらいの覚悟が必要となるので、とりあえずは目に見えるところに未読の本を並べておくくらいの整頓しかできていない。死ぬまでに本棚の本は全部読み切れるのだろうか?なるべく紙の本の方を優先的に読むようにはしているがどうなることやら…。

 

最後に業務連絡。

 

TwitterFacebookには投稿しておいたが、5月の末くらいからSPAIAというスポーツ専門のサイトと契約を結び、ライターとしての活動をすることとなった。今の所三本ほど採用された。

spaia.jp

 

spaia.jp

 

spaia.jp

 

二本目と三本目はYahooでも取り上げてもらった。その割にPVが伸びてないが…。今の私には大いに励みになっているのは事実だ。

 

自分でラグビーを題材にした文章を書くようになってから、例えば同じ試合を他のライターはどう書いているのかが結構気になってきたので、今は自分の視点と同じところ、異なるところを心して読んでいる。今のところ、プロの先達たちとそんなに違わない視点で書けてはいるようだ。

 

きちんと取材して書いてる人の文章には、いろんな情報が盛り込めるので深みと広がりが増す。選手本人へのインタビューなどが現状では不可能な私にとっては羨ましい限りだ。逆にいうと、もっと試合を見ていただけではわからないことを書いていただきたいなとも思う。完全な偏見と独断だが、ラグビー関係者はコンテキスト読みが多いので、ニッチな情報がたくさん散りばめられている方が喜ぶような気がするからだ。

 

この他にも別名義でレシピサイトとも契約を結んだが、そっちの方はまだ目立った文章は書けていない。また、ほかに二つ募集に応募したサイトがあるが、一つは履歴書選考で落ちたしもう一つは返事待ちだ。何しろ、今は、一つのことに絞らずにあれこれ手を出してみようと考えている。文筆業に進む足がかりは多ければ多いほどいい。その分抽斗も増やしていかねばならないが、まあ、インプットはそんなに苦ではない。「正しく」インプットできているかどうかは甚だ疑問だが(苦笑)。

 

今日サボった分、明日、お江戸に行く羽目になってしまった。めんどくさいし、往復で疲れも溜まるし、何より会社という空間で仕事をすることは非常に苦痛なのだが、お金をもらっている以上仕方がない。行き帰りでしっかり本を読んで、会社では適当に流してしのぐことにする。