脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

まさに横綱の風格 『劇場版 パヴァロッティ ハイドパークコンサート』鑑賞記

gaga.ne.jp

 

当家の最高権力者様がバイオリンのコンサートに行った際に、もらったパンフに、街中の小さな映画館で上映されていることが書いてあったので、早速観に行ったのが標題の作品。1991年にロックフェスティバルで名高いロンドンのハイドパークで上演されたパヴァロッティのコンサートを映画化したもの。映画とはいうものの、別にストーリーがあるわけではなく、ただただパヴァロッティの美声に聞き惚れるための一作だ。

 

唯一、ちょいとしたストーリーっぽかったのは、歌劇『マノン・レスコー』の中の一曲を「皇太子殿下のお許しが得られれば、ダイアナ妃に捧げます」と前置きして歌ったことくらいか。翌年にチャールズ皇太子とダイアナ妃の不仲は決定的なものとなり、別居に至るのだが、この時は内心はともかく、表面上は仲良く連れ立って鑑賞してはいた。

 

まあ、何しろ歌声が素晴らしかった。この駄文の表題に「横綱の風格」などと書き殴ってしまったが、「楽器」としての堂々たるガタイはそんじょそこらのブルドーザーくらいなら弾き返してしまうほどの安定感を誇り、そこから発せられる声たるや、公式ホームページに躍る「神に愛された奇跡の歌声」などというコピーがチンケな表現に思えてしまうほどの美しさと声量だった。

しかも決して無理をしている風がない。実際は体内で横隔膜がフル稼働してはいるのだろうが、楽々と、易々とという風情で、素人が出したら2秒で喉が潰れるほどの声を出して見せているのだ。しかも、演目は、各作品のいいとこ取り。誰もが知っているお馴染みのナンバーが次々と繰り出されるのだから、観客には熱狂するなという方が無理だ。生憎の大雨を降るそばから蒸発させてしまうほどの熱気が観客席を包んでいた。イタリアのカンツォーネの代表曲『帰れ、ソレントへ』や『オー・ソレ・ミオ』なんかの前にはロックのコンサートもかくやと思わせるような大歓声が上がったし、ど定番中のど定番である『誰も寝てはならぬ』なんざ失神者が出てもおかしくないほどの盛り上がりだった。

 

3年前に素人歌劇団でオペラの舞台を踏んで以来、少し真面目に声楽ってやつをやってみようと思い続けている身としては、何か参考になることはないかと考えて観に行ったのだが、凄すぎて参考もヘッタクレもなく圧倒された思いだった。喉を絞り上げるのではなく、文字通り腹の底からの声を響かせる。一番の基本だが、一番難しい。そういう意味では神に愛された奇跡の声というよりは奇跡の横隔膜と言った方が良いと思う(笑)。もちろんパヴァロッティ氏はその横隔膜を声を出すということに最大限に特化できる才能も、作曲家の意図を十二分に読み取る音楽的才能も持ち合わせているからこそ「歌手」として世界に冠たる存在たり得ているのだが。

 

観終えて、もう一度声の出し方を本気で訓練してみようと思ってしまった。流石にテナーは難しいが、バリトンまたはバスのキーで出来うる限り自分の体を楽器と化す訓練を続けていきたいと思う。

自分を気分良く動かすためのテクニック解説書 『しんどい心がラクになる ココロちゃんの取り扱い説明書(トリセツ)』読後感

 

 

昨日金曜日に、ようやく、ここ数ヶ月の懸案事項であった資料の作成と送付が終了した。ローデータは年初には揃っていたので、速さが尊ばれる「会社のお仕事」としては懲戒処分ものの遅い仕上がりではあったのだが、資料の前提条件が三度も変わるという「激変期」があったためか、「変化を反映させるために完成が非常に遅れてしまい、申し訳ありませんでした」という私の謝罪はストンと受け入れられ、むしろ感謝までされた。提出先もその変化に対応しようと思ったら、相当な手間がかかることを、この資料以外の業務の経験で理解してくれていたのだ。

 

ホッとした反面、ちょっと意外な気もした。遅れを大事として色々言ってくると予想していたからだ。この予想にひきづられて、特にここ数日憂鬱な気分になっていて損した気分だ(笑)。

 

私の場合は、この「根拠のないネガティブ予想」で標題の書でいうところの「ココロちゃん」を疲弊させてしまうことが多いようだ。軽度の疲弊なら会社を休んで一日好きなことをやっていれば回復するが、重い疲れを感じたらココロちゃんは仮死状態(うつ発症して長期の休職など)になってしまったりする。

 

また私のココロちゃんは非常にプライドが高く、自分が軽んじられたと感じると、怒りを沸騰させる。しかもその怒りを持続させやすいし、再発もさせやすいので、ここで浪費させられるエネルギーもバカにならない。でエネルギーの浪費が蓄積していくと先にも書いた「仮死状態」が発生する。悩んでいたり、怒っていたりしても、現実は変わらないのだから無意味であるとはわかっているのだが、ついついこうした負の感情に囚われてしまうのがココロちゃんなのだ。

 

標題の書は、この取り扱いが難しいココロちゃんを上手く転がしていくためのテクニックが44通り紹介されている。程度の差はあれ、誰にとってもココロちゃんは誇り高く、傷つきやすく、ワガママな存在だ。意志の力で一旦は抑え込むことができても、どこかでその鬱積が爆発してしまう可能性は常に抱えている。俗に「公務員は定年を過ぎるとコロッと亡くなってしまうか、認知症になる確率が高い」などというが、これなどは制度や法律と現実との間で苦しみ続けたココロちゃんの反乱そのものではないかと思う。「風邪は万病の元」などともいう。ココロちゃんが「風邪ひいたかな?」くらいの軽い不快感を感じているうちにしっかりとケアしておくこと、またそもそも風邪をひかないように予防策を講じておくことが実は最も重要なオハナシだというのがこの書の根本思想だ。

 

テクニカルな内容については是非とも本文をお読みいただきたい。何か一つくらいは自分に合った方法が出てくるだろうし、内容を参考に自分で方法を編み出しても良い。ココロちゃんが「快適」だとはどういう状態か、ココロちゃんを傷つける「内なる自分」はどんな攻撃をしてくるか、を把握するだけでも、ココロちゃんをケアする上では大いに役立つ。「勝利の方程式」ではないが、「こうすれば高い確率でココロちゃんが機嫌を直す」という方法までが確立できればしめたもの。この方法まで試してダメだったら医者に行くしかない、なんてなことの目安にもなる。

 

人間誰しも「自分が一番可愛い」という気持ちをその根底には持っている。そして、自分のことを一番可愛がれるのもまた自分自身だ。しかしながら、その具体的・効果的方法までを掴んでいる人間はあまり多くない。精々が酒を飲むとかカラオケを歌う程度のお話だろうが、ココロちゃんには良くてもカラダにはあまりよろしくないし、刹那的な憂さ晴らしにはなっても長期的なケアにはつながらない。一発逆転の必殺技よりも毎日コツコツとケアしていくことが肝要。何しろケアが一番影響してくるのは自分自身なのだ。

好きなことを仕事にしたい人への絶好の「ガイド本」 『0点主義 新しい知的生産の技術57』読後感

 

 

博覧強記の博物学者にして、出す本出す本すべてが私にとっては実に興味深いものばかりという、私の理想像の一人荒俣宏氏が、自らの知的生産の技術を紹介した一冊。

 

「知的生産の技術」と書いたばかりで恐縮だが、一つ一つのテクニカルなお話については是非とも本文をお読みいただきたい。私は一番最初の「0点主義」という言葉の意味を説明した「はじめに」の部分でコロリと参ってしまった。

 

学びが本業であるはずの学生時代、勉強というのは苦しい、つまらないもので、特に小学校、中学校のお勉強は親から強制されていやいややっているモノだった。これは結局役に立つか立たないかわからないのにテストをパスするために無理やりやらされていたからだ。もっとも、そこで基礎学力をつけておいたことは大学での学びには大いに役立ったし、勉強を一定時間するという「習慣」は、特にサラリーマンになってから、一定時間の間、やりたくもないことをやり続けてもなんとか凌いでいける耐性に繋がってはいったので、今から考えれば無駄な経験ではなかったと判断できる。

 

「勉強」とは自分の知りたいことを知り尽くすという行為で、人間にとっては最も楽しい行いであるはずだ、というのがこの書で荒俣氏が最も強くうったえていること。そしてその学びを稼ぎにつなげることができればこれ以上の幸せはない、とも語っている。さらにいえば、この世にニッチな分野はそれこそ無限にあり、そこを突き詰めていけば、十分に食っていけるだけの収入を得ることは決して難しいことではないという自らの体験に基づいたリアルなお話までも綴っている。

いやあ、その通り。

 

自分の好きなことを突き詰めていくのは、間違いなく楽しいことだし、それが収入にもつながるのならそれに勝る喜びはないだろう。その上、自分の探り当てた「鉱脈」がもしかしたら世の中に大いに受け入れられ、一気に有名人になったり、大金を掴むことだってできるかもしれない。クーっ、そんなことになったら脳みそ沸いちゃうわ!!!

 

壮大かつ幼稚な妄想はさておき、自分の知りたいことをとことん知り尽くすという行為は人生における最上の快楽であることは事実だ。そしてそれをただの自己満足にしてしまわずに世に問うことも「承認欲求」の充足という意味で快楽の一種である。私も齢50を過ぎてからようやく本格的な「勉強」とその表現に向けて本気になったので、具体的行動として、二つのWEBサイトでモノ書きを始めたところだ。まだ、そのサイトで取り上げられるほどの文章は書けていないが、自分の中では明確にスタートを切った。

 

俗に「下手な考え休むに似たり」というが、放っておくとネガティブ自動思考が暴走して「どうせ俺なんか何やったってダメだ。ああもうこんな人生生きてる価値ない。とっとと死んじまって楽になるか…」とまで考えてしまう割に、自死を実行するのも面倒くさくなって、結局その場から動けずに悶々とだけするという行動パターンに陥りがちな私としては、まず第一歩を踏み出したということだけでも大きな変化だ。この本が直接的なきっかけとなったわけではないが、自分のこれからの行動の後押しとなったことは事実だ。

 

追求することが楽しい、面白い、と思えるニッチな分野を探し、まずはその分野の知識を身につけていくことが第一。金にはつながるに越したことはないが、そうならなくても仕方ない。会社の仕事はカネを得るためだけに行うが、そこでもニッチを探す努力だけは行う。こんな姿勢で「仮面サラリーマン」を続け、還暦の声を聞くまでにはなんとか文筆業者として一本立ちしていたい。これが現在の大目標である。

死に様は生き様 『アウトロー臨終図鑑』

 

 

Kindle君がご親切に「お客様へのおすすめ」としてラインアップしてくれていたのが標題の書。ころりと引っかかって、衝動DLしてそのまま一気読み。お江戸への通勤往復でほぼ読み切ってしまった。眠気を誘われないほどに面白かったのだ。

 

浅学にして知らなかったが、著者山平重樹氏は「ヤクザライター」としては第一人者らしい。ウィキペディアには「ヤクザ」というワードをズバリ組み込んだ題名の本がずらり。書籍のみならず、ヤクザの社会を描いたコミックの原作もあるし、映像化された作品も多数ある。

 

日本社会のアウトローの代名詞といえばやっぱりヤクザで、この書にもヤクザの親分の死に様が多数取り上げられてはいる。しかしながら、この書の「アウトロー」はもうちょっと範囲が広い。いわゆる一般常識からかけ離れた生き様の人物は全てその範疇に含むようである。例えば山田かまちは全く犯罪には手を染めていない。17歳というあまりにも短い生涯を終えるまでに、多数の優れた絵や詩を創作した。そして、生きていれば一体どんな優れた作品をどれだけ世に出しただろうという期待をよそに不自然な死に方をしてしまったことで、半ば伝説の存在となってしまった。

 

尾崎豊横山やすしもそのほかに取り上げられたヤクザの面々からすれば大した罪は犯していないが、芸能界という「半グレ」状態の業界の中でもひときわ輝く「異端者」たちだった。

 

その他、学生運動から過激なテロリストに転じた団体の首謀者やら、新興宗教の教祖やらも取り上げられているが、自死を遂げた者、敵対者に殺された者、壮絶な闘病の末に志半ばにして倒れた者などが総勢七十名取り上げられている。

 

各々の方々の死に様は是非本文に当たっていただきたいが、どの方にもそれぞれの物語があり、その方なりの正義を持って生き抜いたことがわかる一冊となっている。ただしその「正義」は必ずしも社会には受け入れられなかったことだけは共通している。

 

意外に思えたのは児玉誉士夫氏。彼は戦中から日本軍の特務を請け負い、戦後のどさくさに乗じて海軍の在留資産を我が物とし、その莫大な資産をバックに政界を裏から操ったと言われており「フィクサー」と呼ばれていた。晩年にはロッキード事件の首魁と目されていたが、衆議院の証人喚問を病気を理由に欠席して、ついに司法の手は届かぬままに終わった。そのことに憤慨した俳優がセスナ機で邸宅に突っ込んで自爆するという「テロ」を起こしたが、児玉氏はそのセスナ機が突っ込んだ場所に祭壇を設けて、俳優を追悼し、「まだまだ日本も捨てたもんじゃない。己の身を捨てて何かを正そうとする。こうした若者がいるんだからな…」と側近に語ったというエピソードが紹介されていた。この話をどう解釈するかは人それぞれだと思うし、私自身も「何を今更」という気はしたが、少なくとも彼には自らの命を狙ってきた人物をも理解しうる器の大きさはあったのだという気はした。

 

全編を通じて感じたのは山平氏の「ヤクザ映画愛」とでもいうべき心情。任侠映画が世の男たちの心を熱くしていた頃の「弱気を助け、強きを挫くのが真の男」という物語をこよなく愛してることが窺える文章がそこかしこにみられるのだ。体制に与しない者たちが、自らの信義に基づいて強大な敵に挑んでいく…。ベッタベタのヒロイズムであり、ヤクザの正義が巨悪を正す世界なんてのは一種のユートピア幻想だとは思うが、そこで描かれる男がカッコ良く映るのは事実だ。

 

「普通」の生活を送っている人間の周りには、暴力はズバリ目に見える形ではなかなか表れてこない。したがって、「ヤクザ映画」というのはリアルな世界において暴力に最も近しいと考えられるヤクザの世界を舞台とした、アクションヒーローものだ。少なくとも我々の世代の「男の子」にとってはアクションヒーローに胸を熱くするのは通過儀礼であり、その時の胸の高まりは幾つになっても胸の奥に熾火として残っているものだ。ある時代の「大人の男」にとっては「ヤクザ映画」は胸の奥の熾火を心置きなく燃やせる代償行為としての価値は大きかったのだと思う。今は、変なヒロイズムよりも、いかに女の子のハートを射止めるかの方に重きが置かれているようだが。

 

読後、私は一体どんな死に方をするのだろうか?死ぬ時に悔いのない生き方ができているか?というかなり重い問いを自分に発せざるを得なかった。少なくとも今の生活を続けている限りは悔いしか残らないよなぁ…、と思いつつ電車を降りた。

「ダイエット」は減量ではなく生活そのものを改善すること 『プロ格闘家流「できる人」の身体のつくり方』読後感

 

おそらくは先日紹介した↓の文庫Xと一緒に買い求めた一冊。

www.yenotaboo.work

 

格闘家としてトップクラスの選手だった戸井田カツヤ氏によるダイエット指南書。

 

柔道もボクシングも、そして戸井田氏が活動の場にしていた「総合格闘技」も体重別にクラス分けしてコンテストする競技だ。そしてそうした競技につきものなのが減量。試合そのものやトレーニングよりも減量するのがキツくて競技を辞めてしまったり、クラスを変えて行く選手もいる。

というわけで、自分が理想とする体重のクラスで頂点を目指そうとすれば、筋力やフィットネスを落とさずに体重を減らし、それを維持していく努力は欠かせない。特に難しいのは「維持」で、一度減量に成功した人も1年後には半数以上が元の体重(あるいはそれ以上に)にリバウンドしてしまうという調査結果もある。ご多分に漏れず、私も何度もダイエットとリバウンドを繰り返してきた。つい最近のダイエットは糖尿病の予備軍と診断された上での切羽詰まったモノだったせいか、比較的長く続いたが、半年前に新居で田舎暮らしを始めた途端、車を使う時間の長い生活になってしまったり、食事の量が増えてしまったりで、リバウンドしつつある。年齢的にも痩せにくいカラダになってしまうリミットだし、まだまだオジサンチームラグビーだって諦めたくないと考えて、もう一度真剣にトレーニングをすることは決意したのだが、今回こそはリバウンドさせたくないと考えている矢先に積ん読棚で見つけたのが標題の書というわけだ。

 

基本的には、オーソドックスなダイエット指南書という印象。基本的に摂取するカロリーを抑えて、パワーを落とさないためのトレーニングを継続していくことで健康的に痩せていきましょうという内容だ。

 

この本の特色は特に「維持」に力点が置かれているところ。格闘家の試合前のようなきつい減量は短期間ならできても、1年、2年と続けることはなかなか難しい。週に何度か負荷的にはきついものの短時間で終わるトレーニングを行い、筋肉量を増やしてカロリー消費しやすい体を作る一方で、「一日三食」という常識を捨てて、基本的にはトレーニングした日を二食に、トレーニングしない日は一食に減らすことで摂取カロリーを少なくして行くことに「慣れて」いきましょうというのがその主張するところ。

 

糖尿病の医者に栄養指導を受けた際にやはり「一日二食で十分」という指導を受けていたし、筋肉量を増やすことはカロリー消費以外にも成長ホルモンの分泌を促し、「やる気」にもつながるのだ、といういいことづくめのお話、大いに感心した。

 

とはいえ、ここで必ず心に浮かんでくるのが「時間がなくて」とか「つい面倒くさくなって」とかいう言い訳。自分自身にそんな言い訳をする隙を与えずに、何しろ決めたことなんだからやるんだという「思考停止」を決め込んで何しろトレーニングする場に行っちゃいなさい。そのうちにカラダのほうが「トレーニングしないと気持ち悪い」って状態になるからそうなれば自然と続くよ、という言葉にも説得力があった。そうそう、「決めたことなんだからとにかくやる」という姿勢は何をやるにしても大事。会社の仕事然り、文筆活動然り。やることをやらずにいろんなことを考えているだけではモノゴトは前に進まない。まずは行動あるのみ。ここ数ヶ月、私が心してきたことを肯定する内容にはうなずく他なかった。

 

そんなわけで今朝はまず、負荷の重いステッパーを30分ほど踏んだ。本の中には戸井田氏が実際に用いているという器具を一切使わないトレーニング方法も紹介されていたので、こちらも後に再度熟読して取り入れられる方法は取り入れていこうと思う。一軒家のいいところは家の中で多少荒っぽいことをやっても、隣家とは距離があるので迷惑にならないところだ。体幹を鍛えるためにサッカーの長友選手が使用しているという「 Flow in」というトレーニング用のマットもしばらく納戸に眠ったままなので、引っ張り出してきて利用しようと思う。

 

食事に関しても、「一日二食」という習慣は配偶者や介護対象の母の存在もあって制度化するのは難しいので、一食一食のカロリーをなるべく抑えることを心がけたい。また、改めて、自分の行動を記録しておくことの重要性も説かれていたので、食ったものと体重体脂肪の記録はつけていこうと思う。

ちょうど月も変わったことだし、新しいチャレンジにはいいきっかけになった気がする。カラダという「入れ物」が整っていないと中身のココロも整わない。何をやるにもまずはカラダ、である。

 

支離鬱々日記Vol.153(お題とGW前半戦)

今週のお題「好きな街」

 

世は大型連休真っ盛り。2年ぶりに何の規制もない状態で迎えた今年は、海外で過ごす人も多そうだし、国内各所の人出もそれなりにありそうだ。当家も昨日は久しぶりに軽井沢のアウトレットに行ったが、駐車場に入るのに少々時間を要するくらいには混んでいた。昨年の秋に行った時はすんなり入れて、しかもかなりの好位置に駐めることができたのだが、今回は店舗からはかなり離れた場所にしか駐車できなかった。まあ、運動不足の解消にはちょうどよかったが。

 

関東地方は天候が不順だし、東北地方には季節外れの雪が降ったりで、決して外出に適した日和ばかりではなさそうだが、そろそろ羽を伸ばしたい人も少なくないだろうし、迎える店や観光地の方も、経済的に苦しかっただろうから、人の動きが活発になるのは良いことなんだろう。ただしまだまだ用心は必要だ。私の職場でもつい最近コロナ感染者が発生した。重症者こそ減ってはいるが、感染リスクは相変わらず高いし、軽症で済んだ人は却って後遺症の方が重篤だったりするらしい。いずれにせよ、外出時にはマスク着用、帰宅後はうがい手洗いを励行するという習慣だけは続けていかないといけない。

 

本当なら当家も明日と6日を休みにして、ぶっこ抜きの10連休を取りたかったのだが、残念ながら会社の業務の都合で両日とも勤務。しかも明日はお江戸に出勤しなければいけないということで、すでに日曜夕刻の憂鬱さが到来。まあ、明日行けばまた三連休だし、今回は帰りに少し寄り道もして来ようと考えているので、いつもの憂鬱さに比べれば数段軽くはあるが。

 

その他、この連休中には再開したライティングの方の仕事の締め切りなどもあるので、全くの休みというわけでもない。まあ、好きで始めたライティングの方は全然苦にならないし、むしろ久々に「プロ」としてモノを描くことに関してはワクワクしている状態だ。多少なりとも収入につながることでもあるし(笑)。

 

さて、お題に移ろう。

 

何度か書いている通り、私は郷里の街に引っ越してきており、現住所が終の住処となる予定である。現在の土地は別に住みたいと考えていた土地ではなく、いろんな巡り合わせで、家を建ててしまった土地だ。ただいまこの土地及び近隣の自治体の愛すべき部分を探すためにいろんなところをウォッチしている状態だ。まあ、別に『ポツンと一軒家』に登場するような孤立した場所でもないので、歩いて行くには少々遠いが、近所にはコンビニもスーパーもショッピングセンターもある。役所や銀行、各種の医者も同じような状態。ターミナルステーションにも近いし、特に不便さは感じない。ちょっと手に入れにくいものは通販で買えばいいし、空気はうまいし、郷里の美しい山々を眺める空間の余裕もあるしで、週に一度お江戸行きも本当は遠慮したいところだ。

とはいえ、今までに住んだ街の中で一番魅力的だったのは東京の街だ。浪人時代に住んだ下北沢である。

 

今やカレーの激戦区であったり、古着屋が多く、古着好きの若者たちの聖地化したりと色々な顔を持つ街だが、30年前も素敵にとんがっていた街だった。駅を中心とした繁華街はもちろんのこと、ちょっと離れた住宅地にも普通の家並みの中にいきなりブティックやら、カフェやらが紛れ込んでいて油断ができない街だった。お洒落なレストランから小汚い居酒屋やショットバーまで雑多な店が狭くて曲がりくねった道にずらりと並んでいたりもした。本多劇場スズナリなど劇場が多々あったせいもあってか、有名無名問わず、芸能人もよく見かけた。柄本明氏が、息子の佑氏を乗せた乳母車を推している姿を見かけたこともある。

 

もし東京の大学に通うことになったら、この街に住み続けたいな、と思わせてくれた街だった。残念ながら東京の大学には合格せずに都落ち。もっとも、当時の実家の経済状態を考えたら、仮に東京の大学に受かっていても学生の身でこんな家賃の高い場所には住まわせてはもらえなかっただろう。下北沢は街自体に魅力もあるが、小田急線と京王井の頭線が乗り入れる交通の要所で、新宿や渋谷にも近いため、家賃もかなり素晴らしい水準だったのである。予備校には予備校の寮から通っていたので、家賃を意識する必要がなく、大学に受かりさえすれば勝手に住み続けられると甘く考えていたが、当時出始めた賃貸物件の雑誌などを見て、月8万程度の家賃でも、ほぼ物件なしという状態だったので非常に驚いた記憶がある。

 

もしあの時、東京の大学に受かっていて下北沢に住み続けていたとしたら、私は一体どんな人生を送ったのだろうかと考えてしまうことがたまにある。都市部の大学でラグビーをやったとは考えにくく、文化系のサークルにでも入るか、劇場が近いことに感化されて小劇団にでも入るかして、スポーツとは縁遠い生活を送ることになった可能性が高く、そうなるとタダのデブとして今頃は今以上に不健康な身体となっていたであろうという予想が成り立つ。もしかしたら今頃は生活習慣病重篤化してもっと深刻な病気に罹っていたことだろう。

 

そういう意味では田舎の大学に通うことになったことは幸運なことだったのかもしれない。今の私がもし下北沢に住む可能性があるとしたら、ライティングの方の仕事で一本立ちして下北沢に住んでも負担にならない収入を得た場合のみだ。今の所、実現性は限りなく0に近い(苦笑)。

著者の執念に恐怖感すら感じた渾身のルポルタージュ 『殺人犯はそこにいる』読後感

 

2016年頃全国の書店の店頭を席巻した「文庫X」。当時私の定番立ち寄り場所だった三省堂の池袋店でもある日山積みになっており、その場で衝動買いしたのだが、結局カバーも取らず書棚の片隅に眠ること約6年。新居の本棚の整理中に目に留まったのでカバーを取ったら出てきたのが標題の書。

 

副題の「隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」についてはすぐにピンときた。発生場所の「北関東」とは栃木、群馬両県にまたがる地域で、私にとっても多少の土地勘のある土地である。四件の殺人事件と、一件の行方不明事件の計五件からなる事案で、特に最後の行方不明事件に関しては、発生当時、両親が幼児をパチンコ店に連れて行った際に発生したということもあり、「あんなところに子供を連れて行くから悪いんだ」と思ったことを覚えている。今ならネットが大炎上して、犯人よりも両親の方に批判が集中するであろうことが想像される事件だ。

 

そして、この連続幼女誘拐殺人事件は、警察により、一人の被害者を産んだ事件としても記憶に残っている。DNA鑑定という犯人特定の「切り札」と警察がもっとも重視する容疑者の自供という二つから犯人と特定された無実の男性が17年半にも及ぶ年月の間刑務所暮らしを余儀なくされるという冤罪事件を引き起こしたのだ。

 

著者清水氏がこの事件に関わり合いを持つようになったのは2007年のこと。当時日本テレビの記者として活動してた清水氏は、上司から「ACTION 日本を動かすプロジェクト」という報道番組で「未解決事件」の取材を打診されたことに端を発する。そこで目に留まったのが、前述した行方不明事件。1996年に発生したこの事件は当時誘拐事件と判断されてはいたが、捜査は行き詰まっている状態だった。発生当時にこの事件を取材したこともあったという清水氏は、この事件に着目し、そこから警察をはじめとする、高い厚い壁たちとの「戦い」に突入していく。

 

具体的な清水氏の行動については是非本文をお読みいただきたい。私の駄文の数万倍も巧みな文章で、時間を忘れて読み耽ってしまえるほどの迫力がある。捜査の鉄則「現場百回」を地でいく、遺体発見場所、誘拐が発生したパチンコ店などの現場検証、遺族や捜査関係者への聞き取り取材、DNA鑑定の信憑性の追求に取り組むのだ。各々局面では各々の困難さが立ち塞がる。

遺体発見場所や事件発生現場は、すでに十数年の年月を経ており、発生当時の状況を再現するのは不可能。警察にとってはすでに一人の男性が逮捕され最後の一件を除けば「解決した事件」であり、今更間違いを発見されては名誉が傷つくだけなので、調査に協力する気などもとよりない。指紋の採用依頼の画期的科学的捜査方法と言われているDNA判定の関係者たちはその採用を本格化させたいため、鑑定結果の間違いなどあるはずがないとして猛反発。清水氏は時に自身の行動を虚しい努力なのではないかと挫けそうになりながらも、強い信念で取り組む。彼が驚くべきタフさで取材に当たる理由は、本の終末近くで語られるので、そこもお読み逃しなく。

 

彼の執念は、マスコミの報道によってさまざまなバッシングを浴び、深く傷ついた遺族や目撃者たちの心を動かし、警察や検察は再捜査をせざるを得なくなり、その結果として、犯人確定時のDNA判定は証拠としての正当性が否定され、また自白を強要されたという事実も浮かび上がってきたことで、犯人として逮捕された男性の無実が証明された。まさしく「日本を動かす」ことに成功したのだ。

ただし、これで事件が解決したわけでもなく、どこかにいるはずの真犯人はいまだに逮捕されていない。清水氏は取材の中で、真犯人を特定していく。殺害された幼女の一人と一緒に歩く姿がアニメの『ルパン三世』に似ている、という目撃者の印象からこの書の中では「ルパン」と呼ばれることになる、その人物への直撃取材も清水氏は行っている。直撃取材の際の印象で清水氏は「ルパン」が真犯人に違いないという確証を得るのだが、警察は動かない。この連続誘拐殺人事件において無実の男性を犯人と認定してしまったのみならず、幼女二人が殺害された「飯塚事件」の犯人逮捕の決め手となったDNA鑑定の結果の信憑性にも疑いが出てきてしまったのだ。法廷の場で「疑わしきは罰せず」という原則が貫かれるのは良いのだが、警察で「疑わしきは捜査せず」となってしまうのは、警察の存在自体を揺るがす由々しき事態のはずだ。しかし警察は動かない。

 

最終章で清水氏は「ルパン」に向けてのメッセージという形で、自らの取材が、ついに彼の逮捕にまでは繋がらなかったことの無念さを語っている。この章がとにかく怖い。文字の力で、ここまでの怖さを出現させることができるのだ、と驚いたくらいの迫力なのだ。この章を読んだだけでもこの書を読んだ価値がある。もっとも、清水氏の執念の取材という「前フリ」があったからこそ効いてくる怖さではあるのだが。

 

この書は各所で多大な反響を呼び、いろいろな賞も受賞したそうだが、そうした評価に納得のいく一冊だったように思う。