脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

二転三転どころか七転八倒のビックリ箱 『フェイク・マッスル』読後感

 

 SNSをダラダラと眺めていた際に、広告投稿に引っかかって衝動DLして、そのまま溜め読状態になっていた一冊。さほど期待していなかった一冊だったが、思いもよらぬ拾い物だった。

 

近年の「アイドル」は男女ともに以前は「アイドル」には求められなかった「特殊技能」を売り物に芸能界を渡り歩いて行っている人が多い。見た目が良いことはもちろん、歌、ダンスはできて当たり前。それ以外に、例えば高学歴を背景にしてクイズ番組で高得点を挙げるとか、ワイドショーで、ニュースに対してシビアな意見を述べるとか、あるいは司会として番組を取り仕切って「回し」て見せるとか、玄人裸足の料理だとか、本格的にコントに挑戦してしっかり笑いを取って見せるとか。その昔、デビュー前に陸上部に所属していたことを売りに芸能人運動会で優勝しまくっていた国生さゆりが「鳥無き里の蝙蝠」と揶揄されていた時代とは文字通り隔世の感がある(笑)。

 

標題の書の「表」の主人公は様々な「付加価値」を求められるアイドル界においてボディ・ビルのコンテストで上位に入賞したことで注目を浴びるようになった男性アイドル大峰颯太。彼のつけた筋肉はドーピングによるものではないかという疑問が、プロ・ボディビルダーから世に示され、炎上しかかったものの、大峰本人が疑惑を否定したことで、一旦は沈静化。しかし、ボディー・ビル界隈の人間を中心に、まだその疑惑は燻り続けているという状態。

 

そして、その疑惑を追及するように命じられたのが「裏」の主人公、松村健太郎。文芸誌の編集者を目指して出版社に入社したものの、意に染まない雑誌記者に配属されて2年目の若手社員。仕事に身が入らず、簡単な用件すらまともにこなせずに、早くも「戦力外」認定がちらつき始めているダメ社員という設定だ。この状態、業種こそ違え、希望した部署とは程遠い営業第一線にいきなり放り込まれた、30数年前の新卒の私とまるっきり同じだな、と苦笑してしまった。

 

松村は、大峰がプロデュースし、実際にパーソナルトレーナーを務めることもあるという、トレーニングジムへの潜入取材を命じられる。首尾よく疑惑の究明に成功すれば、希望の部署への異動を叶えるが、同時にもし失敗すれば退職必至の窓際部署へと追いやられるという脅しも半分含まれた業務命令だ。この辺も私の新卒時代と一緒(苦笑)。もし松村が目の前にいたら、よせよせ、そんな命令こそフェイクに決まっていると経験談も踏まえじっくり説得してやりたいところだ。

そして物語にはもう一人、大峰を陰で支える恋人という竹中彩佳という女性も登場する。松村とこの竹中両名がそれぞれの視点から大峰という人物をどう捉えているのかを描くことでストーリーは進んでいく。

 

そしてストーリーについてはもうこれ以上は紹介できない。何をどう説明しようとしてもネタバレに繋がってしまうからだ。もうこれ以上は本文をお読みください、としか言いようがない。松村の前にも竹中の前にも様々な困難や謎が開いて出てきて、それを両名がどう乗り越えていくのかが一つの読みどころなのだが、その謎やら困難が一々後々の謎解きの伏線となっているので、一つたりとも具体的な例を挙げるわけにはいかないのだ。

 

最終的にはハッピーエンドに繋がり、全ての謎、そして最大の謎である大峰の問題についても見事な解決が示されるとだけ述べておこう。さらにいうと、ダメ社員松村の逆転劇もある。うーん、これ書いただけでも興を削ぐ恐れがあるな…。

 

2時間ほどで一気に読んでしまった一作。2時間を夢中で過ごすに足る一作だったと思う。

 

支離鬱々日記Vol.224(休職日記Vol.62 お題と徒然)

今週のお題「梅」

 

実に約2ヶ月ぶりの更新。暇さえあればゲームに費やすという悪習慣が素敵に身についてしまい、こっちの更新に割くエネルギーを空費していたためだ。このままではいかん、という気がようやく高まってきたので、その気持ちが消えないうちにネタを書き切ってしまおう。

 

まずは、悪習慣を断ち切ろうと決意したきっかけから。少し前の通院上京時に、少し時間があったので、久しぶりに池袋のジュンク堂に行き、目についた本を何冊か買い込んできた。その際に手にしたのが↓。

 

私はもともと英語を「手に覚えさせ」てきた。大学受験時に駿台の『英語構文詳解』という参考書にあった例文をほぼほぼ丸暗記するくらいに書きまくっているうちに、なんとなく英語の正解率が高まって行ったという経験をしており、それ以来、英語に限らず「勉強」する際はとにかく紙に書いて記憶するという方法で乗り切ってきた。ジュンク堂訪問の際も無意識に「書いて覚える」ためのテキストブックを探していた気がする。そんな時に目に飛び込んできたのが↑の書というわけだ。

 

早速買い求めたのだが、それでも使い始めるためには約2週間を要した。ゲーム依存から抜け切ることができなかったからだ。なんとか昨日あたりから「やらねば!!」という気持ちの方が勝るようになり手をつけることができた。

 

そして始めた1話目の内容は「新しいものを買い求めるより、現在の手持ちのモノを活用することのほうが豊かだ」というものだった。身の回りにあるものの活用…、おお、活用すべきモノが目の前にあるではないか!!

 

もう1年近く前に買い求めた品。最初の数ヶ月は結構マメに使っていたが、最近は机の上のインテリアの一部としてホコリをかぶっていた状態だった。で、早速鉛筆に装着して「勉強」開始。勉強→実施時間の可視化→さらなる学習意欲の醸成、というこいつが目的としているサイクルに見事にハマった。なるほど、身の回りのモノの価値を見直すと豊かな気持ちになる。調子に乗って、今夜が最後の英会話サロンのネタとなるような英文を書き殴り、さらに余勢を駆ってブログまで書き始めてしまった。しばらくはこの調子に乗ってみようと思う。何しろゲーム依存しているよりはマシな時間の使い方だ。

 

次にお題。今年は梅酒をなんと6瓶も仕込んでしまった。きっかけは4月の私と姪っ子ちゃん1号の合同生誕祭。やや高級な和食屋で祝宴コースを頼んだのだが、その際に食前酒として梅酒が出た。その梅酒を普段は酒を飲まない義兄が「うまい、うまい」と飲んだのだ。そういや、去年、持て余してた安ウイスキーと安焼酎を手当たり次第にぶちこんで梅酒作ったなぁ、と思い至り、それを持って行ったところ、義兄に激賞された。で、その後友人二人に分けてみたところ、その二人からも激賞された上、お代わりまでリクエストされてしまった。確かに、ウイスキー特有のスモーキーさと梅の香りが相まって、独特の美味さに昇華されていた。

てなわけで、今年はまず安ウイスキーと、安ブランデーで2瓶仕込んでみた。ネット情報によれば2度漬けも可能とのことだったので、昨年の梅の瓶にももう一度安ウイスキーをぶちこんでおいた。こちらは通常3ヶ月くらいの熟成期間のところ、1年くらいは待たないといけないらしい。

で2瓶仕込んだ後、当家の最高権力者様、世間的に言うところの女房から「梅干し用に南高梅買おうと思ってたんだけど、間違えて白加賀買っちゃった」とのことでさらにもう1瓶仕込むこととなった。で、普通にホワイトリカーで仕込んでも面白くないので、ちょいとネット検索してみたら、いろんなスピリッツで仕込む例が紹介されていた。でちょいと冒険してジンで仕込んでみることにした。ただ純粋にジンだけではなく、ブランデー仕込みの際に余ったブランデーと、やはり余っていた安焼酎もミックスした、初挑戦がどう転ぶか楽しみだ、と思っていたら、今度は最高権力者様が南高梅をダブって買ってしまったことが判明、しかも通常の倍の量。ってなわけでさらに2瓶追加で仕込むことになった。

 

どうせならまた冒険してやれ、と思ったので今回はラムで仕込むことにした。ラムの大容量なんぞ、田舎には売ってないので、通常の瓶を2本買い、足りない分は在庫にあったウォッカを足しておいた。で、最後はシンプルにホワイトリカーで仕込んだ。ベースになる味を確認しておかないと何が何だかわからなくなりそうだったからだ。

 

そんなわけで当家の食品庫には計6本の梅酒が熟成の刻を刻んでいる。ついでに余ったジンでレモン酒まで仕込んでしまった。食品庫の扉を開けると何やら甘酸っぱい匂いが漂っている。果実酒専門のバーでも始めるか(笑)。今年は一味違う実りの秋を迎えられそうだ。

 

日本のプロ野球にとっての「維新」の時だった平成 『平成プロ野球史:名勝負、事件、分岐点-記憶と記録でつづる30年-』読後感

 

 

私にとっての平成プロ野球は日本シリーズでのジャイアンツの3連敗4連勝で始まった。第3戦で勝ち投手となった近鉄バファローズの加藤哲郎投手の「巨人打線はロッテより怖くない」発言に奮起したジャイアンツが、その怒りを叩きつけて怒涛の4連勝で逆転優勝した日本シリーズだった。加藤哲郎氏はいまだに「あの発言」で繰り返し取り上げられ、本人の意図とは関係なく球史に残るプレーヤーとなってしまった。

 

さて、このシーズンオフのドラフト会議で史上最高の8球団の指名が競合し、抽選の結果近鉄バファローズに入団したのが野茂英雄氏。彼のトルネード投法は文字通り日本プロ野球界に旋風を巻き起こしたが、それ以上に現在のプロ野球界に影響を与えたのがMLB入りの突破口となったこと。当時のルールには任意引退選手のMLB入りを禁止する条項がなく、ある意味、うまくその隙をついた形での移籍ではあったが、ここで開かれた小さな流れは、やがて大きな奔流となって、日本プロ野球界を揺るがし続けた。野茂氏自身の大活躍もさることながら、後にイチロー、大魔神佐々木、ゴジラ松井など各球団の主力クラスが次々とMLBに挑戦し、輝かしい実績を上げたことで、日本で実績を上げて、MLBに挑戦するというのが一つの「制度」として定着してしまった。そしてついには大谷翔平という不世出のプレーヤーまで生み出した。野茂氏が細々とMLBへの道を模索し始めた頃には、日本人プレーヤーがMLBでホームラン王に輝く日が来るなどということは想像もつかなかったが、事実は我々の想像を遥かに超えてしまった。

 

その他の最大のトピックスは2004年の10球団制への移行騒ぎだろう。結果的には12球団制は維持されたが、この騒動を機に各球団が「企業の広報部門」という立場に甘えることなく独立での採算を目指すことに本腰を入れ始めた。騒動から20年余りを経た現在、その努力は実を結び、各球団は本拠地のファンを数多く獲得し、入場料収入を随分と稼ぐようになった。球界全体に蔓延っていた「寄らば巨人の陰」という思想は見事にナリをひそめ、各球団がファン獲得のために知恵を絞るようになった。

 

日本球界からスター選手が次々とMLBに去ってしまうことには複雑な思いを抱かざるを得ないが、そんな状況の中でもファンの繋ぎとめ、拡大に努力している各球団の姿を見るにつけ、「日本球界も健全な競争をするようになった」との感を強くしている。我がジャイアンツも岡本のMLB移籍という大きなショックを乗り越え、小粒ながらもイキのいい新戦力たちが台頭してきている。村上が抜けたスワローズなどは「暗黒時代」への突入か、という予想を覆してスタートダッシュに成功し、現時点では2位につけている。「窮すれば通ず」ではないが、一握りのスター選手におんぶにだっこという状態を脱却していこうという強い思いを選手からも経営陣からも感じられるのだ。

 

MLBこそが野球最高のステージである、という事実を突きつけられた現在、日本プロ野球界はMLBとは一味違った魅力を追求せざるを得なくなった。そして今のところ各球団の経営努力はなんとかファンの繋ぎとめに成功している。平成という維新の時を経て、今後の日本のプロ野球界がどう変化していくのか?プロスポーツという枠組みを超え、日本文化の一部であると言って良い日本プロ野球が今後どんな変遷を辿るのか?興味は尽きない。

 

 

 

 

 

庶民の目線で唯物史観的に見た「世の中」の物語 『人類最年長』読後感

 

図書館から「衝動借り」してきた一冊。島田氏の小説を読むのはかなり久しぶりのこと。

 

物語は一人のホームレスの男が怪我をして保護されたところから始まる。神楽幹生と名乗るその男は、保護された際に負っていた傷の他、脳に金属の影が認められたために、開頭手術を行ったのだが、その鉄の破片は日露戦争の際に使用された爆弾の破片だったのだ。

 

そして、神楽の世話を任された女性看護師に、神楽が自分のこれまでの生涯を語るという形で物語が展開されていく。最初は半信半疑、というよりは頭に傷を負った影響で、荒唐無稽な話が始まったと聞き流していた看護師だったが、その精細な記憶、そして何より神楽の語る話が、全て「史実」と一致していることにより、神楽が150年余を生き抜いた人物であることを確信していく、というのが大まかなあらすじだ。

 

島田氏にしては珍しい、SF的な設定で描かれた作品だ。しかし、話の進み方は、SFというよりは幕末から昭和初期にかけての民俗学的なレポートのようだった。黒船来航により鎖国時代が終わり、西洋に追いつけ追い越せが最優先の国策となり、庶民の生活は激変した。そして、その変化は、日本の生活に根付いた大家族的でのどかな村落共同体を解体し、農業を主な生業としてきた人々に、否応なしに世界経済の中の歯車として働くことを強制した。一方で領土拡大のための戦争を起こし、いくつかの戦いには勝利したものの、最終的には敗戦国となり、国のシステムがまるっきり新しいものに変わってしまうという経験もした。そしてそこからの復興を経て、一時は経済大国として世界に冠たる存在となり、今現在は凋落傾向に加速がついているという状態だ。

 

島田氏は、神楽の視点を借りて、あくまで冷静に世の中の移り変わりを語り続ける。結局人間は己の物欲を充足させるために動くのだという、唯物史観的な見かたをしているなぁ、と感じたのは島田氏が社会主義への親和性が高いという私の勝手な「思い込み」によるものだろうか?いずれにせよ、カネがモノをいう世界が作り上げられてしまったのは事実だ。そんな現世を、幕末の人間が実際に見たらどう思うだろうか、という視点でシニカルに描いたのがこの作品だ。

 

最後に神楽は「長生き人生」のバトンを女性看護師に託し、行方不明となった。「後を託された」女性看護師は本当に神楽ほどの長い人生を送ることとなるのか?その辺のことは曖昧なまま物語は終わる。

 

読んでいて、大隈重信の「人生125年説」を思い出した。人間は25歳で「最高潮」となり、その状態のまま125歳まで生きられるはずだとする「学説」だ。残念ながら正確な記録の残る史上最高齢は122歳。ただ、これからの日本の政治家たちには、寿命が125歳まで伸びることを前提とし、100歳過ぎてもしっかりと生きられるような社会を作り上げる努力をしてもらいたい。70代くらいの政治家は今の平均寿命を考えると、自分があと10年くらいしか生きられないと思っているから、その残りの10年で最大の利得を得るための政策しか考え出せていない気がする。子供や孫の代に負担は残したくない、などと言いながら、結局はせいぜい10年先の未来しかデザインできていない。その繰り返しで現在の凋落が引き起こされているのだ。衆院選で大勝したはいいが、数の力にアグラをかいて、既得権益守るだけで、結局何も変わらない、などということは、なしにしていただきたい。

 

 

かつての栄光も歴史の中に埋没してしまうのか? 『永遠のPL学園 六〇年めのゲームセット』読後感

 

図書館の本棚で見つけた一作。春夏通算7度の優勝を誇り、プロ野球にも数々の名選手を多数輩出してきた高校野球界の超名門PL学園の栄光と凋落の歴史を克明に追ったルポルタージュだ。

 

古くは「逆転のPL」として名を馳せ、「KKコンビ」で人気沸騰、立浪、片岡、野村、橋本、宮本らを擁して2度の全国優勝を果たした「黄金世代」…。一時は高校野球の王者といえば「PL学園」を指した時代もあった。しかし、2013年に新規部員募集を停止し、2016年に最後のチームが夏の予選で敗退してから休部状態が続いている。それどころか、PL学園中高ともに志願者数が激減し、学校としての存続が危ぶまれているという状況。学園の存続のみならず、PL教の信者そのものが激減し、教団自体の存続すら危険視されている。

 

一体何がPL学園高校硬式野球部の凋落を招いてしまったのか?大きな要因は部員による暴力事件の発覚と、それに伴ってある意味面白おかしく取り上げられてしまった理不尽な「謎ルール」の数々だろう。下級生は上級生には「はい」か「いいえ」しか言葉を許されていないとか、最上級生になるまで使ってはいけない階段があるとか。昭和の部活なんざ、大なり小なりそんなことはいくらもあった、という意見もあろうが、時代は平成から令和と移り変わり、今までなら被害者が我慢したり、関係者の圧力で揉み消したりしていたことが、どんどん明るみに出る時代になった。サッカーをはじめ、野球の他にも「金」になるスポーツも増えた。そしてPL以上に野球で実績を上げる高校も続々と出てきた。何がなんでも「PL」で野球をやって甲子園に出て、プロになるという夢を持つ少年たちが減ってしまったのだ。

 

そして野球部の弱体化は教団の弱体化をも招いた。PL教団PL学園入学を志望する生徒の親にも入信することを義務付けており、野球部華やかなりし頃は、入学希望者も増え、信者もどんどん増えていった。信者増に伴って懐が温かくなった教団は、野球部の強化に力を入れ、野球部はますます強くなってさらなる信者増を招く、という好循環が続いていたのだ。しかしそんな蜜月は第二代目の教祖の死去に伴って消えた。二代目ほどは野球(というよりスポーツそのもの)に熱心ではなかった三代目となってからは、徐々に教団自体が野球部にかける熱が減じていった。そして今は教団内の勢力争いなどの結果、世間的に「暴力球児の巣窟」というマイナスイメージを持たれている野球部を厄介者扱いする人たちが教団の主流派となっているらしい。いやはや。栄枯盛衰は世の常とは言いながら、無常感を感じざるを得ない。

 

著者柳川氏は、こうした「歴史」を詳らかに紹介しながら、現時点で最後のナインとなってしまった2016年のPL学園野球部の部員たちの姿を克明に紹介している。部員数わずかに12人。そのうちの一人は1年遅れの入学であるため、試合には出場できない。そして最後の大会を前に、大怪我をした部員が2名。最後のナインは文字通り「最後のナイン」だった。選手たちは精一杯努力したものの、力およばず、公式戦で一勝も挙げられないまま最後の夏を終えた。試合後に泣き崩れる選手たち、そして絶望的な状況下にありながら声援を送ってくれた観客、OBたちへの感謝を述べた主将。彼らを悲劇のヒーローに祭り上て、ハイおしまい、ではあまりに呆気なさすぎる。部外者である私ですらそう思わざるを得ない結末だった。

 

とはいえ、野球部復活はほぼ絶望と見て良いだろう。有力OBの桑田真澄氏らが野球部復活に向けて様々な活動を行っているということは聞き及んでいるが、教団そのものの存続が危ぶまれる状態では高校野球どころではない。寂しいが、かつてこんなチームがあった、という文脈でしか語れなくなっていってしまう可能性が限りなく高い。中高と剣道部だった私にとって、PL学園は野球の強豪校であったという以上に剣道の強豪校でもあった。こちらもまた、歴史の中に埋没してしまう可能性が高く、やはり寂しさを感じざるを得ない。

 

 

カットされてしまった部分にこそ「童話」が本当に訴えたかったことがある 『怖い童話』読後感

 

図書館から借りてきた一冊。

 

よく言われていることだが、世に出版されている「童話」は、かなり改ざんされている。「童話」という名の通り、児童向けの書籍ゆえ、残酷な場面などはなるべくカットして、口当たりをよくする必要があるからだ。悪いことをした人物たちは当然その報いは受けるのだが、受ける罰の内容までは詳細に語られない。

例えば、シンデレラ。大抵の場合、シンデレラを散々いじめていた二人の義理の姉はガラスの靴に足が入り切らずにお妃にはなれなかった、というようなあっさりとした記述で終わってしまうが、原典では無理矢理に足を靴にねじ込もうとして、足を切り取り、血まみれになるという描写がある。さらに姉たちは最終的には鳥に目をつつき出されて盲目になってしまうという罰まで受けるのだ。王子とシンデレラは末長く幸せに暮らしました、めでたしめでたし、で終わらず、悪いことをした人間は徹底的に罰せられるのだ。

 

日本の民話も同様に残虐さが割愛されて「童話風」に書き換えられたものは多々あるが、グリム童話など、海外の童話の方は実に頻繁に「血」が登場する。さすがは、肉を食いなれた国々に広く知れ渡った物語集だけのことはある(笑)。

 

標題の書では、児童向けの書から割愛された残虐シーンを忠実に再現するだけではなく、その物語に込められたより壮大な意図までを読み解くことを企図している。

 

例えばピノキオ。この物語は日本ではディズニーアニメの影響で、最後にはクジラに飲み込まれるというストーリーが広く知れ渡っている。私も朧げな記憶にあったのはディズニー版のストーリーだったのだが、原典ではピノキオは無邪気なイタズラ好きではなく、もっと複雑な悪ガキ、かつ平気で生き物を殺してしまうような無慈悲な存在だった。野原しんのすけがもっと狡賢く、経済的視点をも持ったような、一種の怪物とも言えるような存在だったのだ。そしてこの物語にはピノキオを騙して金を奪おうとする狐と猫が登場するが、これは当時のイタリアに近代経済が入り込んできて社会全体が大きく揺らいでいる中、「うまい話には絶対に裏があるぞ」という戒めを表しているそうだ。そして終盤ではピノキオは一度死んで生き返る。これはフリーメーソンの重要な教義である「死と再生」を巧みに盛り込んだ展開だというのが著者中見氏の主張。元々の物語の作者であるカルロ・コッローディーはフリーメーソンのメンバーであり、その教えを広める効果を考えたストーリーなのだそうだ。

 

なかなかに怖いお話ではある。情報に対するリテラシーが低い年代において、こうした物語をうっかりと刷り込まれてしまえば生涯に渡って影響を及ぼすことになる。たかだか童話、と侮ることなくしっかり内容を読み込んだ上で、その訴えることの背景には何があるかを深く考えてから子供に与えるべきなのだ。幼い姪っ子ちゃん二人の将来を考え、本を与える前にはまず内容をよく吟味しないといけないな、と思わされた一冊だった。

 

これもまた「男」の描き方 『黄昏のために』読後感

 

 

『大水滸伝シリーズ』読破以来、あれ以上の作品はもうあり得ないのではないかという思いから、しばらく遠ざかっていた北方謙三氏の作品。とは言いながら、Kindleの中には『チンギス紀』は着々と溜め読はしているのだが。

 

さて、北方氏といえば日本のハードボイルド小説界の第一人者。彼の紡ぎ出す物語には、強い酒を一息で飲み干し、深々とタバコを吸い込んで、ケンカにも女にも強い、ってな昭和のおじさん方が「かくありたい」と思うような主人公が登場する。そしてそんな男が修羅場をかいくぐって最後には勝利するものの、その後ろ姿には寂寥感が漂う、なんてなストーリーが多い。

 

この物語もそうしたハードボイルドを予想して読み始めたのだが、さにあらず。他の作品に見られるような男臭さは十分に感じさせる主人公なのだが、職業は画家だ。他人が喧嘩する場面こそ登場するが、本人が直接暴れることはない。

 

そして、一本のバラをあらゆる方向から見て、絵を書き続け、その中から現れてくる「真の形」を描くことに心血を注ぐのだ。観念的というか、芸術の本質というか、画家の性というか。ありふれた日常の中から真の美を見出そうとする画家の営みも一つの戦いなのだ。

 

そして主人公が目の前の事物をどう捉え、どう表現するのかについて思い悩むことは、北方氏の作家としての原点に通じるものではないかと思う。北方氏が作家を目指したのは大学在学時。当時の大学は学園紛争の嵐が吹き荒れていたそうで、しばしば教室にバリケードを設けて封鎖するようなことがあったそうだ。北方氏はそのボリケードの内側で、純文学を志し、作品を描き続けていたそうだ。残念ながら、そこで書かれた作品たちは高い評価を得ることができずに日の目を見えることはなく、やがて北方氏はエンターテインメントに転向し、そこでハードボイルド小説の第一人者にまで上り詰める。

 

この連作小説の、名前さえつけられていない主人公の画家は、北方氏が本当になりたかったもののそのまま人のカタチにしたものではないだろうか。自分が本当に描きたいものと、おカネになるものは全くの別物。生きていくためにおカネになる作品を描かざるを得ないが、本当に自分の描きたいものは別にあり、それは一生をかけて追い求めるものだ。そんな主張が伝わってくるのだ。

 

私も書きたいことはあるものの、それは今のところおカネには結びつかないであろうことが予想できているので、まずはおカネになる文筆仕事にチャレンジしているのだが、それは本当に自分がやりたいことではない、という思いは常に持っている。北方氏とは全くレベルの違うお話ではあるが。

 

思いもかけず、北方氏の「本音」に近いものが感じられた一冊だった。