脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

パワハラという概念も言葉もなかった頃の幸せなワーカホリック『キューブリックに愛された男』鑑賞記

 

キューブリックに愛された男 [DVD]

キューブリックに愛された男 [DVD]

  • 発売日: 2020/06/03
  • メディア: DVD
 

 

独特な作風で知られる映画監督スタンリー•キューブリック氏の専属運転手兼「雑用係」を30年勤め上げたエミリオ•ダレッサンドロ氏の姿を描いたドキュメンタリー映画ダレッサンドロ氏へのインタビューをメインストーリーに、その言葉を実証するメモ書きやタイプ打ちの文章、写真などを散りばめた、正道中の正道ドキュメンタリー映画だ。

 

ダレッサンドロ氏はイタリアからカーレーサーを目指してロンドンにやってきたが、レーサーとしては中堅どころで、その収入だけでは家族を食わす状態に無かったので、タクシーの運転手と兼業していた。ある雪の夜、ダレッサンドロ氏は奇妙な依頼を受ける。とあるオブジェをロンドンの端っこから反対の端っこまで輸送して欲しいとの依頼だ。そのオブジェこそキューブリック氏の代表作『時計仕掛けのオレンジ』で主人公アレックスが老婦人を撲殺するのに使用した男性器を象ったものだった。

ダレッサンドロ氏はこの一件でキューブリック氏と面識を持ち、さらに、撮影用の操作が複雑な万能車を操って見せたことで信頼を得、専属の運転手として雇われることになる。

 

キューブリック氏はその作風と同様、日常生活にも細かなこだわりを持ち、周りの人間が彼の要求を100%受け入れ実現することを望んだ。ダレッサンドロ氏も運転手の範疇を超え、様々な業務を要求される。物品の輸送はもちろん、私生活の買い物(ハムやソーセージの品質にまで言及)、映画で使う様々なものの調達、悩み事の相談まで。捨て猫、野良犬を見ると保護せずにはおれないキューブリック氏の自宅には常に多数のペットがおり、その世話も任された。それも日夜を問わず、ろくな休みもなくだ。そんな生活が30年も続いた。今ならこんな雇い主は即座にパワハラで訴えられるだろうし、「キューブリック組」はブラック認定されて、誰も寄り付かなくなるだろう。

ダレッサンドロ氏はこの無理やりに痒いところを見つけ出すような要求に、それこそ痒いところに手が届くように応えるので、キューブリック氏はますます彼を便利使いするようになる。私なら絶対に務まらないが、ダレッサンドロ氏は可能な限りキューブリック氏の要求を満たすよう努力する。そしてそのことが少しも苦になっていないようだった。家族には多大な犠牲を強いたものの…。

この状態はある意味、働く喜びを十分に感じられる幸せな状態だと言える。自分にとってやりがいがあり、苦になるどころか楽しいのであればそれはとてつもなく幸せな状態だ。世の中の大多数は金のためにやりたくもない仕事をしいられていることだろう。だから「生きがい探し」やら「やる気の出し方」みたいな本が常にベストセラーの上位を占める結果となるのだ。

ダレッサンドロ氏は、キューブリック氏の要求以上の几帳面さを持って、膨大なメモの類や撮影の小道具、フィルムの断片などを取っておいた。まさにドキュメンタリー制作のために生きてきたようなものだ。そして驚いたことに、彼はキューブリック氏の下を離れるまで、その作品を一作も観ていなかったそうなのだ。引退後に改めてキューブリック作品を観て、自分がどれだけの才能に尽くしてきたかを知ったそうだ。優れた映画の制作に関わっている、というやりがいなしに、よくもまあ、あれだけ走り回れたものだ、という感慨を持たざるを得ないが、知らなかったからこそ、あそこまで続けられた、というのがダレッサンドロ氏の感想でもある。

 

最後の最後、自宅のガレージにきっちりと整理された膨大な「遺品」を、ダレッサンドロ氏が感無量の面持ちで眺めるのだが、この演出は少々臭さがすぎたように思う。何かを指示するメモ用紙でも映して、キューブリック氏にそれこそ影のように仕えた日々を懐かしむダレッサンドロ氏の言葉だけあればよかったと思う。

二転三転するストーリーは秀逸『カラスの親指』鑑賞記

 

カラスの親指 by rule of CROW's thumb  通常版【DVD】

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  • 発売日: 2013/05/29
  • メディア: DVD
 

 直木賞作家道尾秀介氏の同名小説の映画化作品。とある詐欺師グループの大作戦決行までと、その後日談を描いている。

主人公タケ(阿部寛)はテツ(村上ショージ)と組んで、小金をかすめとるようなケチな詐欺を繰り返しているという設定。元々は真面目なサラリーマンだったが、知人の借金の連帯保証人となったことで闇金に追われ、職を失う。妻を病気で亡くしていたタケは忘形見の娘を養うため闇金の取り立て屋としてこき使われる境遇に身を落とすものの、厳しい取り立てで自殺した女の娘が呆然と立ち尽くす様子を見て、つくづくと自分の身を悔い、闇金経理資料を警察に持ち込んで闇金を壊滅させる。しかし、その闇金からは当然の如く恨みを買い、自宅に放火され娘を失う。タケは自殺を考えるものの、死に切れず、闇金の報復を恐れて住所を転々と変えて逃げ回る日々を送りながら、詐欺もはたらくという生活であることが冒頭からの一連のシーンで語られる。

一方でテツについてはほとんど語られない。演じているのが村上ショージだけにいつ「ドゥー!」というお約束のスベりウケギャグをやってくれるのかを期待していたのだが、そんなことも全くなく、やや棒読み口調の台詞回しは気になったものの、重要な役割の脇役をきちんとこなしていたと思う。

このコンビはある日、闇金の追及から逃れて流れ着いた上野で、スリをしくじった少女を助ける。この少女まひろ(能年玲奈。この名前が使えてるってことはまだ例の騒動前だってことで、ググってみたらちょうど『あまちゃん』の撮影中にこの作品で報知映画賞の新人賞を受賞したとのこと)がちょうど住んでいたアパートを追い出されたということを聞いた二人は、自分たちの住まいにまひろを招く。しかし住まいにはまひろだけでなくその姉やひろ(石原さとみ。役柄の重要性にこの時点での能年玲奈とのポジションの差が現れていて興味深い)とその彼氏貫太郎(小柳友ブラザートムの息子だとは知らなかった)が転がり込んでくる。

 

奇妙な擬似家族関係を結んだ5人だったが、この住まいにも闇金の魔の手が伸びて来る。拾って育てていた子猫が惨殺されたり、家の前でボヤが起こったり…。タケは5人で逃げることを提案するが、テツは逆襲に出ることを提案。暴力当然、いざとなれば人殺しだってやりかねない、やばい連中相手に5人が仕掛けた作戦とは…?、というところでストーリー紹介は終了。この後はぜひ本編をご覧ください、としか言いようがない。ネタバラシはこのブログの本意とするところではない。

この後の展開では、前半部分で巧妙に仕掛けられた伏線が、これも巧妙にしっかりと回収されている。作戦遂行時、そして作戦後。この二転三転をぜひとも味わっていただきたい。結局誰が誰の掌の上で踊らされていたのかが、最後の最後までわからず、したがって最後まで見透さざるをえないのだが、それが少しも退屈で無かったところに、この作品の秀逸さがある。

 

主演の阿部寛はこの作品と前後して公開された『テルマエ•ロマエ』、『麒麟の翼』との合わせ技でブルーリボン賞の主演男優賞を受賞したそうだが、半モデル、半俳優という中途半端なポジションから本格的な俳優として名実ともに認められた作品となったようだ。枚数合わせで何の気なしに借りてきた一枚だったが思わぬ拾い物だった。

ミスは誰でもする。大事なのはその後の生き方『世紀の落球 「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』読後感

 

 「世紀の落球」という言葉を聞いて、まず最初に思い出すのは元中日の遊撃手、宇野勝氏が1981年の巨人戦で起こした「ヘディング事件」だ。この年の中日は5位に終わっており、この「事件」が勃発した8月にはすでに優勝の望みはなかったし、その他の球団も含めペナントの行方という意味においては大した影響はなかった。この試合の前まで158試合連続得点という記録を続けていた巨人を、完封寸前まで追い詰めた投手星野仙一氏の執念が実る寸前に夢と化してしまったのが「悪影響」と言えるくらいのお話。

むしろ宇野氏はこの事件を機に「チョンボのウーやん」として大いに名を売り、愛されキャラとしてブレイクし、長い間その人気を保った。ヘディング後のボールはグラウンドを転々としたが、宇野氏の人生は大きくいい方向に転がったのだ。本人がそのことを喜んでいたかどうかは別の問題だが…。

 

さて、標題の書でいうところの「世紀の落球」とはその落球によって、その試合の敗戦を招いただけではなく、シーズンや大会全体の流れまでを変えてしまったエラーのことで、その後日本全国津々浦々よりエラーした本人をバッシングする動きが出て、本人が著しいダメージを受けてしまった事象を指す。先に挙げた宇野氏なんてのは誠に幸福な例外というべきで、この書に取り上げられた、G.G.佐藤氏、加藤直樹氏、池田純一氏の三名は酷いバッシングを受けた。

 

西武などで強打の外野手として活躍したG.G.佐藤氏は2008年の北京五輪で、二度落球し、全員がプロ野球選手で、「金メダルを狙う」と宣言していたチームをメダルなしの4位という結果に導いた。

 

星稜高校一塁手だった加藤直樹氏は1979年の夏の甲子園箕島高校戦で勝利寸前にファウルフライを捕り損ね、その直後に同点に追いつかれ、最終的に延長18回を戦った末に敗れてしまった。なお、この大会箕島高校は優勝した。

 

阪神の外野手として活躍し、サヨナラ本塁打を5本も打って「意外性のある打者」として名を売った池田純一氏は1973年の巨人戦でセンターライナーを後逸し、チームは逆転負けを食らう。このシーズン、この試合まで4位と不調だった巨人はこれをきっかけに息を吹き返し、空前絶後の大記録であるV9を達成するのだ。

 

いずれの例を見ても、確かに重い重いエラーではある。当該試合だけでなく、エラー後のチームは結果的に不本意な方向に向かってしまっている。日本全国で注目されていた試合だけに、エラーしたシーンを観た有象無象からバッシングを受けてしまうのは仕方のないことだと言えるのかもしれない。しかし、誰しもエラーをしようと思ってプレーしているわけではない。必死で戦った結果としてのエラーを責めることなど、本来誰もできることではないのだ。必死に練習して試合に臨んでも、エラー発生の確率を限りなく低くすることはできるが、完全に0にすることはできない。そこが人間のやることの限界であり、また妙味でもある。そして、二度と同じエラーを起こさないよう努力すること、犯したエラーを取り戻すために努力を重ねることもまた、その人間の「向上」につながっていく。

G.G.佐藤氏はオリンピックと同年のライオンズの優勝に大いに貢献したし、翌年はキャリアハイの成績を挙げた。加藤氏は中学から星稜でチームメイトだった方と少年野球の指導者として地域社会と野球というスポーツの明日を支えることに大いに貢献している。池田氏は5本のサヨナラ本塁打のうちの3本を「世紀の落球」後に放つなど、少なくとも落球して負けた試合の数十倍勝利に貢献した。

我々、観衆という「外野」はどうしても結果だけ見て文句を言いたがる生き物だし、後々になって、勝手に「あのエラーが勝負の分岐点になった」などという余計な物語を作ってしまいたがる生き物でもある。各々の選手がその後素晴らしい活躍を見せても、ついつい過去のエラーを蒸し返しては「あのエラーさえなければ」と思ってしまう誠に厄介な性質も持ち合わせている。この傾向はネット社会の隆盛によってますます強化され「溺れた犬を叩く」とか「一度過ちを犯した人間は罪を償っても絶対に許さない」という殺伐とした世の中を生んでいるようだ。

 

「罪を憎んで人を憎まず」などという偉そうな言葉を吐く資格は私にはないが、少なくともエラー後に積み重ねた努力とその成果を否定することだけはやめようと思う。エラーした本人が一番その罪の重さを感じているはずだし、先にも述べたがそこでの反省とその後の精進こそが人間としての向上につながるのだ。全くエラーのない人生を送れる人間などいないはずで、「世紀の落球」をやらかした人間と「普通の人間」との差は、目立ったか目立たないかだけなのだ。大切なのはエラー後の生き方。思わぬ教訓をいただいた一冊だった。

 

嫌いな人がいる自分を責めなくていい『嫌いな人がいる人へ 自分を知って生きやすくなるメントレ』読後感

 

 

私は嫌いな人がたくさんいる。

 

つい最近で言えば、英語学習のやる気のなさをごまかすのに「みんな」というワードを持ち出してきて、自分自身の問題を「みんな」の問題にしてしまおうとしたマッスルバカ。

 

無理やり当時の所属部署での仕事をこなさせようとして、「今の部署で頑張るのが人間としての正しいあり方だ」みたいなことを休職中の私に臆面もなく言い放った「なりきり金八先生」上司。人事に関して極微弱な権限しかないくせに…。

 

私が健康上の問題で一番やりたくないと言っていた業務を押し付けてきた上司もいれば、散々こき使った挙句、それまでに揚げた実績をあっさり無視してど田舎の拠点に島流しにした上司もいれば、会議などの席の度に揚げ足取りに終始してきたクソ親父もいる。遡れば、高校時代に因縁を吹っかけてきて、勝手に敵視してきたバカもいれば小学校時代に教師を始めとする「公権力」をバックに陰に陽に様々な圧力をかけてきた奴もいる。

 

ざっと思いつくだけで、許されるなら叩き殺してやりたいと思っている人間はこれだけいる。で、こうした奴らから受けた仕打ちを考えるたびに、それこそ怒髪天をつくという心理状況が出来し、いろんなことをしてようやく怒りをおさめた時には疲労困憊してココロのエネルギーは枯渇状態。さらにいうと、そんなことでエネルギーを枯渇させてしまった自分を責める気持ちまで湧いてきて、精神衛生上誠によろしくない。

 

とどめは、「これだけ嫌われてしまう私という人間は実は本当に嫌な奴なんじゃないか?」という疑問に襲われることだ。ここまできてしまうと、メンタルを損傷するフルコースである。いつまでも、怒り、疲労、自責の念という悪循環を繰り返すことになる。最近はそういう状態になる前に、酒を飲んじゃうとか、トレーニングで何も考えられない状態まで自分を追い込むとか、バカな映画やお笑いの類のDVDでも見て気を紛らわせてしまうことの方が多いが…。

 

著者である古山有則氏は、大学院卒業後就いた職務で、自身のメンタルに様々なダメージを受けた経験も活かし絶大な人気を誇るメンタルトレーナーとして活躍されている方。標題の書においても、平易な言葉を使いながら、心に染みる文章を記されている。

中でも深く印象に残ったのが、題名にもあげた「嫌いな人がいる自分を責めなくていい」という章。古山氏は「トマトが嫌いな人が人がいます。その人はトマトが嫌いでも、トマトを否定することはしないと思います。ただ、自分は食べないだけです。」と述べている。私自身トマトが大嫌いでもあるので、この言葉はストンと腑に落ちた。私は特に生のトマトは口に入れた時の食感が気持ち悪くて全く食べられない(註 火を通してあったり、形が全く感じられないスープなどなら大丈夫)。しかしながら世間的にはトマトはおそらく好きだと答える方の方が圧倒的に多い食物だし、私の好き嫌いとは全く関係なくすでに世の中に存在してしまっているものであり、否定することは不可能だし、意味もない。

 

嫌いな人間もそれと一緒。殺人でも犯さない限りその人間を消去することはできないし、別に私が嫌ったところで、その人間が私に対して為した「ムカつくこと」を反省するわけでもない。そんな人間のことを考えるだけでも自分にとって損なのだから、「嫌いな奴」フォルダーを作ってその中に入れてしまい、あとは一切無視すれば良いのだ。「自分は食べない」という姿勢に徹すれば良い。スーパーや八百屋の店先でトマトを見かけても「ああ、トマトがあるな」という事実の確認のみにとどめて「俺は小学校の給食で無理やり食わされて後で吐いたんだ。こんなもんが世の中にあるからだちくしょー」とまで思考を拡大しなければ良いのだ。

 

そう思って以降、職場で顔を合わすことがあるマッスルバカを見ても「あ、なんかでかくて若いくせに髪の毛が薄くなり始めているかわいそうな奴がいるな」という事実認識だけをココロの中に浮かび上がらせることに8割方は成功するようになった。残りの2割はまだ「てめえは英語もできねえが、日本語はもっとできねえ。小学生のレベルから学び直せ、スポーツだけで世渡りしてきてそのスポーツでも挫折したド低脳野郎。一丁前に社会人ヅラしてんじゃねーぞ。てめえが大人レベルなのは頭髪の薄さだけだ、バーカ」という悪罵が浮かんできてしまう(苦笑)。ま、これも反復練習だ。物体の一種として見做せるまで修行を積むしかない。他のすべてのクソ野郎どもも然りだ。

 

この本には折に触れて読み返して心を落ち着けるのに有効なフレーズがたくさんおさめられている。電子書籍のライブラリーには常備しておきたい一冊となった。

 

ストーリーよりはどこにパロディーが潜んでいるかを探すのを楽しむ作品『アベンジャーズ オブ ジャスティス』鑑賞記

 

 アメリカ製作の超おバカ映画。

 

題名にも書いた通り、この作品は『8時だヨ全員集合』のロングコントと同じで、ストーリーもヘッタクレもなく、シーンシーンに盛り込まれたパロディーの元ネタを探すのが「正しい鑑賞法」。

 

まずは登場人物。主人公は超能力の全てを失って、単なるダメ親父と化しているスーパーバット。言わずと知れたDCレーベルの二大ヒーローの合体。その妻はワンダーウーマンのパロディーだし、娘はハーレイ•クイン。オタクの息子だけが誰のパロディーか、私にはわからなかったが、誰か元ネタの人物はいるはずだ。

 

その他にも、キャプテンサウスアメリカとか、ソーバッカとかビーヴァリンとか、マスターヨーガなんてキャラが出てくるが、ほとんど「出オチ」。見た瞬間にあ、こいつはあのキャラのパロディーだなってわかればそれだけでニヤリとはできるが、もう本当にそれだけの作品。

 

『アイアンマン』のトニー•スタークをもじった人物の胸に洗濯物に用いる「アイロン」があるって設定に少し笑った。名前がトニー•スターチ、つまり洗濯糊に使われるデンプンだってことできちんと完結してるってところには変に感心したね。

 

一応悪キャラも出てきて、家族崩壊の危機と、地球が氷の星と化してしまうよな危機を引き起こそうとして、それの阻止にヒーロー軍団たちが立ち上がるってのがストーリー。その前段階として、スーパーバットは、マスターヨーガの下で文字通りヨガと筋トレに励み、往年の力を回復してたって設定にはなってる。この修行シーンには細かなくすぐりが多々入っているのだが、実に見事に私の笑いのツボを外していてくれたので全く笑えなかった。

 

鑑賞中に、こういう、どう考えても、大したヒットに結びつかないと考えられる作品を作る人、出演する人ってのはどんな神経をしているんだろうと、ストーリーに全く関係ない考えまでが浮かんできてしまったが、鑑賞には全く支障なし。キャラが出オチで終わっている上、ストーリーはと取るに足らないものだから、せめて見ている状態から喚起された考えでもひねくり回さないことには単なる時間の無駄。こういうパロディー作品を臆面もなく世に問うことができるアメリカ映画界というのは称賛に値するとは思うのだが、もうちょいと画面に集中できる作品に仕上げて欲しかった、というのが正直なところ。

 

 

怪異は、ただそれを読んで聞いて、怖がるなり不思議がるなりすれば足りる『怪談実話 黒い百物語』読後感

 

怪談実話 黒い百物語 (角川ホラー文庫)

怪談実話 黒い百物語 (角川ホラー文庫)

 

 当代屈指のホラーの書き手、福沢徹三氏が収集した、怪談を百話格納したのが標題の書。怪異専門誌「幽」に連載されたモノをまとめてある。よりリアルな怪談を求め、著者の知り合いからの聞き取りが中心であったため、百話揃えるのに手間取り、結果的に一つの聞き書きを複数に分割したものもあるそうだ。私の気まぐれ集中怪談読書シリーズのひとまずの最終巻となった。

 

前の2シリーズ計4巻が、素朴な素材そのものを出してきた刺身のようなものだとするなら、標題の書は、同じ素材を様々な技巧を凝らして誂えた前菜の盛り合わせとでも言おうか。プロの小説家として怪談以外の著作も多々ある福澤氏ならではの仕上がりになっている。一つ一つのお話は短いのだが、短い中にもきちんと伏線やら盛り上げやら、特にはくすぐりまで盛り込まれているのだ。無理やりいくつかの話に分けたお話は、流石に少々味付けが薄くはあったが…。

さて、今回の気まぐれ集中怪談読書で学んだことの一つは、「怪異は禁忌に触れた時に起こる」ということである。それぞれの土地土地に「あそこに近づいてはいけない」とか「夜中に通ると必ず良くないことが起こる」などと言い伝えられている場所や空間が必ずある。知らずにそこを訪れてしまったり、あるいは蛮勇を奮ってわざとそこに近づいたりしたものには必ず怪異が襲い掛かるのだ。この駄文の題名にも書いた通り、福澤氏の根本の考え方は「怪異は、ただそれを読んで聞いて、怖がるなり不思議がるなりすれば足りる」のだが、時に無意識に、時に好奇心に抗えず、人は怪異に近寄って行ってしまう。そして痛い目怖い目にあってしまうのだ。もっともこうした人々のおかげで、我々は「怖がるなり不思議がるなり」という感情を巻き起こす一種のエンターテインメントとしてそれを楽しむことができるのだが。安逸の場で他人の恐怖を勝手に楽しむことへの後ろめたさと、こんなことを続けていたら何か自分の身にも起こるかも知れないという漠然とした恐怖を感じながらではあるが。

 

閑話休題

 

人がみだりに立ち入ってはいけない区域をもっとも有しながら、人間の生活に密着しているのは海だ。怪異の発生場所が、島や砂浜といった具体的な場所であることもままあるが、ある時間帯であったり、ある気象条件(霧の発生、降雨など)の下で通常なら安全区域であったはずの場所がいきなり危険地帯になるから始末に悪い。本書においても、海における怪異が一番多いし、また怖さの「濃度」も高いものが多い。こんな話を読んでしまうと、気軽に海になんか出かけられなくなるではないか、と少々怒りを感じたりもするのだが、元々、海というのは簡単に人の命など奪ってしまうほどの荒々しい存在なのだ。我々が勝手に「整備された」とか「安全だ」とか思い込んで、無邪気に遊んでいるだけ。いわゆる海水浴場になっている場所ですら、常に死の危険性を孕んでいるのだ。

 

まあ、そんなことを言い始めたら、道を歩けば常に交通事故死の危険性はあるし、家に籠もっていたって、空から飛行機でも落ちてくればいっぺんにお陀仏である。どうしたって人間は死の危険性をある程度内包した空間の中で生活していかざるを得ないのだが、それゆえ注意深く行動することが大切なのだ、というある種宗教じみた「教え」にたどり着いてしまう。そんな「教え」を類型化された「怪談」は示してくれているのではないか、と考えると、ただ単に「消費」してはいけない物語たちなのではないかと考えさせてもくれる。

ほんの楽しみのつもりで読んだ怪談集から、思わぬ「哲学」を教えてもらったようだ。社会的な関係性を優先した結果、地縁や血縁といった関係性が希薄になった現代において、土地土地の怪談が伝承されなくなった意味は思った以上に大きいのかも知れない。そういう意味で、こうした書は一種の警告の書として読み解いていく必要があるのかも知れない。

支離鬱々日記58

ラス前の『半沢直樹』実に面白かった。

前半部分の大和田と半沢の掛け合いなんかはほとんど真面目な顔をしてやるコントだ。結構シリアスに半沢が大和田に銀行の不正の事実を糾すシーンだったのだが、双方の演技があまりにもオーバーすぎて、ストーリー展開とは別に笑うしかなかった。邪道かも知れないが、これもこのドラマの味わいの一つだ。

 

中盤の山場、紀田と箕部の癒着を暴こうとして、逆に紀田に追い詰められるシーンで片岡愛之助演じる黒崎が「桃太郎さん」の替え歌とともに登場した時も思わず爆笑。昨日までの敵が今日はいきなり逆転の必殺技を携えて登場するなんざ、少年ジャンプ躍進のキーワード「正義、友情、勝利」そのまんまじゃねーか、おい、とは思いながら、このキーワードを骨子とした物語たちに育てられた世代としては快哉を叫ばざるを得ない。しかも、画面に登場したらぶりんは、口調こそオネエだが、セリフの節回し、強弱の付け方なんか、まるっきり歌舞伎の一場面を見ているようだった。思わず画面に「松嶋屋!!!」って掛け声かけそうになった。

 

そして、ネットを賑わしているのが、大和田が半沢を土下座させようと背中にのしかかるシーン。土下座を拒否し、大和田を跳ね除けた半沢が、箕部、中野渡頭取、大和田に向かって「三人まとめて1000倍返しだ」という決め台詞のパワーアップバージョンを叫ぶ場面も、歌舞伎の舞台であれば、四方八方から掛け声が飛んで、大拍手が起こるところだ。TVを観ながら柝を打ち鳴らしたくなった。最終回が楽しみ楽しみ。前シリーズの視聴率を超えるかも知れないね。

 

英語学習法を様々模索するうちに出会ったのが「多読」という方法。辞書を使わず、わからないことはどんどん読み飛ばして良いから、とにかく楽しんで文章に触れて語彙力を増やしていこうとする方法だ。英語に関しては、すでにそれなりの学習方法で進めているので、大学時代から何度も挫折しているフランス語で試してみることにした。まずは、本当に子供向けの優しい本から初めて、徐々に内容の複雑なモノにグレードアップしていけば良い。

 

というわけで、早速電子書籍で探してみたのだが、「フランス語 テキスト」と入力するとヒットするのはNHKの語学学習番組のテキストばかり。それならと「フランス語 やさしい」で検索すると、今度はフランス書院文庫という、エロ小説専門の書店の「熟女もの」ばかりがヒットする。今更、中学生とか高校生のオスガキが、年上のオバはんに手ほどきうけるような小説読んでもなんとも思わんわ!と突っ込みながら「フランス語 多読」って検索したら、なぜか英語の単語集ばかりが表示された。検索機能腐ってねーか?世界一の流域面積を誇る大河の名前を冠した通販会社さんよ。仕方がないので、都内でも有数の在庫数を誇る書店に赴いて、適当なモノを探したのだが、棚にしてほんの1列しか陳列していない状態ではかなり狭い選択肢しかなかった。英語の本なら軽くこの20倍くらいのラインナップがあるのに…。こういう情景どこかで見たぞ。あ、そうだ、ラグビー関連の書籍とサッカー関連の書籍の数量比がちょうどこんな感じだ。いいんだいいんだ、こういう状態の方が希少価値が高まるってもんだぜ。

 

もう一つ、私には取り掛かっている受験勉強がある。「メンタルヘルスマネジメント検定I種」というものだ。毎回大体3千人くらい受験して、合格率は2割に満たないという「難関」である。100点分の選択式問題と、50点分の論述問題からなり、合計で105点、つまり7割取らないと不合格なのだが、論述問題を25点以上取るというのも必須の条件だ。この論述問題というのが難しい。いや、難しいというよりは面倒くさいという方が近いかな。テキストブックを丸暗記するぐらいの覚悟が必要となるのだ。とにかく細かい知識が要求される。私は過去6回挑戦してことごとく跳ね返されているのだが、全て論述問題の点が足りていないことで不合格にされたのだ。今年こそなんとか合格したい。7回も受けることじたい、自分の中では大いに恥ずべきことなのだ。お勉強だけはそれなりにできる、というアイデンティティー崩壊の危機でもある。今年は通勤時間もなく、エネルギーがセーブしやすい環境下にあるんだから、大きなチャンスと考えて是非とも合格しないとね。