脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

やりがいは与えられるものではなく自分で作り出すもの 『「やりがいのある仕事」という幻想』読後感

 

 

最近にしては珍しく紙の本として買い求めた一冊。確か、メンタルクリニックの受診後に帰りの電車で読む本がないと気づいて本屋で衝動買いした。

 

メンタルクリニックで現在の私の不調の原因である「仕事」について話をした直後だったので題名を目にした瞬間に吸い寄せられるように手にしてしまった。著者森氏は名古屋大学工学部の助教授を務める傍らでミステリー小説を書き、たちまちベストセラー作家となって、今は好きな模型作りに打ち込む毎日を過ごしているという、羨ましい限りの経歴をお持ちだ。

 

私自身は今現在一番やりがいのある「仕事」は文筆業であり、これから死ぬまで、できれば文筆業者として食っていきたいとも考えている。森氏のように「手っ取り早く金を稼ぐため」に作品が書け、しかも書く本書く本全てがベストセラーになってしまうほどの実力は到底持ちえないだろうが、なんとか今の生活を維持するくらいの生活ができれば、執筆に専念したい気は満々だ。

 

会社で夢見ていた仕事には就けなかったし、かと言って今の仕事が楽しいわけでもない。会社は個人の欲求を満たすために存在しているのではないとは理解しているものの、実績を残せば希望は叶う、と言っておいたくせにいざ実績を上げたらそんなことは関係ないとど田舎に島流しにあった恨みは一生消えない。会社のために懸命に働くことが人格の向上にもつながるなんてのは、経営者が育成にかけた投資を回収するためにちらつかせる幻想にすぎない。

 

では会社を辞めないのは何故か?辞めたら食えない、という恐怖心に囚われてしまっているからだ。あるいは、こういう宙ぶらりんの状態が無意識のうちに自分にとってのコンフォートゾーンと化してしまっていて実は抜け出す気がないのかもしれない。

 

こうした仕事に関する悩みや迷いに関しての森氏の解答は単純明快だ。全ては自分が選び取ったことであり、その結果として今の自分の姿がある。それが気に入らないのなら別の道を探せ。嫌でも金を貰えていることがメリットだと感じるならそのままの状態を続けろ。全ては自分が決めることだ、というのが大まかな趣旨だ。

実に以ってごモットモ。自分の人生の進路なんざ他人に聞いて決めるものじゃない。そもそも他人に聞くにしても人間というのは無意識に自分の進みたい方向にプッシュしてくれる人から助言を得ようとするのだという。自分の中には漠然とながら結論はあるのだが、それを阻害する要因があるからこそ、その結論に向かって進むことができないってのが言い訳で、言い訳のネタはいくらでも出てくる。そこで言い訳してしまうのも「自分の選択」だ。

 

森氏のフラットな考え方と発言や文章は、受け手からすると「冷淡だ」とか「突き放されている」とか感じられるようだが、森氏は単純な真理を述べているに過ぎない。成功も失敗も自分の裁量と努力にかかってくるお話で、他人がシナリオを用意してくれるわけじゃない。成功へのシナリオをまことしやかに提示してくれるのはたいていの場合、詐欺だ。

 

こうした現実を示した後で、森氏はさらにクールに、努力することを「やりがい」と感じることにも疑問を呈している。私も先に述べた通り「会社の仕事」に関する「やりがい」は経営者がちらつかせる幻想に過ぎないとは思っているが、自分のやりたいことに関して努力することで得られる充実感は「やりがい」と考えて良いのではないかと思っている。問題はその「やりがい」がただの自己満足に終わってしまう場合が少なくないということ。私はなんとか自分の努力を自己満足に終わらせないためにも社会的評価として報酬を求めたいとは思っている。冷静な森氏はおそらく私が考える「社会的評価」についても「本当にそれが満足につながるのか?」という疑問を発してくるだろうとは思うが(苦笑)。

 

とにかく、今の自分には文筆業者として食っていくための努力を続けることが最優先事項だということについて、何度目かの認識をし直した。

支離鬱々日記Vol.156(お題と天候の急変と体調の悪さ)

今週のお題「夏物出し」

 

なんだかんだで今年も6月に入ってしまった。これから襲い掛かってくるのは新住所で過ごすことになる最初の梅雨と夏だ。

 

我が郷里、今年は油断のならない天候が続いている。5月の末にいきなり今年全国初の猛暑日を記録したと思ったら、6月に入って今度は大量の雹が降り注ぐ始末。元々特に夏場の天候は変わりやすい上に、気温も日本有数の高さを誇る土地ではあったのだが、それにしても、この急変ぶりは珍しい。イヤイヤ期に突入した我が姪っ子ちゃんのご機嫌よりも変化しやすいし、振れ幅がでかい。外回りの仕事でないのが救い。クソ暑い中出かけて行って、帰りは土砂降りの雨なんて毎日、考えるだけで寒気がする。

 

50の坂を越えてから、暑かった後に急に肌寒くなるなんてな気温の変化に実に弱くなってしまった。5月末から6月頭の気温変化は相当なダメージだった。6月に入ってから久しぶりに出社したら、電車の中の冷房の風が直接当たる席に座ってしまったもんで、会社に着く頃にはすっかり体調を崩してしまい、早退してとっとと帰ってきてしまった。まあ、ここのところ忙しかったので少々ココロの方が強めの風邪をひいたのだろうと思う。通勤の時間も疲労もセーブでき、空調が効いて、好きな音楽なんぞをかけながら仕事ができる在宅勤務は実に快適だ。こういう快適さに慣れてしまうと、会社に近づくだけで、心身に異常が発生する、一種のアレルギー状態に見舞われるらしい(笑)。早いところ、文筆活動だけで食える生活を構築したいものだ。

 

さて、お題に移ろう。考えてみたら6/1は更衣の日だった。とは言っても当家の現住所には作り付けの引き出しが多々あるウォークインクローゼットがあるので、従来のように、タンスや衣装ケースをひっくり返して、夏物を引っ張り出して、冬物を仕舞うなんて作業は必要なく、使う引き出しが変わるだけのオハナシなのだが。それでもロンTを引き出しの下段に持っていき、その分半袖Tを上段に詰め替える程度の衣更はした。このクソ暑い田舎では盛夏の頃には1日に2〜3枚は着替える必要がある。半袖Tは何枚あってもいい。

とは言いながら、下段の引き出しから引っ張り出した半袖Tの中には買ったはいいがまだ一度も袖を通していないものが実に多数ある。私が普段着にしている半袖Tはラグビー用品のメーカーが作ったものが多く、作りが丈夫なので、長持ちするのだ。よほどハードな着方をしない限り、10年くらいは平気で保ってしまう。また、毎年菅平のラグビーショップで山積みされている半袖Tを見るとついつい買ってしまう上に、アウトレットなどで、千円台の投げ売り商品などがあると、そっちもついつい買ってしまう。そんなわけで、半袖Tシャツは溜まりっぱなしだ。

しかも、最近は月一で上野にカウンセリングを受けに通うこととなったので、ついついアメ横ロンドンスポーツに足が向いてしまい、

4travel.jp

 

海外のラグビーチームのレプリカジャージやら半袖長袖問わずTシャツやらトレパンやらハーフパンツやらの型落ち品を買い漁るのが習慣化しつつある。必要分以上の買い物なんてのはその瞬間の快楽であって、溜め込んだモノは結局は死蔵品に近くなってしまうので、エコロジカルでもエコノミカルでもないのだが、もはや依存症に近い。本当はもっと別なカネの使い方をすべきなんだろうし、時間はもっと有効に使うべきモノなのだが、電子書籍の導入により大型書店に行って目についた本を全て買うというちょっと前までの最大の「憂さ晴らし」ができなくなったことの代償行為なのだろう。とりあえず、今手持ちの半袖Tの全てに袖を通すまではロンドンスポーツ訪問を封印しようとは思っているが、いざ、上野に足を踏み入れた際にこの決意を貫き通せるか否かについては全然自信がない(苦笑)。

 

知ってそうで知らなかった話が満載 『ロック ベストアルバムセレクション』読後感

 

 

最近になって、大瀧詠一師匠の楽曲の「元ネタ」を集めたアルバムやら書籍やらが続々と発売されて、私の中で海外の古いポピュラーミュージックへの関心が高まっていた。そんな中で積ん読棚の中で発見したのが標題の書。奥付を見てみると買い求めた第14刷は平成16年(2004年)、初版に至っては昭和63年(1988年)という、もはや「古典」と言って良いほどの一冊だった。

 

さて、そんなバイヤーズガイドの「古典」に聴くべきアルバムとして列挙されているのは435枚。そのものズバリの解説が見開き2ページで、左側のページのはじに、紹介された一枚から「派生」したアルバムが二枚づつ紹介されている。

 

毎度のことながら浅学を恥じつつ、告白してしまうと、ビートルズなどの超メジャーバンドの作品を除けば知らない作品ばかり。ただし、「名前と顔が一致しない」ままに聴いている曲は多々あるのだと思う。この本を読んで早速買い求めたThree Dog Night(本書で紹介されているのはバンドの名をそのままタイトルにした『Three Dog Night』)のベスト盤の1曲目『Joy to the World』を聴いた瞬間、「あ、この曲だったのか」という気づきがあった。

 

 

発表時から二回りも三回りもして、CMやらドラマやら映画やらのBGMやテーマソングとして使われていたり、ラジオ番組で流されていたりする曲が、おそらくは満載なのだろう。先に述べた『Three Dog Night』の他に二枚買い、レンタルショップから」八枚ほど借りてきてちょこちょこ聴いていると、「あ、この曲このグループのこういう名前の曲だったんだ」という発見が少なくない。同時に「あ、この曲は(日本の)誰それの××って曲によく似てる」って感覚に見舞われることも多々ある。「ナイアガラ源流探しの旅」ではないが、日本のポピュラーミュージックの源流というか、源泉というか、私が知らないだけのそういった曲たちがアルバム435枚分紹介されているのだろう。

 

音楽的素養がない(楽譜すら読めない)私には、楽曲の解説ははっきり言ってチンプンカンプン。百読は一聞にしかずとでもいうか、とにかく聴いてみりゃいいんだが、限られた生涯の期間内で、同じ聴くのであれば、世の識者たちにそれなりに認められた作品群から聴くのが正しいのだろう。権威主義的な見方ではあるが、「古典」を「古典」たらしめているものは、長年の風雪に耐えて、人々の心に残り続け、変わらぬ感動を生むからであり、例えば1960年代に発表されて、今の世でも名作の誉の高い作品などは、少なくとも私の世代にとっては「古典」と考えて良いのではないだろうか。

 

いわゆるクラシック音楽だって、発表された当時はポピュラーミュージックだったのであり、ビートルズが音楽の教科書に載るようなご時世であれば、ロックが「古典」になったっておかしくはない。ただし、著者渋谷氏があとがきの中で語っている通り「ロックは時代との緊張感の中にあり、その時点その時点でレコードの価値や意味合いが変わってくる音楽」である。後の世を生きる人々の間に「残る」作品であるか否かはもう少し時のゆりかごの中に寝かしておいて見極める必要があるだろう。

 

コンテキスト読みの私としては、簡易版ライナーノーツを集積したようなこの一冊はなかなか興味深かったし、名前と顔が一致した作品も多数出てきた。今後、私としては、この書の中で見かけて興味を惹かれた作品があれば手当たり次第に借りてきて聴きまくるという行動をとるのみだ。山下達郎氏が「サンデーソングブック」の中で紹介しているアーティストやアルバムを参考にするのと併用して行こうと思う。この書に取り上げられているのはド・メジャーな作品なのでレンタルショップに行けば大概あるが、山下氏のピックアップするアーティストは時にマニアックすぎて、ネットを探しても手に入らないか、バカ高い値段で売られているかどちらかだったりする。メジャーなモノばっかり追いかけるのは能がないが、マニアックなモノを追いかける続けるほどのカネもない。まあ、この本にある作品を全部聴こうとするだけでも数年はかかるのだが(苦笑)。

 

支離鬱々日記Vol.155(お題と異常な暑さと久しぶりのトレーニング)

今週のお題「人生で一番高い買い物」

 

暑い暑い暑い暑い暑い暑い!!!!

5月だってのに、なんで猛暑日になんかなっちまうんだ?まだ体は花粉症の影響がようやく抜けたばっかりで、暑さになんか慣れてないぞ!!まったく、体調崩せって言わんばかりじゃねーか。まあ、体調崩せば大手を振ってお休みできるから、それはそれで嬉しいんだけど(笑)。

 

若かりし頃は、夏ってのは一年中で一番好きな季節だったのだが、私が奉職した企業は夏場が一番の稼ぎ期なので、夏場はとにかく仕事が忙しい→ストレスが溜まりまくる→仕事が嫌いだということを再認識する→辞めて文筆の道に進みたいが、プロとして食っていけるほどの実力が備わっていない→嫌でも我慢して仕事を続けるしかない→まったく面白くないのに、忙しさだけは勝手に追いかけてくる→ストレスが溜まりまくる(以下無限ループ)…、ってことで、いつの間にかどちらかといえば嫌いな季節になってしまった。どんなに暑くてもスーツを着てなきゃいけないってこともかなりのストレスだったし。それでも、東北の日本海側のど田舎のクソ寒くて日照時間が極端に短くて雪だけは死ぬほど多い冬よりはいいけどね。

 

夜に入っても、二階にある私の書斎は異常に暑く、窓を開けただけでは熱気が逃げていかないので、たまりかねて、今年初の扇風機発動。こんな時期に扇風機つけんのは私の半世紀にわたる人生の中では初めてのことだろうと思う。まあ、現住居の納戸が結構広くつくってある上、引っ越しに際してさまざまなモノを捨てており、扇風機がすぐ取り出せるよう収納できていたというのも一つの理由だ。あちこちひっくり返してようやく扇風機が出てくる、なんて状態ではいくら暑くても扇風機を探そうという気にもならなかったに違いない。必要な時に必要なモノが即座に取り出せる家、ってのを目指していたので、そういう意味では理想に一歩近づいたとは言えよう。

本日はコロナ禍が発生して以降、初めて本格的にジムでトレーニングをした。2年半くらのブランクだっただろうか?いろんなことに対してなかなか意欲が湧かない状態を打破するために、テストステロンでも引っ張り出そうと思い立ち、その思いが消えないうちに、買ってから一度も着ていない海外ラグビーチームのレプリカジャージと、やはり買ってから一度も乗っていなかった自転車を引っ張り出し、一番近いジムに行って契約を済まし、かなり無理矢理に自分を勢いに乗せた状態でトレーニングを実施。

 

想像はできていた事だが、思いっきりカラダが鈍っていた。持久力も落ちていたし、ウエイトトレーニングについては2年半前の記憶にある負荷の2/3くらいの数値で試してみたが、かなりきつい。マスクをしたままでトレーニングするのが初めてだったこともあって、息苦しさが半端ない。50過ぎのオッサンが2年半もサボってりゃこのくらいは鈍るだろうって予想のかなり上をいくシンドさだった。まあ、まだオッサンチームラグビーでのプレーを諦めたつもりはないので、徐々に鍛えていこうと思う。さて、筋肉痛が発生するのはいつだろうか?明日の朝ならまだ若い証拠。まあ順当に明後日くらいにとんでもないところが痛み出すんだろうな(笑)。

 

最後にお題について。「人生で一番高い買い物」…、単純な金額で言えば、現在の住居が一番高い。ただし、家のお話は今までにも散々書いてきているので、購読者の皆さんもうんざりしていることだろうし、何より私自身が飽きてしまった。家の「使い方」については日々模索している状態なので、新しい発見でもあれば、またこの駄ブログに書き殴ることにして、私なりに一捻りして、お題について考えてみたいと思う。

 

私の人生で一番高い買い物ってのは、「自分自身」だろうと思う。私自身を快適に生活させるために仕事をしてカネを稼ぎ、そのカネをほぼ全部自分(と家族)のために費やすのだから、結局「自分自身」という存在に一番カネを使っているということになる。自分で「自分自身」という素材を買い、どんなカネの使い方をして満足のいく「作品」に仕上げるか?これほど手強い素材はないが、同時にこれほど手の掛け甲斐のある素材もない。稼ぎ出す「生涯賃金」ってのは一つのわかりやすい指標ではあるが、それが「自分自身」全ての価値を表すモノではない(と信じたい負け犬サラリーマン 笑)。自分自身で納得のいく人生でありながら、他人からも高い評価を得るってのが私の理想像であり、その理想像を「買う」ためにカネは使いたい。というわけで、私が今までに使ったカネは、全てが「文筆業者として生きていく自分自身」を買うために払ったのだし、今後も同じ目的に使い続ける、と無理矢理結論づけておきたい。読み手を感動させる文章を書くことができれば、今まで投資してきたカネは十分に払う価値があったと思うことができるはずだ。まだまだもっとカネを注ぎ込まなければいけないのかもしれないし、使ったカネは全てが無駄だったという結果に終わる可能性も十分にあるが(苦笑)。

「疫病史観」という視点もありかも 『疫病の日本史』読後感

 

コロナ禍も3年目。もはや「コロナ対策を講じた上での生活」が日常に「定着」し、「コロナ前」の日常がどんなものであったのかが朧げになってしまった感がある。

 

それでも我が日本は世界各国に比べれば被害は少ないそうだ。原因としては島国であるという地理的な条件、移民の受け入れに消極的だという政策的な要因もさることながら、iPS細胞で名高い山中伸弥氏によれば、日本人に特有の要素(ファクターX)が考えられるらしい。ファクターXについての詳細は↓をご閲覧いただきたい。

www.covid19-yamanaka.com

 

このファクターXの一つとして挙げられているのが「マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識」。そしてこの「高い衛生意識」のルーツがどこにあるのかを歴史的に解き明かすというのがこの本の大きなテーマのひとつだ。

 

西欧諸国などではマスクの着用をめぐって暴動が起きるほどの国もあった。例えば、アメリカなどは、疫病というものに対し、マスクという防衛策を講じることは「弱々しさ」を示してしまうことにつながるという意識が根底にあったようだ。いかにも独立を「勝ち取った」国にふさわしい根本思想である。これに対し、日本の場合には「他人に迷惑をかけてはいけない」という意識がまず第一にある、というのがこの書の解説。聖徳太子が定めたとされている十七条憲法の筆頭に「和を以って尊しとなす」と書かれて以来の日本人の根本思想だし、私自身の心境を振り返ってみても、マスクを着用し続ける理由の最たるものは、おそらくこの「他人様に迷惑をかけてはいけない」という意識であると思う。

 

また「毎日の入浴などの高い衛生意識」のルーツは、死や病を穢れとして忌避する「神道」の考え方である。穢れを祓うのは「禊」、すなわち水によって洗い流すこととなるが、この「水によって洗い流す」という行為の前提となっているのは、日本の国土に清らかな水が無尽蔵と言って良いほど大量に存在していることだ。また、あちこちに勝手に薬効のある温泉が湧き出していたということも、頻繁な入浴を習慣づける要因となったと指摘されている。

 

なるほど、自分自身では特別意識はしていなくても、日常のホンの小さな行動にも「歴史」が影響していることに気付かされた。一人一人の心がけの影響は高が知れているが、大多数の日本人が同じように行動しているとなると、実に大きな力になる。明確な因果関係があるとは認定されてはいないものの、有力な「ファクターX」である。

 

その他に興味深かったのは南米におけるカソリックの浸透の影にはペストがあったということ。欧州は南米に進出する前にペストの大流行に見舞われており、それを乗り越えた人々には抗体ができていた。しかし当然のことながら南米の人々には抗体はなく、武力の差よりもまずペストで倒れた人々の方が多かった。そこでペストにビクともしない体を持っていた白人たちに対し畏怖の念を抱くようになり、彼らが信仰し、布教していたカソリックに次々と帰依していったそうである。なお、カソリックの信者たちが海外進出を目指した背景には、宗教改革によりプロテスタント勢力が増してきたことがあった。

 

うーん、歴史って面白いなぁ。教科書には味も素っ気もない事実しか記載されていないが、その事実の影には実にさまざまな要素が絡み合っており、その要素をひとつひとつ掘り下げていくことは実に興味深い。この書が取り上げている「疫病」が果たした役割も実に大きい。南米に攻め込んで行った欧州の人間にペストの抗体がなかったら、ローマ法王に南米の出身者が就任するようなことはあり得なかっただろう。これは一つの大きな影響の例だが、その他にどんな影響があって、それが現在の世にどんな影響をもたらしたのか、「疫病」という観点から歴史を捉え直すことは、特に今の状況下においては有意義なことではないかと思う。

 

さて、今回のこのコロナ禍は今後の世界の動向にどんな影響をもたらすのだろうか?例えば、必要に迫られてテレワークが普及した結果、人が集まって働く場所という従来の「会社」というものの像が大きく揺らいでいるが、この働き方やコミュニケーションの取り方の変化が50年後、100年後の社会にどのような変化をもたらしているのか?早くも、東京への人口流入よりも流出の方が多いという変化が現れているように、「都市」というもののあり方が変わってきているようだ。自分自身で変化の全てを見ることは到底無理なお話だが、勝手な想像はどんどん膨らんで行ってしまう。

支離鬱々日記Vol.154(鬱々な日々と業務連絡)

GW明けに、ここ数週間ずっとかかわずらってきた、少し大きな仕事が終わって、ちょっとホッとしたせいか、気持ちのエネルギーが著しく低下して、何事にもやる気が起こらない。会社の仕事はもとより、給料分以上にはこなすつもりはないが、文章を書く気も、映画を観る気も、ラグビーを観る気もトレーニングする気も起こらない。唯一の心浮き立つイベントとして、先週末姪っ子ちゃんの守りっこに行ったら、何が気に入らなかったのか、「あっちに行け!!」とばかり押しこくられて、ちっとも遊んでもらえなかった。先週までは姪っ子ちゃんがただただ愛おしくて泣きたい気持ちだったのに、今は史上最大の失恋気分で、鬱々とした気持ちに思いっきり拍車がかかってしまっている。先週はカウンセリングを受けたり、少々余計な物を買って憂さ晴らしをしたり、最高権力者様と満開のバラを展示する企画に行ったりもしたのだが、根本的な気分上昇にはつながらなかった。

 

そんなわけで、今朝は目覚めた瞬間に久しぶりに「あ、今日はもう何やってもダメだ」という状態が来て、午前中一杯寝床で過ごさざるを得なかった。空腹感を感じ、昼食は適量を食べることはできたので、まあ、鼻風邪程度の「ココロの風邪」だったのだろう。午後は借りてきていたお笑いのDVDを観て気分転換を図ったが、まだまだスムーズに何か生産的な行動を起こせる精神状態にまでは至っていない。今日は早々に寝てしまうことにする。

そんな中ではあるが、文筆活動の方では二つほど大きな動きがあった。まずは、本日掲載されたレシピサイトのご紹介。

macaro-ni.jp

 

「手軽に作ろう!茎わかめの簡単レシピ4選」というのがその内容。久しぶりの「公的サイト」への執筆ゆえに、短い文章ではあったが、結構時間がかかってしまった。不定期ではあるが、今後しばらくはこのサイトの執筆は続ける予定なので、よろしくご愛顧のほどお願いいたします。

また既にTwitterフェイスブックなどには紹介しているが、こちらのサイトにも記事を書かせてもらうことになった。

spaia.jp

 

このサイトではラグビーについての記事をやはり不定期だが執筆していく予定なので、よろしくご愛顧のほどお願いいたします。次の課題は出されているし、取り掛かってもいたのだが、前述の通りの精神状態出来のため、執筆は止まったままである。本当はこんな駄文を書いてる暇があったら、この課題をクリアすべく文案を練ったり、資料を集めたりすべきではあるのだが、こういう駄文を書くことでアイドリングしていかないとリリースに値するような文章が書けないのだ、と言い訳をしておこう。

 

時は否応なしに迫ってきて、あっという間に去っていく。気持ちを時間に合わせていくことが難しい状態ではあるが、なんとか執筆活動だけは続けていきたいと思う。

 

剛腕歴史小説家が描く戦国末期の「脇役」たちの物語 『家康謀殺』読後感

 

いわゆる戦国大名たちの争いを生々しい筆致で描くことの多い伊東潤氏による、織田信長の台頭から豊臣家が滅びた大坂冬の陣までの期間の、さまざまな立場の人物の姿を描いた短編集。いずれの物語の主人公も歴史の教科書に名前が出てくる「主役」ではないが、各々の人物の行動いかんによっては文字通り歴史が変わり得た、主役に対する影響力が非常に大きかった人物を描いている。史書に名を残した人物もいれば、実在したかどうか定かではない人物もいる。また、文庫版に嬉しいオマケとして追加された『ルシファー・ストーン』などは、リアルな作風の伊東氏にしては珍しく山田風太郎氏を彷彿とさせるような、伝奇小説に仕上がっている。

 

どの作品もそれぞれに味わいがあり、伊東氏独特の「剛腕」な描写をたっぷりと味わうことができる。史実として今に伝わっている出来事の裏で、どんな人間が、どんな思いで、どんな行動を起こしていたのか?そしてその行動は果たして「最善の策」だったのか?最善の策でないとしたら、なぜ、最善策を取ることができなかったのか?単なる事実の羅列ではなく、そこにさまざまな物語を織り込み、かつリアルさは微塵も殺されていない。歴史を追いかける上で必ず生じてくる「if」のさまざまな条件が、巧みにストーリーに盛り込まれているので、ついつい史実とは別の結果を考えてしまうのだ。歴史小説を楽しませる手腕がそれこそ「剛腕」なのである。

 

収録作品の中での一番の傑作はなんといっても、表題作『家康謀殺』だろう。ネタバレになってしまっては身も蓋もなくなってしまうので、ストーリーを紹介するのは控えるが、読者を一つの方向に引っ張っておいて、実は…という結末は誠に見事。う〜ん、やられたな、という感想しか持ちようのない展開だった。

 

その他では、桶狭間の戦いで、信長勝利という衝撃の結果をもたらした影には「雑説(現代でいうところの情報)」があったということを軸に大胆にストーリーを進め、その「雑説」に運命を翻弄された二人の人間を描いた『雑説扱い難く候』にも強く惹かれた。戦国時代は実際の戦闘もさることながら、素っ波や乱破、軒猿などの暗躍による諜報戦が「発達」した時代でもある。いかに素早く情報を収集するかも重要だが、その情報を「誰に」渡すかによって人の運命が大きく変わった時代だった。その時々で、最適な人物に有益な情報をもたらすことによって出世してきた人物が、最後の最後で、裏をかかれる結末の物語である。今の世にもいる、相場の操作を行なって意図的に暴利を貪るような人物にはいつか天罰がくだるんだよ、とでも言ってくれているようで、現代的な話題を隠し味にした典型的な勧善懲悪物語を満喫させてもらった気分だ。

 

私が伊東氏を知ったのはここ2〜3年くらいの間のお話で、Kindleのオススメ欄に表示されていた『戦国鬼譚 惨』を衝動買いして、読んだのが始まりだ。残念ながら、若い時のように、面白いと思った作家の作品を手当たり次第一気に読んでしまうような体力は失われてしまったので、買うだけは買ったがまだ読んでいない著作は多々ある。定期的に読んでいきたい作家である。