小学校時代は土曜の夜が楽しみだった。翌日が休みだということもあったが、何しろ「8時だヨ!全員集合」という何を置いても最優先で観るべき面白い番組があったからだ。オープニングテーマが始まった瞬間は、齡50を超えた今となっても屈指のワクワク感を感じていた。
ロングコントのオープニングでいかりや長介氏が発する「オイーッス」という掛け声には、でかい声で「オイーッス」と応じていたし、とにかく番組中は笑い転げていた記憶しかない。私が一番この番組に熱中していた時期は、『東村山音頭』で志村けん氏が大ブレイクを果たした時期と一致する。日常生活の中でも『東村山音頭』はよく歌い踊った。
ドリフターズのコントは日常の一部であり、極端に言えば、当時の私の思想信条、行動様式の全てに影響を及ぼしていたと言って良い。前週の放送でドリフの誰かが放った下ネタをそのまま意味もわからずにそっくりそのまま真似て、よく父親に怒られたものだ。「そんなことばかり言ってると来週からドリフの番組なんぞ観せねーぞ」などと脅されて、必死に謝ったことも何度もある。とはいえ、彼らの発するギャグは大きな笑いと共に確実に私の中に残っていった。
ところが中学に入って状況は一変する。漫才ブームが突如として沸き起こり、そこから発生した漫才師たちが瞬発的なアドリブやリアクションで勝負する「俺たちひょうきん族」が始まり、「8時だヨ!全員集合」は一気に古臭く、幼稚なものになってしまったのだ。ちょうど年齢的にドリフ以外にもいろんな「笑い」があることに気づき、ドリフの笑いは状況設定が違うだけで、毎回ほとんど同じコントの繰り返しだ、ということにも気づいてしまった。
思春期の入り口にあった私の、乏しい知識だけを頼りにした愚かな偏見で「ドリフ=マンネリで幼稚」、「ひょうきん族=先進的で高度な笑い」という頑固な公式を勝手に作り上げてしまったのだ。しかしながら、この書を読み進める中で著者笹山氏が指摘していた事実には虚をつかれた。ひょうきん族も最初から高視聴率を取っていたわけではなく、ビートたけし氏をメインキャラクターにしたコント「タケちゃんマン」が始まってから視聴率が上昇したというのがその指摘。なんのことはない、ひょうきん族もある種のマンネリを始めたことで人気が上昇し、定着したのだ。しかものちにビートたけし氏自身に「ひょうきん族の笑いはあくまで出演者たちのキャラクターに頼っただけのもので、偶発的な笑いだった。ドリフのコントは細部までしっかり作り込み、きちんと各自の役割を決めた上で、さらにアドリブを入れてきたりする。笑いの質としてはドリフの方が上だった」という趣旨の発言をさせている。ドリフの笑いは決して幼稚なものではなかったのだ。
例えば古典落語というのは、誰が演じても同じ筋立ての噺をすることになるが、名人と言われる人が演じるのと、素人が演じるのとでは、出来上がりにそれこそ天と地ほどの差が出てくる。ドリフのコントというのも、こうした類の「芸能」だったのではないだろうか。
権力者(4人兄弟の母親であったり、探検隊の隊長であったり、学校の先生であったり、とにかく集団の中では一番偉いという位置付けの役)であるいかりや氏は冴えないキャラを与えられた仲本工事氏や高木ブー氏に対しては徹底的に強気に出ていじめることで笑いを取る。同じように志村けん氏と加藤茶氏にも強く当たろうとするが、そこでこの二人はとぼけてみたり、反撃に出たりして、徹底的にいかりや氏をおちょくることで立場の逆転という快感と共に大きな笑いを取る。大きな話の流れは固まっているが、そこで時事ネタを取り入れてみたり、ゲスト歌手たちのキャラクターを活かしたりして、表現の仕方をアレンジする。「伝統」が身についていたからこそ様々なバリエーションで笑いを取ることができていたのだ。
つい最近、往年のドリフのコントを現在のお笑い芸人たちが演じるという番組が放送された。私はまだ観ていないのでなんとも言えないのだが、笑えるとは思うが、どこかに違和感を感じながらの笑いにならざるを得ないような気がしている。ドリフ全盛期の志村けん、加藤茶という二人のキャラクターは、もはやアイコンと化してしまっており、コント上の役柄と切り離して考えることが不可能な存在なのだ。ゆえに笑いを産むことはできても、二人が演じているという「安心感」まではどうやっても辿り着けない。志村けん氏の死去により、この二人のコンビ芸を見ることは不可能となってはしまったが、仮に今志村氏が生きていたとしても、往年のキレのある動きができない年老いた二人では「全盛期のドリフターズの中のコンビ」を演じ切ることはできなかっただろう。さらに言えば、やはり二人におちょくられる権力者はいかりや氏でないと収まりが悪い。
結局ドリフターズは唯一絶対の存在だったのだ。彼らのネタを完璧に踏襲した上で、なおかつ新鮮味を加えていってくれるようなグループが生まれてきてくれるのを望みたい、というのはオッサンのただの懐古趣味なのかもしれない。それでも私は望まざるを得ない。