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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

パワハラという概念も言葉もなかった頃の幸せなワーカホリック『キューブリックに愛された男』鑑賞記

 

キューブリックに愛された男 [DVD]

キューブリックに愛された男 [DVD]

  • 発売日: 2020/06/03
  • メディア: DVD
 

 

独特な作風で知られる映画監督スタンリー•キューブリック氏の専属運転手兼「雑用係」を30年勤め上げたエミリオ•ダレッサンドロ氏の姿を描いたドキュメンタリー映画ダレッサンドロ氏へのインタビューをメインストーリーに、その言葉を実証するメモ書きやタイプ打ちの文章、写真などを散りばめた、正道中の正道ドキュメンタリー映画だ。

 

ダレッサンドロ氏はイタリアからカーレーサーを目指してロンドンにやってきたが、レーサーとしては中堅どころで、その収入だけでは家族を食わす状態に無かったので、タクシーの運転手と兼業していた。ある雪の夜、ダレッサンドロ氏は奇妙な依頼を受ける。とあるオブジェをロンドンの端っこから反対の端っこまで輸送して欲しいとの依頼だ。そのオブジェこそキューブリック氏の代表作『時計仕掛けのオレンジ』で主人公アレックスが老婦人を撲殺するのに使用した男性器を象ったものだった。

ダレッサンドロ氏はこの一件でキューブリック氏と面識を持ち、さらに、撮影用の操作が複雑な万能車を操って見せたことで信頼を得、専属の運転手として雇われることになる。

 

キューブリック氏はその作風と同様、日常生活にも細かなこだわりを持ち、周りの人間が彼の要求を100%受け入れ実現することを望んだ。ダレッサンドロ氏も運転手の範疇を超え、様々な業務を要求される。物品の輸送はもちろん、私生活の買い物(ハムやソーセージの品質にまで言及)、映画で使う様々なものの調達、悩み事の相談まで。捨て猫、野良犬を見ると保護せずにはおれないキューブリック氏の自宅には常に多数のペットがおり、その世話も任された。それも日夜を問わず、ろくな休みもなくだ。そんな生活が30年も続いた。今ならこんな雇い主は即座にパワハラで訴えられるだろうし、「キューブリック組」はブラック認定されて、誰も寄り付かなくなるだろう。

ダレッサンドロ氏はこの無理やりに痒いところを見つけ出すような要求に、それこそ痒いところに手が届くように応えるので、キューブリック氏はますます彼を便利使いするようになる。私なら絶対に務まらないが、ダレッサンドロ氏は可能な限りキューブリック氏の要求を満たすよう努力する。そしてそのことが少しも苦になっていないようだった。家族には多大な犠牲を強いたものの…。

この状態はある意味、働く喜びを十分に感じられる幸せな状態だと言える。自分にとってやりがいがあり、苦になるどころか楽しいのであればそれはとてつもなく幸せな状態だ。世の中の大多数は金のためにやりたくもない仕事をしいられていることだろう。だから「生きがい探し」やら「やる気の出し方」みたいな本が常にベストセラーの上位を占める結果となるのだ。

ダレッサンドロ氏は、キューブリック氏の要求以上の几帳面さを持って、膨大なメモの類や撮影の小道具、フィルムの断片などを取っておいた。まさにドキュメンタリー制作のために生きてきたようなものだ。そして驚いたことに、彼はキューブリック氏の下を離れるまで、その作品を一作も観ていなかったそうなのだ。引退後に改めてキューブリック作品を観て、自分がどれだけの才能に尽くしてきたかを知ったそうだ。優れた映画の制作に関わっている、というやりがいなしに、よくもまあ、あれだけ走り回れたものだ、という感慨を持たざるを得ないが、知らなかったからこそ、あそこまで続けられた、というのがダレッサンドロ氏の感想でもある。

 

最後の最後、自宅のガレージにきっちりと整理された膨大な「遺品」を、ダレッサンドロ氏が感無量の面持ちで眺めるのだが、この演出は少々臭さがすぎたように思う。何かを指示するメモ用紙でも映して、キューブリック氏にそれこそ影のように仕えた日々を懐かしむダレッサンドロ氏の言葉だけあればよかったと思う。