主演にブラッド・ピッドを配し、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼルが監督を務め、アカデミー賞狙いで製作されたのが標題の作。人気者とヒット作の監督とのコンビは大いに期待を持たせたが、興行的に大コケし、制作費を回収することができないという体たらくに終わった。
原因ははっきりしている。とにかく面白くなかったのだ。
描いているのは、サイレント映画の晩年と言って良い時代。いわゆるトーキーが出現し、時代の趨勢はそちら側に移りつつあった時代だ。
ブラピが演じたのは、無声映画で絶大な人気を誇ったジャック・コンラッド。彼は観衆からの支持を背景に、撮影所で絶対の権力を誇り、毎晩毎晩それこそ酒池肉林の乱痴気騒ぎを繰り広げる。
そこに一枚噛んでくるのは野心家の「女優見習い」ネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)。彼女も、セクシーさと物おじしない行動を武器にスターの座にのし上がっていく。
絶好調の彼らの前に立ちはだかるのが「時代の波」、すなわち、トーキーの登場だ。
「黙って」動作だけしていれば良い無声映画と違って、トーキーではセリフを含めた「総合的」な演技が要求される。俳優の声というのも重要な要素だ。無声映画では観衆が勝手に「理想の声」を設定して字幕の言葉に当てはめることができたが、トーキーは当然のことながら俳優の生の声が観衆に届いてしまう。「理想の声」とのギャップが、どうしても生じてしまうというわけだ。
というわけで、「総合的な演技」を要求されることになったジャックは、今までとはあまりにも違う環境に大いに悩む。妻に、ブロードウエイのミュージカル女優を迎え、彼女の指導でセリフの特訓に臨むが、うまくいかない。イラついて妻に八つ当たりするものだから、夫婦関係もギクシャクしていき、その憂さを晴らすためにジャックは荒れた生活を続け…、というふうにストーリーは展開していく。
ネリーはそんな時代の波になんとかキャッチアップし、それなりの成功を掴むのだが、酒やら薬、そして賭博に溺れて多大な借金を背負い、にっちもさっちも行かない状態に追い込まれる。自業自得とはいえ、人間の弱さみたいなものはそれなりに体現できていたように思う。また、彼女が主役となって演じられる、トーキー初期の、映像と音声を一致させるための、スタッフの涙ぐましくも馬鹿馬鹿しい「努力」を描いたシーンがこの作品の中では一番印象に残った。
同じような時代を描いた作品としては、10年前の『アーティスト』がある。こちらは作品賞をはじめとして5部門でアカデミー賞を獲得したが、確かに『アーティスト』の方がよくできた作品だった。主人公の苦悩に絞ったストーリーの方が素直に心に刺さったと思う。『バビロン』の方はいろんな要素を盛り込もうとした結果、余計なノイズが増えすぎて、論点がぼやけてしまった感がある。その辺のもどかしさが端的に現れたのが興行成績の不振だったと言えよう。