脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

イマドキはちょっとはやらないかもしれない男臭いハードボイルド 『約束』読後感

 

 

北方謙三氏が世に知られたのは、いわゆるハードボイルド小説だ。学生運動バリケードの中では純文学を書いていたそうだが、商業的に成功せず、酒にもタバコにも、女にも喧嘩にも強いおっさんたちを描き始めたら、一気に人気作家の一人に躍り出た。

 

昨今では中国の古典をそれこそ自由自在に切り刻んで、全く新しい物語に仕上げた、三国志シリーズや「大水滸伝」シリーズ、さらにはチンギスハーンの生涯にまで手を伸ばすなど、活動の場を広げつつも、その物語の全てで、男臭い男が「これぞ男だ」という姿で、ある時は冷静沈着に、ある時はアドレナリン全開で戦う姿を描く。

 

標題の作は、レアメタルの輸入業を営む藤森という男が、昔の恋人の娘と息子(実子ではない)を救うために、やばい連中たちと渡り合うのがメインストーリーだ。藤森は絶対的に強いというわけではないが、多少はボクシングの心得があるという設定。何より、レアメタルの取引をめぐり、海外のやばい奴らと渡り合ってきたという経験から、肝だけはしっかり座っており、自らの信ずることに関して命を賭すことを厭わない。

 

そんな藤森を陰に陽にフォローし続けるのが吉井という刑事。吉井と藤森は、とある殺人事件を通じて知り合った仲で、決して古くからの親友というわけではないが、お互いに「こいつのためなら命を落としてもいい」という強い心理的なつながりを持つに至る。また、その殺人事件の容疑者として当初は警察に拘束されていた、藤森の昔の恋人の息子、英二も、藤森や吉井と行動を共にするうちに、アマちゃんの若者から脱皮して一人の男として成長していく。

 

物語のあらすじを紹介してしまうと、この作品の興を著しく削ぐことになるので、内容の紹介はこれくらいにしておこう。ただし、筋立てはそんなに入り組んだモノではないので、やはりこの作品は、藤森と吉井の男臭さを味わうのが醍醐味ということとなるだろう。タバコ、コニャック、ウイスキーにベッシー・スミスのブルース、ジャガーに隠し持っていた拳銃、昔関わった女との思い出…。いやあ、実に昭和だ。タバコを吸わず、酒は缶チューハイK-POPに親しみ、車よりはスマホやパソコンに金をかけ、ゲームに興じる令和の男たちにはさぞかし奇異に映るキャラクターだろう。

 

時代だと言ってしまえばそれまでだが、自らに課した「約束」を命を落とすことになっても、あるいは暴力に訴えてでも絶対に守る、という気概を持ち合わせる男がどれだけいるんだろうか?まあ、これはアラカンのおじさんの偏見にしか過ぎないが、今の世ではこのテイストの小説はおそらくウケないだろう。

 

私自身もこの小説は一種の「時代劇」として読んでいたような気がする。この作品に描かれた男こそがカッコ良い、って時代はもう遥か昔のお話だし、こういう男をカッコいいと認める時代は少なくとも私が生きている間には来ないだろう。もしそうした価値観が見直されるとすれば、ロシアが北方領土を足がかかりに北海道に攻め込んで来て、一般市民も武器を持って戦わなければならないような状態になった場合だけだろう。そんな事態には絶対なって欲しくはないが。

 

昭和の男の一つの理想像を描いた一作。私はこういう生き方に憧れるし、物語の展開のまま死んでしまうのも、いい死に方ではないか、などと思ってしまう。

「うくく」なエッセイの数々 『耳そぎ饅頭』読後感

 

 

ここ数週、心身ともに非常に調子が悪い。

 

齢55と巷ではアラカンなどと呼び慣わされる年代に達し、日々の疲労の蓄積が抜けなくなったことも原因の一つであろうが、心ときめくような出来事がないからというのが最大の理由だと思う。

 

心ときめく出来事というのは、現時点では文筆業での成功に繋がりそうな案件である。定期的な収入と、ささやかな自尊心を満たしていたスポーツサイトは、外注をやめてしまったし、レシピサイトからも仕事の声がかからない。クラウドソーシングの方もいくつか採用されたものの、定着したのは一件だけで最近は連敗に次ぐ連敗。小躍りするような出来事もなければ、自宅のリビングで念仏踊りでもヒップホップでも踊りたいような気力も湧かない。唯一心が安らぎ、幸せな気持ちになるのは、近くに住む姪っ子との邂逅だけであるが、2歳半の女児を高い高いするだけでもアラカンの肉体は悲鳴を上げる。

 

邂逅翌日または翌々日に見舞われる筋肉痛のことを考えると、筋トレに行けばもっと酷いことになるのではないかとの悲観的な予想が働き、トレーニングに行く気力も湧かない。勢い、精神的にはどうあれ、肉体的にはずっと座りっぱなしの食っちゃ寝生活が続き、肥満状態に拍車がかかってきた。本日もその悪影響の一つである逆さまつ毛のせいで、眼球の強膜に炎症を生じ、充血と共に痛みを生じたために半日会社の在宅勤務を休んだ。

 

私だけが休んでも、会社の仕事は回り続けているので、やらねばならぬ仕事は溜まる一方。本当はやりたくもない仕事なのだが、口に糊するためには嫌でも業務に努めねばならぬ。故に、なんとか嫌な仕事から脱却しようと文筆業を始めたのだが、これが全くカネにならぬ。従って、まだしばらくはイヤイヤながらも会社の仕事を続けなければならぬ。憂鬱なウイークデイを過ごして休日に姪っ子に会うと、心は癒されるが、体は疲れる。そんなわけで、心身ともに疲労が溜まっているのだ。

 

つい二週間前には姪っ子が高校生になって原宿に行きたいと欲した時に隣にいても嫌われぬようなバッキバキの筋肉ジジイになり、ついでにその時には欲しいものは全て買ってやってもびくともしないくらいの金を持っておくために文筆業でも名をあげようと決意したのに…。

現実はそんなに甘くない。不採用の通知に心を折られ、会社の仕事で神経をすり減らし、酒に手を出してはバカ喰いして自己嫌悪に苛まれるという日々を過ごさざるを得ず、炎症で痛む眼球以上に心が痛い。

 

笑えば元気になるという話を思い出して、過去のお笑い番組を録画したものなどを見たが、心は晴れない。ならばと、涙を流して心をリフレッシュしようと考えて悲しい物語でも読んだり見たりしようと考えたが、泣いたら泣いただけ、気持ちが落ち込んでしまい少し泣いただけで断念。現在は眼球が痛いので涙だけは出ているが、これは生理的反応にしか過ぎないため、涙だけ出てるな、と変に冷静な心持ちで判断だけしている状態だ。

 

こうなったら、町田康氏のエッセイでも読んで、思いっきり頭の中引っ掻き回したろ、と本棚から引っ張り出したのが標題の作。霊験あらたかな町田氏の作品は、私の頭の中に期待通りのカオス状態を出来させてくれた。おかげで、そのカオス状態をばそのまま文章にしたらどうかとブログを書き殴ってみたのだが、なんのことはない単なる事実の羅列と愚痴に終始してしまった。これでは町田氏の模倣にもならぬどころか、井上陽水氏の解説にも全く及ばぬ駄文になってしまう。そう思って焦ってはみたものの、元々が両親公務員の一人息子である私の脳は、意味通りの文字を連ねてつまらぬ意味しか表さない文章は書けても、ナンセンスな内容ながら、いかにも意味ありげに、しかも読者にインパクトを与えるような文章を書くようにはできていないのだ。くそ、変にテストの点数だけは取れた頭の良さなんてのはこんな場面では全く役に立たない。精々が資格試験の勉強に少々役立つくらいのもんだ。

 

そんなもんいらないから、頭の中に、岡本太郎に代表されるようなちょっとあぶない人が一人住んでいたらどんなにか文筆活動のメリットになっただろう?そう考えて私は生理的にではなく、精神的な意味での涙を少々流した。ここは一発、横隔膜のストレッチのために発声練習でもかまそうか、とも思ったが、田舎とはいえ住宅地の中に建つ自宅ゆえにそんなこともできない。こうしてご近所付き合いとかいう常識の則を超えることができないまま、くたびれていくしかないのか。ぷけけ。

武田家滅亡までの歩みを周辺部から描いた力作 『戦国鬼譚 惨』読後感

 

 

人呼んで剛腕歴史小説家の伊東潤氏が、武田家滅亡までの日々を描いた連作小説集。

 

「始祖」武田信玄の死後を襲った武田家盟主の四郎勝頼は、最後は親族にまで裏切られて、取り巻き数十人という惨めな状態まで追い込まれた上で自害して果てたが、そこに至るまでに、いかにして民心が離れていったのかを克明に描く作品集だ。

 

武田勝頼というのは毀誉褒貶の激しい人物だ。戦闘能力の高さでは父信玄を凌ぐほどという評価を得ながら、治世者という意味では凡庸、というよりは悪政を敷いた人物として伝えられている。故に、武将として見るか、政治家として見るかの視点により、賢者か愚者かの評価が変わってくるのだ。

 

この書では、本人が戦う場面がほとんど出てこない。治世者として、領国の民に負担を強いる姿ばかりが強調され、結局はそれが原因で惨めな死を迎えることとなるのだが、臨終の姿までは描かれていない。あくまでも、部下の武将たちの立場から、その無能ぶりが描かれるという連作集である。

 

信玄は「人は石垣、人は城」と言われる通り、部下を非常に大切にした。まあ、これは武田家が合議制を敷いており信玄は最高権力者というよりは議会の議長のような立場だったことにもよる。しかし、信玄の場合は、甲斐本国から信濃や木曽などを攻め取ることで、論功行賞が

うまくいっていたし、朝廷との関係も良好だった。

 

対して勝頼は長篠の戦いで織徳連合軍に大敗を喫し、しかもその戦いで数多くの有能な重臣たちを失ってからはジリ貧状態。石垣も城もなくなった丸裸の王様というべきか、皮肉な形で自分に集まった権力を駆使して、配下の者たちに無理ばかりを強いる愚者と成り果てた。そして、父信玄が攻め取った土地の国衆たちの離反を次々と招いていったのである。

 

いつの世でも、人心は強いものに惹かれていく。ましてや、戦国の世では仕える人物の能力の多寡は生死に直結する。先述の長篠の戦いを始め、数々の戦いで勝利し、領国も富ませている信長と、先行きが見えない上に、無理な要求ばかり突きつけてくる勝頼のどちらについた方が生き残る可能性が高いのか?どう考えたって、勝頼に勝ち目はない。

 

結果は歴史が物語る通り。武田家は滅亡するのだが、その滅亡の影には、武田家と織田家の間で揺れ動く人間たちのさまざまなドラマがあった。

 

私は、戦国時代のシュミレーションゲームにハマっていた時期があり、戦いに勝つ→勝つのに必要な資源(人、金、武器)を集める→資源を集めるためには領国の経営を安定させる、という単純化された「勝利の方程式」みたいなもので戦国の世を見てしまうという悪癖が身についてしまった。この単純な方程式に当てはめてみても、勝頼は滅ぶべくして滅びたとしか言いようがない。しかし、勝頼が後の世から見れば無謀な決断を下した裏には、さまざまな思惑があったのだろうし、直面している「現実」の中で精一杯の最善策と判断した上での施策だったということにもまた思いを馳せないといけない。

 

今の我々は冷静な傍観者として「信長に降伏すべきだったのだ」とか「徳川に泣きつけばよかった」とか言えるが、当時の「武門の意地」というやつは、そんな「理性的」な判断をぶっ飛ばすほどに重いモノだったのかも知れないし、一つでも戦いに勝利すればまた人心の掌握もできていたのかもしれない。

 

武田勝頼に関しては、家を潰した暗愚な二代目、という見方だけではなく、さまざまに評価しようという動きが出てきたのが近年の歴史界の風潮でもある。読者としては今までの「常識」を打ち破るような勝頼像を描き出すことを、専門家たちに期待したいものである。

とりあえずトム・クルーズのアクションとキャメロン・ディアスのファンは満足できたであろう一作 『ナイト&デイ』鑑賞記

 

 

2010年の米映画。

 

2001年の『バニラ・スカイ』ではややサイコがかった女を演じ、劇中で主人公トム・クルーズの顔面に深刻な傷を残したキャメロン・ディアス。今作では謎の男を演じるトム・クルーズに散々あちこち引っ張り回されて、死ぬような思いを何度もさせられながら、最後は心まで奪われてしまう役を演じている。

 

この作品も以前に紹介した『「おもしろい映画」と「つまらない」映画の見分け方』の分析方法に従って鑑賞してみたいと思う。

 

この作品は、一言で言ってしまうと「ストーリーテリング」の「テリング」の方に最重点が置かれてしまった作品だ。すなわち、物語による感動よりも演者の躍動という「魅せ方」の方に重きが置かれているということである。派手なアクションを見せまくるトム・クルーズと、その横でアタフタしながらも美しいキャメロン・ディアスを存分に鑑賞する作品だということだ。

 

ストーリーは典型的なスパイアクション。とある秘密装置を持ち出した腕利きのCIAエージェント、「ロイ」(トム・クルーズ)に空港で偶然関わりあってしまった「ジューン」(キャメロン・ディアス)が、ロイと共に、その秘密機器を奪い取りにくる様々な悪の勢力たちとの戦いに巻き込まれる。いろんな敵が、手を変え、品を変え、時、所を問わずに仕掛けてくる攻撃を、ロイとジューンのコンビがかわしにかわしまくって、逃走に逃走を重ねるドタバタがずっと続く。

 

この逃走と、それにまつわる闘争(下手な洒落、失礼)が最大の見どころ、というより、それしか観る場面はない。しかも米映画にありがちなご都合主義、すなわち相手はマシンガンで、それこそ蟻の這い出る隙間もないほどの弾幕を張るのに、メインキャスト二人には掠りもせず、逆に、素人のジューンが撃った弾は全て相手を倒すわ、相手が倒れた拍子の偶然近くにあったナイフが相手の心臓に刺さってしまうわ、どう考えてもあり得ない展開。

 

『「おもろい」映画〜』の分析方法に則ると、主人公には最初に越えるべき試練が訪れ、最後に、乗り越えることが不可能な試練が訪れて、それをなんとか乗り越えるところに「感動」が生まれるそうだ。そういう意味で言うと、この映画の主人公ジューンには「最初の試練」ばかりが散々に襲いかかることになるのだが、自分で努力した結果ではなく、ロイというナイト(ちなみに題名のナイトはNightではなくKnight、つまり騎士の意。あらゆる場面でジューンを守るロイを騎士になぞらえると共に、ちょっとした種明かしにもなっている)に救出されるという展開ばかりなので、感動するよりは「んな都合のいいことばっかり、実際に起こるわきゃねーだろ!!」というツッコミを入れざるを得ないのだ。

 

で、最後の最後に乗り越えるべき最大の試練は訪れはするのだが、今までのアクションシーンとほとんど変わらない展開。もうだめだ、絶体絶命、と思った瞬間に、見事にナイトが救いに来て、首尾よくジューンを救い出して、何度も窮地を救ってくれたロイとジューンは結ばれて、最後は平安なリゾート地で一緒に過ごす姿が描かれて、めでたしめでたしなのだ。

 

これも現実的なツッコミを入れてしまうと、いわゆる「吊り橋効果」を大げさに描いただけじゃねーかよ!散々ドキドキさせられたんで、そのドキドキが恋慕の情に見事に転化されたというわけだ。しかし、ドキドキの度が過ぎて、「普通」の女性なら、毎日毎日、身の危うい思いをするのは嫌だ、と思うんじゃねーの?とも思わされた。

 

まあ、そういう度を越した、生死に関わる危険よりも愛情の方が優ったということで、一つの大きな危機を乗り越えたのだ、と解釈できなくもないが、ちと、小さすぎる危機のような気が、個人的にはする。トムとキャメロンのラブラブシーンはフォトジェニックではあるので、見せ方としては悪くはなかったが。

 

 

まだまだ世界の壁は厚い 女子ラグビーワールドカップ ジャパンvsカナダTV観戦記

遅ればせながら、録画したものを昨日になってようやく観た一戦。

 

残念ながら一部のラグビーファンの興味しか引いていないが、今年はニュージーランドで女子ラグビーW杯が行われている。本来は2021年に行われるはずだったものがコロナ禍の影響で一年延期されたのだ。

 

2021年のさくらフィフティーンの世界ランクは12位に対してカナダは4位。同じ予選プールの中では一番高い。なお他にはアメリカ(6位)、イタリア(8位)がいる。

 

日本は初戦で、最強の敵と当たるという組み合わせだった。事前の予想では当然のことながらカナダの優位の声が圧倒的多数。なんのなんの、男子だって、ブライトンの奇跡を起こした実績があるではないか!とアップセットを期待しながら観戦開始。

 

やはり、カナダのプレッシャーはキツく、開始早々キックチャージから先制トライを奪われた。しかしこの後のキックオフからは日本チームの上げ潮状態が続く。密集から狭いサイドを小刻みなパスで攻めて前進すると、一気にトライを奪って、すぐさま同点に追いついたのだ。

 

お、いいテンポの攻撃だ。このままこのテンポで攻められれば、ひょっとしてひょっとするぞ、と思ったのも束の間。カナダは世界ランキング通りの実力を見せる。

 

小細工も何もなし。ただ真っ直ぐに突進して、日本が人数を割いて止めてもターンオーバーを許さずに近場近場をどんどん突破。ゴール前に迫ったらモールで押し込んで、日本FWが防御に集まったところで、すかさずサイドアタック。こんなパターンで次々とトライを奪っていく。日本も懸命に守るのだが、如何せん一人一人のパワフルさに明かに違いがあった。男子ならダブルタックルでなんとか止めている場面でも女子は止めきれずに前進を許してしまうシーンが多かった。

 

ごくごく荒っぽく総括してしまえば、もし自分が出場していたら、つまんなかっただろうな、と思える試合展開。相手に、有名大学の体育会ラグビー部の2本目なんかが4,5人いると、こういう展開になりやすい。基礎体力と、基本的な技術、球際やブレイクダウンの判断が突出しているプレーヤーが、どんどん突破を図ってきて、止めても止めても球を繋がれるし、こっちが攻撃している場合はすぐにターンオーバーを喰らう。さくらフィフティーンの皆さんの努力が足りなかったとは決して思わないが、残念ながら、実力差を埋めるまでには至らなかったとしか言いようがない。

 

この後に控えるアメリカもイタリアも日本よりは格上。苦しい戦いが予想されるが、選手の皆さんには最後まで頑張ってほしい。少なくとも、自分の力を十分出しきれないで負けた、という思いだけは土産にして欲しくない。

町田康版の『ロックンロール退屈男』 『パンク侍、斬られて候』読後感

今週のお題「最近おもしろかった本」

 

 

 

なんだなんだ今週の「お題」は。米を炊くのに最良の器具を設え、かつ和食の最高の料理人の手配まで整えたような、シンプルなのに最高に贅沢なお題ではないか、私にとっては。

 

しかしながら、現在の私は、その、最良の条件を活かすだけのコメを持ち得ていない。すなわち、読み終えた本です、として差し出せるネタ本がない状態なのだ。

 

基本的に私は、読了した本の書評をブログにして初めて読了とするというルールを自らに課しているので、読んだ本の書評は、このブログか別口のものかにすぐに書いてしまう。現在は読みかけの本しかない状態なので、せっかくのはてなブログさんの舞台設定をストレートには活かせない。悔しいので、今まで読んだ本の中で一番ひねくり回しやすい小説の書評を書いてみることにする。

 

なんとしてでもこのお題で書きたい、と思わせたのは、ひとえに最近の執筆状況のなせる業である。すなわち、私はここのところ文章を楽しんで書いていない。指定された「文法」に則って情報を整理するとか、依頼主の要望に応じたテストライティングみたいなことばかりやっているからだ。プロの文筆業者として生きていこうと決意し、そのための修業であるとは理解していても、やはり楽しくないものは楽しくない。やりきったという達成感だけはあるものの、自分が満足できる内容のものを読者の皆様に提供できていないという不満は常にある。私が最高に楽しいと思ったことは読者の皆様にも楽しいと思ってもらえることのはずなのだ。

 

という、承認欲求の塊のような独白はさておき、この書は、町田康氏が初めて挑んだ本格的な時代小説である。

 

綾野剛主演で映画化もされた。綾野剛と言えば、つい最近のドラマ『オールド・ルーキー』でこそ情けない中年男を演じていたが、元々は『仮面ライダー』の主役を張っていたほどの「武闘派」である。『パンク侍〜』でも主人公としてバッタバッタと悪人どもを斬り倒す役割を与えられたのか、と思いきや、さにあらず。

 

身なりや物腰こそイッパシの剣客だが、実は弱っちく、おまけにその場しのぎの嘘ばかりついている卑怯者という設定。ま、これは小説の設定がそうなのだから綾野氏の罪ではない。

 

「首にマフラー、背中にギター」と歌う、大瀧詠一師匠の『ロックンロール退屈男』さながら、刀よりは楽器の類をかき鳴らして、メチャクチャな旋律に意味の不明な歌詞を乗っけて歌っている方がよほど似合う主人公なのだ。故に、実に短絡的だが、町田康氏版の『ロックンロール退屈男』となぞらえてみた。

 

ただし、全くのコジツケというわけでもない。大瀧師匠の『ロックンロール退屈男』は『A Long Vacation』(以下ロンバケ)の大ヒット以降、その路線の作品ばかり作らせようとするレコード会社(もう、こういう言い方はしないが、この時代はまだ健在な呼び名だったね)並びに、世間の期待に対してのアンチテーゼとして作られたものであると、私は勝手に推測する。世間がどう思おうと、どう期待しようと、俺の作りたいのはこういう音楽だもんねー、と福生の山奥のスタジオであかんベーをしている顔が浮かぶようだ。

 

町田氏にしても然り。町田氏の作品が芥川賞を受賞したことにより、町田氏のつむぎだす言葉は、町田氏の意図するところとは別の捉え方をされるようになってしまったのではないか。「芥川賞作家」の言葉として、勝手に重々しい意味を与えられて、町田氏が本当に描きたかったこと、叫びたかったことが捻じ曲げられて伝わっているのではないかということを危惧した町田氏が徹頭徹尾、意味がありそうでないことを書いたのがこの作品だ、というのが私の読後感である。

 

物語は、最初についた嘘が元で、ヘンテコな宗教団体を巻き込んだとある大名家のお家騒動を収めることを期待された主人公が、どんどん嘘に嘘を重ねていくことにより、その大名の領地内をメチャクチャにしていくというドタバタである。その中で、宗教団体はもちろんのこと、何かしら意味ありげな存在として大量の猿が登場して、人間と乱闘を繰り広げるのだ。勝手に意味を持たせてしまえば、猿は人間の勝手な都合により、その存在を脅かされている「自然」そのものの象徴という解釈も成り立つが、ここはそんなことを考えずに、文章を読んで喚起される脳内の混乱状況をそのまま楽しむのがイキというもの。

 

最初の最初に仕込んだ伏線が最後で見事に回収されるという爽快感はあるものの、やはりこの書は、町田氏は本当に何も考えずに瞬間的な感覚のみで発した言葉をつなぎ合わせているだけではないか、だとすればもしかすると、町田氏への芥川賞授与は「世紀の大誤審」ではないか、みたいなことを疑いながらも、込み上げてくる笑いを抑えない、というのが正しい鑑賞の仕方なのだと思う。

人生はピークを迎えた後の方が長い 『人生はそれでも続く』読後感

 

私は、結構「あの人は今?」的な企画は好きだ。それも、どちらかといえば、華々しいデビューを飾ったものの、その後はヒット曲に全く恵まれないいわゆる「一発屋」とか、絶頂期には寝る暇もないほどメディアに出まくっていたものの、とんと姿を観なくなったお笑い芸人とか、芸能マスコミが追いかけるような人を取り扱ったものが好きだ。

 

過去の栄光にすがって、いまだにいわゆる「営業」を地道に続けている人もいれば、全く別の分野に転職して暮らしている人もいる。こちらも、地に足のついた地道な仕事をしている人もいれば、派手な商売で芸能人の時以上に稼いでいる人もいる。

 

この方々たちに共通するのは、若くしてスポットライトを浴びたはいいものの、その後、大きな挫折を味わっているということ。その挫折をどう乗り越えたのか?あるいは挫折を乗り越えられず、恵まれない暮らしを続けているのか?下手なドラマを見ているよりはよほど面白いお話が存在している。

 

この企画を「市井の人々」にまで広げ、単なる興味本位の追いかけ記事から一歩踏み込んだものにしたのが読売新聞。「まじめな話題」の主として、ある時期大きな紙幅をさいて報道された人物たちのその後に迫っている。決して明るい話題だけではなく、家族を皆殺しにされ一人取り残された人物の長い苦しい日々を追ったものもある。月に一度ほどの企画だそうだが、長い場合には1年もの間取材を続けた上で記事にするのだという。速報性重視の名の下で日々の出来事の表層を伝えざるを得ない宿命を持った新聞としてはなかなかに意欲的な取り組みだ。読者からの反響も多い企画だという。

 

私が一番興味を惹かれたのは、千葉大への飛び級進学者のその後だ。そもそもこの本を読んでみようと思ったのも、ネットに載った、この方の紹介記事からだった。

 

で、この方、研究者としての生涯を若くして約束されたような方だったのだが、現在は大型トレーラーの運転手をしているという。理由は簡単。研究者では「食えない」からだ。

 

日本の特に企業の研究所というのは、いかに利益を上げるかに直結する研究を課題として出され、しかも1〜2年などという短期間で成果を上げることを求められる。学術的な期間で研究に勤しむ場合、論文の一つも書いて地位を上げないことには給料は安く据え置かれたまま。

 

技術立国を謳っておきながら、日本の学術界の現状はお寒いばかり。お金に執着しない仙人のような方もいるには違いないが、研究者だって人間だ。やしなうべき家族もいれば、自身が「人並みの生活」を営む権利だってある。研究者としてもらう給料では生活していけないとなれば、「食える」職業に宗旨替えせざるを得ない。彼の選択を誰も責めるわけにはいかない。責めるのだとすれば日本の社会環境そのものだ。

日本の強みであった、白物家電もIT機器も中国や韓国の後塵を拝している現状のなかで、逆転につながりそうなチャンスの芽を自らむしり取って捨てているような現状。今後のことを考えると暗澹たる気持ちにさせられる。たった一人の人生の変転の背後には、これほどまでに深く、暗い構造的欠陥が横たわっているのだ。

 

いずれにせよ、スポットライトを浴びるのはほんの一瞬だったが、その後の人生の方が長い。一度もスポットライトを浴びない人物からすれば、一度でも光を浴びた人物というのは羨望の対象なのかもしれないのだが、そこで光が当たったことがよかったのか悪かったのかは、それこそ死ぬ間際までわからないし、本人にしか判断のつかないことだ。そんな当たり前のことを改めて認識させてくれた一冊。是非とも続編を望みたい。