脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

町田康版の『ロックンロール退屈男』 『パンク侍、斬られて候』読後感

今週のお題「最近おもしろかった本」

 

 

 

なんだなんだ今週の「お題」は。米を炊くのに最良の器具を設え、かつ和食の最高の料理人の手配まで整えたような、シンプルなのに最高に贅沢なお題ではないか、私にとっては。

 

しかしながら、現在の私は、その、最良の条件を活かすだけのコメを持ち得ていない。すなわち、読み終えた本です、として差し出せるネタ本がない状態なのだ。

 

基本的に私は、読了した本の書評をブログにして初めて読了とするというルールを自らに課しているので、読んだ本の書評は、このブログか別口のものかにすぐに書いてしまう。現在は読みかけの本しかない状態なので、せっかくのはてなブログさんの舞台設定をストレートには活かせない。悔しいので、今まで読んだ本の中で一番ひねくり回しやすい小説の書評を書いてみることにする。

 

なんとしてでもこのお題で書きたい、と思わせたのは、ひとえに最近の執筆状況のなせる業である。すなわち、私はここのところ文章を楽しんで書いていない。指定された「文法」に則って情報を整理するとか、依頼主の要望に応じたテストライティングみたいなことばかりやっているからだ。プロの文筆業者として生きていこうと決意し、そのための修業であるとは理解していても、やはり楽しくないものは楽しくない。やりきったという達成感だけはあるものの、自分が満足できる内容のものを読者の皆様に提供できていないという不満は常にある。私が最高に楽しいと思ったことは読者の皆様にも楽しいと思ってもらえることのはずなのだ。

 

という、承認欲求の塊のような独白はさておき、この書は、町田康氏が初めて挑んだ本格的な時代小説である。

 

綾野剛主演で映画化もされた。綾野剛と言えば、つい最近のドラマ『オールド・ルーキー』でこそ情けない中年男を演じていたが、元々は『仮面ライダー』の主役を張っていたほどの「武闘派」である。『パンク侍〜』でも主人公としてバッタバッタと悪人どもを斬り倒す役割を与えられたのか、と思いきや、さにあらず。

 

身なりや物腰こそイッパシの剣客だが、実は弱っちく、おまけにその場しのぎの嘘ばかりついている卑怯者という設定。ま、これは小説の設定がそうなのだから綾野氏の罪ではない。

 

「首にマフラー、背中にギター」と歌う、大瀧詠一師匠の『ロックンロール退屈男』さながら、刀よりは楽器の類をかき鳴らして、メチャクチャな旋律に意味の不明な歌詞を乗っけて歌っている方がよほど似合う主人公なのだ。故に、実に短絡的だが、町田康氏版の『ロックンロール退屈男』となぞらえてみた。

 

ただし、全くのコジツケというわけでもない。大瀧師匠の『ロックンロール退屈男』は『A Long Vacation』(以下ロンバケ)の大ヒット以降、その路線の作品ばかり作らせようとするレコード会社(もう、こういう言い方はしないが、この時代はまだ健在な呼び名だったね)並びに、世間の期待に対してのアンチテーゼとして作られたものであると、私は勝手に推測する。世間がどう思おうと、どう期待しようと、俺の作りたいのはこういう音楽だもんねー、と福生の山奥のスタジオであかんベーをしている顔が浮かぶようだ。

 

町田氏にしても然り。町田氏の作品が芥川賞を受賞したことにより、町田氏のつむぎだす言葉は、町田氏の意図するところとは別の捉え方をされるようになってしまったのではないか。「芥川賞作家」の言葉として、勝手に重々しい意味を与えられて、町田氏が本当に描きたかったこと、叫びたかったことが捻じ曲げられて伝わっているのではないかということを危惧した町田氏が徹頭徹尾、意味がありそうでないことを書いたのがこの作品だ、というのが私の読後感である。

 

物語は、最初についた嘘が元で、ヘンテコな宗教団体を巻き込んだとある大名家のお家騒動を収めることを期待された主人公が、どんどん嘘に嘘を重ねていくことにより、その大名の領地内をメチャクチャにしていくというドタバタである。その中で、宗教団体はもちろんのこと、何かしら意味ありげな存在として大量の猿が登場して、人間と乱闘を繰り広げるのだ。勝手に意味を持たせてしまえば、猿は人間の勝手な都合により、その存在を脅かされている「自然」そのものの象徴という解釈も成り立つが、ここはそんなことを考えずに、文章を読んで喚起される脳内の混乱状況をそのまま楽しむのがイキというもの。

 

最初の最初に仕込んだ伏線が最後で見事に回収されるという爽快感はあるものの、やはりこの書は、町田氏は本当に何も考えずに瞬間的な感覚のみで発した言葉をつなぎ合わせているだけではないか、だとすればもしかすると、町田氏への芥川賞授与は「世紀の大誤審」ではないか、みたいなことを疑いながらも、込み上げてくる笑いを抑えない、というのが正しい鑑賞の仕方なのだと思う。