脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

お勉強の一科目にしてしまうのはもったいないほど歴史って面白い 『戦国武将の選択』読後感

 

 

各種のメディアに登場することも多い、著名な歴史学者本郷和人氏が、自身の研究のど真ん中である中世を取り上げた一冊。

 

学校でのお勉強の中の一科目として、知識の暗記ばかりを求められがちなのが歴史だが、暗記させられた「史実」を根本からひっくり返すような可能性をいくつも示唆する内容となっている。

 

例えば、織田信長が一躍、戦国武将の筆頭格に躍り出たとされる「桶狭間の戦い」。私が暗記に勤しんだ受験生時代は、自軍と織田軍との圧倒的な兵力差に油断した今川義元が、突然の雷雨で桶狭間という名の通りの、狭い谷底の土地で休憩していたところを、奇襲してきた織田軍にあっという間に討ち取られたと教わったものだが、10数年前くらいには桶狭間は谷底などではなく、桶狭間山という小高い丘のような場所だったという説に変化していたと記憶している。標題の書では、桶狭間の戦いは奇襲ですらなく、織田軍と今川軍が正面衝突した結果、織田軍が堂々と勝利をおさめたのではないか、という仮説を提示している。

 

もちろん学者たるもの、いくら雑文やエッセイの類であっても論拠のない説を唱えたりはしない。

 

例えば、この戦で今川方は大将の今川義元をはじめ、多くの有力武将が戦死したと伝えられているが、もし義元の首だけを狙った少数の兵による奇襲であるなら、その他の武将にまで手が回らないはずだという説はなかなかに強力だ。もちろん大将の義元が早々に討ち取られたことで大混乱に陥った今川軍を織田軍が蹂躙しまくったという反論も成り立つが、今川軍は大軍ゆえに、情報の伝達が遅く、軍の末端にまで義元戦死の報が伝わるまでに時間的余裕があり、その間に他の有力な武将は軍の体勢を立て直すことができたのではないかという説も述べられている。私はどちらかといえば本郷氏の説の方が「合理的」だと思えてしまう。いくらなんでも義元一人の力だけで万単位の人間を動かせるわけはないし、だとすれば様々な中間の指揮官がいたわけで、その指揮官たちがそんなに簡単に敵に背を向けるはずはない。それどころか、大将の敵討ちとばかりに、それこそ衆を恃んで反撃に出た可能性の方が大きいと思う。

 

さらに、本郷氏は当時の信長に数千の兵しか集められなかったという説にも異を唱えている。信長の領土尾張は当時の日本国内では屈指の穀倉地帯であったし、中部地方以東の地と都である京都との中継点にあったため、交易の要衝として経済的に潤っていたはずで、軍事専門の兵を多数抱えることが可能だったはずだというのだ。確かに戦国を舞台としたいくつかのシュミレーションゲームでも、尾張の地は他国よりも軍資金を蓄えるのが容易であるという設定は共通していた(笑)。

 

ではなぜ、数千の兵で数万の敵を破ったという「史実」が形成されたのか?これは信長の業績を記した「公式な」書物である『信長公記』の記述によるところが大きい。信長という人物のカリスマ性を高めるために、あえて無謀な戦いに挑み、勝ったという記録を捏造したのではないか、という説を本郷氏は述べ、それゆえ、史料の記述だけに頼った研究は過ちを犯す可能性が少なからずある、という自身への戒めまで述べているのだ。

 

こうしたいろいろな可能性を提示される度に、いかに学校のお勉強として習った歴史がつまらないものであったかを思い知らされることになる。

 

単純に多くの兵を集めればいいわけではなく、農繁期や気象状況との兼ね合いをどう考え、どう修練させるか、どう戦いへの士気を高めていくかなどは、現在のビジネスにおける人材マネジメントに関しても十分に応用の効くお話だし、単純に人間の行動の考察としても興味深いオハナシだ。

 

以前に↓の投稿で紹介した伊東潤氏の作品によれば「長篠の戦い」では鉄砲そのものの量よりも調達できた火薬の量で勝負が決まってしまったそうだ。

www.yenotaboo.work

 

では織田軍はなぜ大量の火薬が調達でき、武田軍はできなかったのか。諜報戦での優劣、人的ネットワークの有無、地理の遠近、資金の量など、複雑な事情がそれこそ幾重にも重なった結果であることが伊東氏持ち前の「剛腕」な筆致で描かれている。

 

これは本当に代表的な例だが、歴史上の様々な出来事をただの記録の集積として覚え込むのではなく、当時の人間たちのどういった行動の集積によってもたらされたものであったのかを考えることは実に面白いと私には思える。様々な事象に対しての考察が正しいか正しくないかを論じるのではなく、どのような可能性が考えられるだろうか、また、ある条件が変化したら、今記録として残っている歴史はどのように変化しただろうか、などと想像し始めると、それこそ夜も眠れない。

 

特に、傑出したキャラクターを多数輩出した戦国時代に思いを馳せることは実にワクワクする。戦国シュミレーションゲームが根強い人気を誇るのも理解できるが、ゲームはいかに複雑に作ってはあっても、ある程度は条件を単純化定量化して優劣を決めるという結果を出すことが目的で、結局はゲーム作者の考えたいくつかの結末に行き着いてしまう。同じ時間をかけるなら、いろんな資料を読み込んで、自分なりの仮説を立てることで楽しみたいものだ。

 

 

支離鬱々日記Vol.151(あれこれ買い物と庭づくり)

今週のお題「買いそろえたもの」

 

お題に関連づけた文を書くつもりはなかったのだが、そういえば昨日、結構まとまった買い物をしたな、と思い立ったのでページビュー稼ぎも兼ねて書き殴ってみる。

 

今年は例年に比べ、花粉症が酷い。空気は以前に住んでいたお江戸の片隅よりはずっと澄んでいるはずなのだが、杉の木がたくさん生えている場所に近くなったせいなのか、体力的に弱っているのか、いわゆるシックハウス症候群の軽いやつも併発しているのか、とにかく、鼻水の出も多量かつ勢いが激しいし、目の痒みもしつこい。ついつい擦ってしまうから、強膜炎まで誘発してしまった。

 

そんな様子を見ていた最高権力者様から「書斎にも空気清浄機を入れてみたら?」と提案があったので、即座に買いに行くことにした。

 

で、店頭で見て、デザイン、大きさ、性能全てが程々で良さそうだと思ったのが↓の商品。正確には表示してある商品の後継機に当たるであろう「FU-PC01」という機器だ。買い求めたチェーン家電量販店との契約でもあるのだろうか、アマゾンの検索だと昨年モデルの同型の商品しか表示されない。まあ、カタチは変わらない。

 

 

設置してしばらく稼働させた後に、私の書斎に入ってきた最高権力者様が一言「あら、部屋の空気が変わったみたい」。一晩稼働させた今朝の空気は確かに少し浄化されたようで、鼻水も目の痒みも幾分か軽減された。必要なものを適正に使えば、それなりの効果はあるものだ。

 

さて、その家電量販店を訪れた際に、とりあえず見てみよう、と最高権力者様に恐る恐る提案したのがミニコンポ。最高権力者様は自分の部屋である「楽器部屋」で、今までの集合住宅では隣家を慮って出せなかった大きな音でクラシック音楽を思い切り聴きたいという希望をお持ちで、「どうせなら少しいいオーディオ機器が欲しいわね」というご意向を漏らされていたためである。私も、高性能な機器で大きな音量で聴くクラシック音楽には魅力を感じていたので、少々モノの良いミニコンポをできるだけ早く買いたいとは思っていた。ただし、ここ数ヶ月いろいろとモノ要りで給与振り込み口座の残高が著しく減少してもいたため「夏のボーナスが出たら考えましょ」というのが最高権力者様のご意向。昨日はあくまでも下見という位置づけだった。

 

しかしながら、店頭でモノを見た瞬間に、最高権力者様が一目惚れしてしまった機器が↓。

 

性能的なことはひとまずおくとして、木目調のデザインと手頃な大きさにビビッときてしまったようだ。私もこの機器は、ネット等々で見て気になっていたので、クレジットカードのボーナス一括払いを利用して即購入。たまたま店舗には在庫がなかったため、来週入荷次第引き取りということとなった。私の書斎は防音対策を施していないので、大した音量は出せないが、楽器を演奏することを前提に作った部屋なら、相当な音量でクラシック音楽が聴けるはずである。自宅でコンサートホール気分に浸るのも悪くない。

 

さて、昨日は少しだけ庭をいじった。本格的な造作の前に、とりあえず目障りな小石を集めて庭の一角を掘って埋めただけのお話だ。最高権力者様の頭の中には、芝生を敷いて、踏み石を並べて、花壇も作って、さらにプランタースタンドで少々の野菜やハーブを育てるというプランがあるようだ。一本オリーブの木を植えたいというご意向もお持ちだし、私の母からはレモンの木を植えたらどうか、という提案が出され、それも検討するようだ。

 

土地の高さを調整するために、とりあえず、いろんなところの土砂を寄せ集めてならしただけの庭なので、雨でも降った日にはドロドロになってしまい、玄関内まで著しく汚れてしまうのが一番の問題だった。とりあえず、そのドロドロ汚れを回避することが一番の目的だが、せっかくの終の住処なのだから、思うままに造作をしてみたいという希望は私にもあった。

しかしながら、昨日の作業は素敵に疲れた。庭中に散らばった石を集めるだけでも一苦労。それを埋めるための穴を掘るのは文字通りの重労働。石も木の根も散々埋まっていて、なかなかスコップが入って行かない。しかも変に粘土質な土が水をたっぷり含んでいたので、土が重かった。刑事ドラマなんかで殺人犯が死体を埋めるのに穴を掘るシーンがあるが、野犬なんかに掘り返されないよう、十分な深さの穴を掘るにはそれこそ一晩かかる、ってのを実感した。やっぱり犯罪モノのドラマで、これから殺す相手に、自分を埋めるための穴を掘らせるシーンなんてのが出てきたりするが、これほど絶望的な作業もないな、なんてなことも感じた。秦の始皇帝が行った坑儒やら楚の項羽が命じた大量の阬(人を埋め殺すこと)なんてのも随分と重労働だったのだな、などと少し想像を飛躍させもした。穴掘りなんてのはそうでもしないと耐えられないような単純かつ重い作業だったのだ。

 

お陰様で、今朝は体のあちこちが筋肉痛だ。でも多少なりとも体を動かした効果か、今朝は気持ちが少し軽い。じっとしているよりは、汗をかいた方が快適だという、自分自身の脳筋体質を再確認したので、本格的に体を動かしていこう、とも改めて感じた。

反省だけなら猿でもできる。全く反省しないという「選択」は人間にもできる 『失敗は忘れていい 反省はしなくてもいい:イヤなことばかり思い出してしまうあなた』読後感

 

 

ここのところ、主にココロの状態があまり良くない。昨年から拝命した仕事がトラブル続きで、その処理に疲弊したのと、ついに以前からの仕事にまで影響し始め、そっちにもミスが生じてしまったからだ。

 

私は、ポンコツな割にプライドだけは高いので、失敗すると人並み以上に自分を責めて落ち込み、しかも回復に非常に長い時間がかかる。「こんな簡単なこともできない自分が許せない」という状況が続き、自分自身で傷口に塩をすりこむような思考をずっと繰り返してしまうからだ。で、それだけ苦しむ割には、失敗の原因追求からは目を背けたままなので、「失敗から学ぶ」ことをせずに、またぞろ同じ失敗を繰り返しては落ち込み、日々のパフォーマンスも下がるという悪循環を繰り返している。先週も末になって、それなりに重要な仕事がすっぽり抜け落ちてしまっていたことを指摘され、ココロのいろんなところに引っ掛かりを持ちながらの三連休になってしまった。おかげさまで、心の底からの休養にはなっておらず、従って疲労の完全な回復にはつながっていない。まあ、会社PCを立ち上げないだけでも気持ちは確実に休まってはいるのだが…。

 

こういう時は、ついつい精神安定剤的な本に手が伸びてしまう。Kindle Unlimitedにラインアップされていたこともあって、衝動DLしてそのまま読み切ってしまった。

 

結論から言うと、精神安定剤的な効果は十分にあった。とにかく忘れてしまえばいいのだ。同じ失敗を繰り返しても仕方なし。これからいくら頑張ってもいわゆる「出世」とは無縁なんだし、とりあえず給料もらえてりゃそれでいいじゃん、自分の失敗なんざ、会社にとって大したことじゃない、もっといえばロシアのウクライナ侵攻みたいな大事に比べりゃ塵芥ほどの重さもない実にくだらないことだ、という開き直りにはつながった。とりあえず、現時点では何もできないのだから、悩むだけ無駄だ、と思い切った。まあ、これはこの本の効用だけではなく、先週に久々に受診したカウンセリングで、ココロの底に溜まってたオリをかなり吐き出せたことの効果も大きいのだが。

 

失敗から何か学ぶことよりも、失敗によるダメージに囚われてしまいがちなクセを持っている私にとってはなかなかに効果的な一冊だったように思う。責任感が強い方にこそ読んでほしい一冊である。

 

昨夜読了したまま寝落ちしたのだが、その後の夢見が素敵だった。営業職時代に商談がうまくいった得意先が次々と現れ、現在も繁盛しているという姿が次々と現れてきたのだ。そうそう、何も失敗ばかりしてたわけじゃない。ちゃんと成功体験だってあるし、明確な形で会社に貢献したっていう「実績」だって、数は少ないながら(笑)ちゃんとあるのだ。

 

読んだ本の内容を、脳が理解して素敵な夢を演出してくれたようだ。今回のミスに関しては、流石に昔の「栄光」を引き合いに出して帳消しにするわけにはいかないが、少なくともそのミスに数倍するだけの貢献はしてきてんだぞ、俺は、という気合いは復活した。気持ちの重さをさほど感じない週明けになりそうだ。

 

怒りのエネルギーは有効活用しよう 『キミは「怒る」以外の方法を知らないだけなんだ』読後感

 

 

最近特に怒りを感じることが多い。それもウクライナへのロシアの侵攻という暴挙に対してなどの「高尚」な怒りではなく日常の瑣末的な事への怒りだ。

 

取引先は勝手にサービスの縮小を宣言するし、上司は自分のプライオリティーで仕事を振ってくるし、提出してくる書類は不備のあるやつばかりだし、たまに出社すりゃ腐り脳筋弱り毛根バカも出社してやがって、こいつは視野に入ってくるだけでムカつくし…。そもそも仕事はつまんないし、こんなつまんない仕事しか割り振らない会社には常に種火としての怒りを持っている。

 

まあ、何しろ、笑わない日はあっても怒らない日はないというほど、怒りのネタはそこいら中に転がっている。怒った瞬間だけはそれなりの解放感を感じることはできるが、根本的な状況が好転するわけでもない。他人は自分の思い通りには動かないし、望んでやまない仕事に就けるわけでもない。残るのは「今日も一日疲れたなぁ」という思いと「結局何も変わらない」という虚しさだけ。自分の好きなことに打ち込む時間も気力も奪われて、メシ食って寝るだけの夜が来て、目覚めたらまた同じ日常が待っている。無期刑食らった囚人そのものだ。しかも怒りという感情は自分自身を疲弊させるだけでなく、周りの人間との関係を悪化させたり、社会的地位を危うくしたりする。百害あって一理なしというのが怒りの感情なのだ。

 

世の中で「普通」に生きてりゃ不満が募るのはある意味当たり前で、その不満が感情として具体化したのが怒りなのだから、怒りから完全に自由になるのはほぼ不可能と言って良い。ここでただ怒っているだけでは、エンジンを空ぶかししているようなもので、エネルギーを浪費するだけ。そのエネルギーをうまく推進力に変えることができれば、自分の望んだ方向に注力することができ、成果も喜びも生まれてくるはずだよ、ってのが表題の書の主旨。

 

では怒りとどうやったらうまく付き合えるか、そのエネルギーを推進力に利用できるか?具体的な気持ちの持ちようと、方法については是非とも本文をご一読いただきたい。わかってはいてもなかなか実行するのは難しい、というオハナシも少なからず含まれてはいるが、「なるほどそういう考え方もできるな」という視点ももらえるのは事実である。

 

怒るということは、怒れるだけのエネルギーを持ち得ているということなのだから、そのエネルギーを、怒りの原因の解消に使うか、あるいは全く別の道で生かすかして、とにかく無駄にしない。他人や環境はそのエネルギーを以ってしても変えるのは難しいから、自分に向けて有効活用しよう、という考え方は単純でありながらなかなか気づけないことなのではないかと思う。

 

私は、怒りを感じたら、それを文章とかつぶやきとかのネタに転化することを、より強く意識していくことにした。今まででも腐り脳筋弱り毛根バカのことなんざ、この駄ブログで散々ネタにしてやったし、クソ上司のことや勘違い上司のことや、会社から受けた(私にとっては)理不尽な仕打ちに関してはもっと大きな文章のネタにするつもりだ。

 

怒りを感じたら「キレ芸のネタが増えたな」と思えるくらいになればシメたもの。怒りを感じた瞬間にその場で披露してしまうのではなく、ネタとして貯めておけば後で作品として大きな賞賛を浴びるに違いない(と信じたい 笑)。

 

嫌な気分になることのなかった短編集 『サファイア』読後感

 

イヤミス」の第一人者湊かなえ氏の短編集。

 

松たか子主演(ついでに言うと「子役」芦田愛菜出世作)で映画化されたことで大々的に宣伝されていた『告白』を試しに読んで、そのエンディングにすっかりまいってしまい、一気にファンになって、一時期「出ると買い」していたが、例によってほとんどの本は「積ん読」状態。長々とした通勤時間+入浴時間を使ってようやく読み切ったのが表題の一冊。考えてみれば湊氏の短編集を読んだのは初めてだった。

 

湊氏の長編はさまざまな人の視点から同じ場面を描き、結末になだれ込むといういわゆる「クリフハンガー方式」を取るものが多いのだが、短編には流石にこの手法は使えない。一つの視点で描ききった作品が七つ収められており、作品たちにはそれぞれのモチーフとなった宝石の名前が題名として付けられている。

 

それぞれの作品には当然のことながらきちんとオチがつけられているのだが、この作品集に関しては「イヤミスの女王」の異名にそぐわず読後に嫌な気分になった作品はなかった。もちろん作品中に張られた伏線を巧みに回収して、きちんと納得のいく意外な結末にはなっている。別に嫌な気分になるようにばかり物語を展開させる必要はないし、「きちんと」カタルシスを感じさせる作品を書ける実力があるからこその「イヤミス」という表芸なのだということがわかる作品集である。なお巻末で書店員という肩書きの児玉憲宗氏という方が「湊氏の作品を読むと後味が悪いという方がいるが、世の中の物事を見渡してみれば清々しい結末に終わることの方が遥かに少ない。人々の心の中の闇を描きだすところに湊氏の作品の妙味がある」という主旨の解説をお書きになっているが、私もこの方の説に賛成である。砂糖でコーティングされたような甘い物語が世の中で好まれるなら、あえて苦味も酸味も辛味も全て活かし、もしその味わいが不快に感じるようなものに仕上がってもそれをそのまま世に問うような姿勢こそが作家としての矜持ではないか、と思うからである。

 

大上段に振り上げた作家論は一旦ここで終わりにしよう。

 

短編集自体の名前ともなった『サファイア』と『ガーネット』だけは、それぞれが独立した作品でありながら、湊氏お得意のクリフハンガー形式による一編の作品と考えてもおかしくない仕上がりになっている。サファイアは青だし、ガーネットは赤。同じ一つの事象を宝石の色と同じように全く反対の視線で見た場合の対比がわかりやすいように、この二作は連続して読まれるよう編集されている。『サファイア』単体でもきっちりと完結しているが、『ガーネット』を最後まで読めば、二つの作品を貫いてきたストーリー展開全体に対してのオチが味わえるという仕掛けである。で、このオチがイヤなものでなく、希望の光を感じさせるものになっているから、短編集自体の印象がイヤなものにならないという仕上がりになってもいる。

 

あえてこの駄文がイヤな感じで終わるよう、変な例えで締めることとする。拷問の名手が、どこをどう責めれば効果的に苦痛を感じさせることができるか、あるいは逆に快感を感じさせられるのかを熟知しているように、湊氏は、文章の流れをどう操ればイヤな後味で終わり、どう変えればあたたかな気持ちで終われるのかをしっかり理解した上で、どんな結末にしたら読者により深い感動を与えられるかの選択も間違わない、高度なエンターテイナーである。彼女の作品だけで小高くなっている「積ん読」山の迷宮に踏み入ってみることにしよう。読後感書くのが厄介そうな作品ばかりだが(苦笑)。

支離鬱々日記Vol.150(日常生活あれこれ)

今回は久しぶりに、思いっきりの身辺雑事を書いてみたいと思う。

 

ここのところ、心身ともにとにかく疲労している。身体的な疲労感の原因は花粉症だ。鼻水はひっきりなしに出るし、目は痒いし、くしゃみは連発するし、だるさもずっと感じている。目なんぞは、痒みを通り越して強膜炎まで誘発してしまった。アレルギーを抑える薬を飲んでいてもこの鬱陶しさは消えない。あと2ヶ月は辛抱の日々が続く。

 

ココロの方の疲労感は、昨年から加わった新しい、本当につまらない仕事のストレスだろう。外部環境にさまざまな変化があったとはいえ、毎日深刻なものではないもののトラブル続き。

おまけに上司は特にフォローするでもなく「最優先でやってください。自分で方法も考えて」の一点張り。で、自分なりに考えてやってみれば、「それはやり方が違う」。「やり方が違う」ってのなら最初から正しいやり方教えろよ。元々担当していた仕事に差し障りがないからということで引き受けたのに、完全に元々の仕事に支障来してるぜ、まったく。私の中の優先順位からいけば、元の仕事の全てが、新業務より上だ。新しい業務は「片手間」で済むってことで引き受けたのに、今や最大のストレッサーだ。

 

そんなこともあり、今飲んでいる抗うつ剤精神安定剤の効き目にも今ひとつ実感が持てないので、数年ぶりにカウンセリングを受けてみることにした。上司は私の不満を汲んでくれないし、このご時世で週に1回しか出社しないから、同僚と愚痴の言い合いなんていうストレス解消も図れない。今の膠着状況を一度思いっきりぶちまけてみるのも打開の手立てではないかと考えた末の決断だ。なお、上司とちょっとした面談をする機会があったので、カウンセリングを再開する旨、チラリと話してみたら結構焦っていた。まあ、上司のフォローに不満を感じているのも事実ではあるが、そこはズバリと言わずに「いろんなことが重なって少々精神的に不調なもので」とだけ答えておいた。引っ越しもあったし、母の介護もあるし、伯父は亡くなったしで、それらしき原因には事欠かない(笑)。

 

ふと思い立って、IT機器を整理することにした。現在、主に使っているmacminiの他に、秋葉原のPCショップオリジナルの円筒形の小型PC、外でも文筆活動ができるようにと買い求めた小型のノートPC、自炊用のスキャナのオペレーティングマシンとしての10年モノのMacBookProと買い替え時にデータ移行が済んでからということで下取りしてもらえなかったiPhone8が、ほとんど使われないまま、机の上に鎮座ましましている。勢いで買い求めてしまったり、捨てるのがもったいないということで持ち続けてきたが、ここで一気に勝負に出る。

近所に中古品の売り買いを主とする家電量販店の支店を見つけたので、そこに全ての機器を持ち込んで処分し、代わりに小型のノートPCを買うことにしたのだ。ノートPCは書斎でスキャナのオペレーティングマシーンとして用い、外出時には文筆活動に使う。まあ、田舎ゆえ、文筆活動に適したカフェなどはないので、外に持ち歩くことはあまりないのだが…。何しろ、今持っている機器は全て反応が遅い。macminiや会社のPCの反応に慣れているが故に、今回売ろうとしている機器を使ったときの反応の遅さには思いっきりイライラさせられる。いいペースで走っていたのに、いきなり足元に縄でも張られてケッ躓かされるような思いをすることがしばしば。机の上のごちゃつきを整理する意味でもそれなりの性能を持ったノートPC1台に絞り込むというのはそれなりに合理的な判断だと自惚れておく。単に「モノが買いたい」という買い物依存症が顔を出したに過ぎないのかもしれないが(苦笑)。

 

さて、そろそろ春が訪れようとしている今の時期、当家の最高権力者様の最大の関心事は庭の造作である。文字通り猫の額ほどの広さしかない庭ではあるが、現在は石ころ混じりの土が剥き出しになった、「原野」状態である。このままにしておいたのでは、雑草が跳梁跋扈するだけなので、見苦しくないようにだけはしたいというのは私にも共通した心情だ。最高権力者様としては、花壇を作り、雨などでぬかるんでも泥で汚れないような敷石で通路を作った上で、残りの場所には芝生を植えるという心算のようだ。あ、あと一つ。ハーブやちょっとした野菜を植えるためのプランタースタンドも設置するようだ。このプランターとそこに入れるための土は既に届いている。明日の日曜に私が組み立てることになるだろう。

 

まあ、庭に関してはこれからさまざまな試行錯誤を繰り返していくことで、いろんな知恵や知見を手に入れていき、満足いくまで改良を続けていきたいと思う。会社の仕事と違って、こういう悪戦苦闘は望むところだ。成果が目に見えてわかるし、試行錯誤そのものが楽しい。私は花壇の片隅に、集合住宅のプランターではほとんど生育しなかったラベンダーを植えて育ててみたいと考えている。

『枕草子』は教材ではなく堂々たるエンターテインメント作品 『ちょっと毒のあるほうが、人生うまくいく!』読後感

 

 

先週末から花粉症が本格的に始まり、鼻水はずるずるだわ、目は痛いわ、熱っぽいわで体調は最悪。おまけに仕事は面倒臭いことばかり。過去の担当者がずるずると先送りにしてきたことがついに先送りにできなくなったとか、取引先が一方的にシステムを変えてきたりとか、全体像が見えないまま今までの私の「常識」でコトを進めたら一方的に怒られるわで、何しろ心身ともに状況は最悪。先週末は何もかもが嫌になって一日完全に仕事をすっ飛ばして不貞寝してた。そうでもしないと、長い休みを取らざるを得ないという予感があったためだ。

 

というわけで、こういう状態の時に本棚を見回すと目についてしまうのが、精神安定剤的作用のありそうな「心の持ち方」とか、「辛さのやり過ごし方」みたいな本。標題の書も「開き直って、できねーもんはできねーってケツまくっちまえ」的な内容だと勝手に想像して手に取った。清水義範氏は「出ると買い」作家の一人だったので、特に内容をあまり考えずに、電子書籍導入前には必ず行っていた月に1、2度の「気になった本すべて買い」の際にでも買い求めたモノだと思う。

 

例によって、長々と前置きを書いてしまったが、ページをめくってびっくり。日本最古の随筆文学作品の一つにして、最高傑作であるとも評されている「大看板」『枕草子』の解説本だったのだ。

 

枕草子』はビッグネームすぎて学校の教科書でしか読んだことがない。文学作品であるという前に「教材」という位置付けで触れてしまったため、楽しみ、味わって読んでみようという意識は、ハナっから生じなかった。今となって覚えているのは「春はあけぼの」で始まるあまりにも有名な冒頭の条りくらい。まあ、私は現代国語が一番得意で、「古文」も「漢文」もその応用として、なんとなく意味がわかるという程度には初見でも読めたので、まともに取り組まなかったし、長じては現代文の本を読む方が忙しく、結局「古典の名作」に関してはずっと敬遠したままだった。文学部卒のくせに『源氏物語』なんぞほとんど触れたことがない。

 

また話が脱線してしまった。標題の書は作者清少納言のちょっとハスに構えた鋭いセンスをユーモアたっぷりに紹介してくれている。そもそも随筆という表現形態そのものが、作者の頭の良さをあからさまに感じさせることなく表現することを目的としたものだ、という指摘には目から鱗が落ちる思いがした。

 

そうそう、同じようなモノゴトに接してもそれをどう表現するかによって、人々に与える「衝撃」は大きく違ってくる。新しい見方、面白い見方を示すことで人々の感動を呼ぶことができれば、立派な文学作品として世に残るし、著者の頭の良さやセンスの鋭さといったことだって自ずと表されてしまうのだ。

 

で、清少納言という方は鋭いセンスの塊のような方だったようだ。「普通の人」がなるほどと頷くモノゴト並べる中に、ヒョイっとこの方独自の「異物」を混入させてみたり、とんでもなく細かな事柄を取り上げてみたり…。なんだ、ずいぶんおもしれーこと書いてんじゃねーかよ、このねーちゃん(執筆時の年齢はおそらく今の私より随分下であろうから、あえてねーちゃんと呼んでしまおう)。今の世の中でも数多の人々の共感を呼ぶであろう事柄、考え方がウイットに富んだ筆致で書かれているのだ。同じ内容を現代語に直して、出版したら日本エッセイスト大賞くらいは軽く受賞してしまいそうな面白さである。

 

残念ながら、古典をしっかりと読み込んで味わうためには、英語と同様、ある程度の知識が必要とされる。大抵の人はその知識を身につけるのが面倒で、まともに読んでみようともしない(私もその一人だ)で、「どうせ面白くない」と思い込もうとしているのだが、実際に読んでみると実に面白い。以前筒井康隆氏がエッセイの中で「文部省の役人になるような人というのはそれなりに有能な方であり、その方々が教科書に掲載されるに値する作品として選んだものを本気で『味わってみる』ことには自分の鑑賞眼を見つめ直すという意味がある」という主旨の文を書いていたと記憶しているが、筒井氏の観点からも、執筆時から1000年以上の時を経ても世に残っていることを考え併せても、『枕草子』には一度本気でチャレンジしてみる価値はありそうだ。そのチャレンジがいつになるのかはわかったもんじゃないが(苦笑)。