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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

武田勝頼は本当に愚将だったのか? 『天地雷動』読後感

 

 

戦闘シーンの描写に定評があり、「剛腕歴史小説」の異名を持つ伊東潤氏が、独自の視点で描いた「長篠の戦い」。

 

戦国最強の名を恣にした武田家の騎馬軍団が、織田・徳川連合軍の編み出した鉄砲の「三段撃ち」に惨敗を喫し、日本における合戦というものの形を変えたとされるのが「長篠の戦い」であり、鉄砲の力を軽視した武田軍は有力な武将をこの戦いで悉く失って一気に弱体化し、程なくして滅亡した。「死後三年は我が死を秘匿せよ」という父信玄の遺言を守らずに無理な戦いを仕掛けて、しかも散々に負けた武田勝頼は天下に名だたる愚将であるとする「知識」を中学や高校の日本史の授業では習った気がする。

 

少年期の刷り込みの影響とは真に恐ろしく、勝頼=せっかく初代が築き上げた名声を、バカな方策を繰り返して一気に地におとしめた無能な二代目という印象がつい最近まで消えなかった。歴史は所詮勝者のものであり、敗者は必要以上に叩かれるという、世の中の大きな考え方の枠組みに気づいたこと、我々は結果を知っていて、その敗因についても後から分析できているから勝手なことが言えるのであって、その時々の当事者は未来を予見することなどできるはずがなかったと考えるようになったこと、勝頼を描いた様々な小説やエッセイを読んだり、テレビの歴史番組などを観たことにより、必ずしも武田勝頼という人物が思いっきりのバカではなかったという考えも持つようになった。

 

偉大な先代の影を追う、古株の重役たちの強硬な意見表明に、自らの出自が傍流であるという負い目…、私ならとっとと失踪でもなんでもして二代目なんて地位は捨て去ってしまうだろう。それに立ち向かって、自らの意思で信長や家康という強敵と戦おうとした勝頼はそれだけでも尊敬に値する存在であると言える。いくら志が高くても、負けてしまえば意味がない、という見方もできるが、結果だけでなくプロセスを重視せよ、というのは最近のビジネス書などでもよく言われていることだ。この本を読んでみても、その他の資料からも、プロセスも決して褒められたものではないということは読み取れはするのだが(苦笑)。

 

さて、この小説はクリフハンガー方式を採用し、様々な立場の人々の考えや行動が綴られながら、長篠の戦いという最大のクライマックスに向けて物語が進行していく。主な登場人物は武田勝頼豊臣秀吉徳川家康、そして、武田側の兵士として戦いの現場で実際に戦う、歴史上では無名と言って良い半農半武の宮下帯刀という人物だ。

武田勝頼には長坂釣閑斎という側近の武士、秀吉には豊臣秀長という実弟、家康には譜代の部下酒井忠次というそれぞれの人物と対をなす人物が登場し、その人物たちとの会話で、その時々のメインキャストたちの心の動きが示されるという、なかなかに巧みな仕掛けがなされている。

 

宮下帯刀については、対をなすような人物は存在しないが、その分、近親者や、一緒に領地で農業に携わる部下との交流が密に描かれる。部下を一人たりとも死なせたくない。戦の勝ち負けよりも、その一事こそが帯刀の最優先事項ではあるのだが、大軍同士が激突する、もっと言えば歴史が大きくうねる瞬間においては個人のそんなささやかな願いなど到底叶えられるものではない。虚しさ、怒り、そうした感情を押し殺し、全ては運命と諦めるしかない無力感…。これこそが、日々、会社内、あるいは社会全体の大きなうねりの中で様々な虚しさに苛まれる一般庶民の共感を呼ぶモノだと思う。

 

長篠の戦いそのものは、三段撃ちなどという戦法云々より、実戦に入る前に織徳連合軍勝利は確定していたという、冷酷な事実が語られる。武田軍といえば騎馬軍団が高名で、その威力を過信し、鉄砲の存在を軽視した無謀な突撃で自滅した、というのが日本史の授業で植え付けられたイメージなのだが、武田軍にも鉄砲部隊は存在したし、勝頼をはじめとする諸将が鉄砲を軽視していたわけでもない。信長の命を受けた秀吉が、今井宗及を通じて火薬の流通を押さえてしまった事により、自軍は鉄砲を撃ちたくても撃てないのに、敵軍はそれこそ湯水の如く弾丸を撃ちまくれるという状況が出来し、それゆえ、勝頼の退路を確保するために無謀を承知の突撃を繰り返すしかなかったというわけだ。

将棋の上手いやつと対戦すると、陣形に全く隙がなく、攻撃を仕掛ければ仕掛けるほどコマ損になっていく、という状況に追い込まれるのだが、ちょうどそんな感じではなかっただろうか?戦いの厳しさはもちろんのこと比べるべくもないが、歯痒さの中で、敵弾に倒れた武将の無念さは察するにあまりある。

補給を制するものは戦いを制すなどと言われ、近代戦でもロジスティクスは戦況に大きく影響するが、まさにこの戦いは火薬の補給を潤沢に行う(同時に敵の補給は断つ)ことができたが故の勝利だったのだ。この考え方は、織田軍の「基本戦略」となり、秀吉や、明智光秀は実際の戦いの前に敵の糧道を断つことで降伏を促す戦法を取ることが多くなった。中国大返しの際の備中高松城は「水攻め」の成功例として名高いが、水に囲まれたストレスとプレッシャーもさることながら、補給路を完全に断ったことが大きな勝因だし、後の世の「小田原城攻め」も然り。「長篠の戦い」の際は火薬という兵器そのものだったが、小田原城攻めの際は陣内に遊郭までしつらえた豊臣軍の豪華絢爛さと、次第に乏しくなっていく小田原城内の物資の差が、文字通り北条方の体力を奪っていった。

 

戦いの基本は個々の人間同士のぶつかり合いではあるが、武力に優れた人間がその真価を発揮する前に、戦力を削ぐ事に戦の主体が移っていく、一つの契機が長篠の戦いであり、これ以降、戦は力よりも頭を使った方が勝つようになっていく。うーん、少しは中学時代よりは深い見方ができるようになったかな(笑)。