脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

嫌な気分になることのなかった短編集 『サファイア』読後感

 

イヤミス」の第一人者湊かなえ氏の短編集。

 

松たか子主演(ついでに言うと「子役」芦田愛菜出世作)で映画化されたことで大々的に宣伝されていた『告白』を試しに読んで、そのエンディングにすっかりまいってしまい、一気にファンになって、一時期「出ると買い」していたが、例によってほとんどの本は「積ん読」状態。長々とした通勤時間+入浴時間を使ってようやく読み切ったのが表題の一冊。考えてみれば湊氏の短編集を読んだのは初めてだった。

 

湊氏の長編はさまざまな人の視点から同じ場面を描き、結末になだれ込むといういわゆる「クリフハンガー方式」を取るものが多いのだが、短編には流石にこの手法は使えない。一つの視点で描ききった作品が七つ収められており、作品たちにはそれぞれのモチーフとなった宝石の名前が題名として付けられている。

 

それぞれの作品には当然のことながらきちんとオチがつけられているのだが、この作品集に関しては「イヤミスの女王」の異名にそぐわず読後に嫌な気分になった作品はなかった。もちろん作品中に張られた伏線を巧みに回収して、きちんと納得のいく意外な結末にはなっている。別に嫌な気分になるようにばかり物語を展開させる必要はないし、「きちんと」カタルシスを感じさせる作品を書ける実力があるからこその「イヤミス」という表芸なのだということがわかる作品集である。なお巻末で書店員という肩書きの児玉憲宗氏という方が「湊氏の作品を読むと後味が悪いという方がいるが、世の中の物事を見渡してみれば清々しい結末に終わることの方が遥かに少ない。人々の心の中の闇を描きだすところに湊氏の作品の妙味がある」という主旨の解説をお書きになっているが、私もこの方の説に賛成である。砂糖でコーティングされたような甘い物語が世の中で好まれるなら、あえて苦味も酸味も辛味も全て活かし、もしその味わいが不快に感じるようなものに仕上がってもそれをそのまま世に問うような姿勢こそが作家としての矜持ではないか、と思うからである。

 

大上段に振り上げた作家論は一旦ここで終わりにしよう。

 

短編集自体の名前ともなった『サファイア』と『ガーネット』だけは、それぞれが独立した作品でありながら、湊氏お得意のクリフハンガー形式による一編の作品と考えてもおかしくない仕上がりになっている。サファイアは青だし、ガーネットは赤。同じ一つの事象を宝石の色と同じように全く反対の視線で見た場合の対比がわかりやすいように、この二作は連続して読まれるよう編集されている。『サファイア』単体でもきっちりと完結しているが、『ガーネット』を最後まで読めば、二つの作品を貫いてきたストーリー展開全体に対してのオチが味わえるという仕掛けである。で、このオチがイヤなものでなく、希望の光を感じさせるものになっているから、短編集自体の印象がイヤなものにならないという仕上がりになってもいる。

 

あえてこの駄文がイヤな感じで終わるよう、変な例えで締めることとする。拷問の名手が、どこをどう責めれば効果的に苦痛を感じさせることができるか、あるいは逆に快感を感じさせられるのかを熟知しているように、湊氏は、文章の流れをどう操ればイヤな後味で終わり、どう変えればあたたかな気持ちで終われるのかをしっかり理解した上で、どんな結末にしたら読者により深い感動を与えられるかの選択も間違わない、高度なエンターテイナーである。彼女の作品だけで小高くなっている「積ん読」山の迷宮に踏み入ってみることにしよう。読後感書くのが厄介そうな作品ばかりだが(苦笑)。