各種のメディアに登場することも多い、著名な歴史学者本郷和人氏が、自身の研究のど真ん中である中世を取り上げた一冊。
学校でのお勉強の中の一科目として、知識の暗記ばかりを求められがちなのが歴史だが、暗記させられた「史実」を根本からひっくり返すような可能性をいくつも示唆する内容となっている。
例えば、織田信長が一躍、戦国武将の筆頭格に躍り出たとされる「桶狭間の戦い」。私が暗記に勤しんだ受験生時代は、自軍と織田軍との圧倒的な兵力差に油断した今川義元が、突然の雷雨で桶狭間という名の通りの、狭い谷底の土地で休憩していたところを、奇襲してきた織田軍にあっという間に討ち取られたと教わったものだが、10数年前くらいには桶狭間は谷底などではなく、桶狭間山という小高い丘のような場所だったという説に変化していたと記憶している。標題の書では、桶狭間の戦いは奇襲ですらなく、織田軍と今川軍が正面衝突した結果、織田軍が堂々と勝利をおさめたのではないか、という仮説を提示している。
もちろん学者たるもの、いくら雑文やエッセイの類であっても論拠のない説を唱えたりはしない。
例えば、この戦で今川方は大将の今川義元をはじめ、多くの有力武将が戦死したと伝えられているが、もし義元の首だけを狙った少数の兵による奇襲であるなら、その他の武将にまで手が回らないはずだという説はなかなかに強力だ。もちろん大将の義元が早々に討ち取られたことで大混乱に陥った今川軍を織田軍が蹂躙しまくったという反論も成り立つが、今川軍は大軍ゆえに、情報の伝達が遅く、軍の末端にまで義元戦死の報が伝わるまでに時間的余裕があり、その間に他の有力な武将は軍の体勢を立て直すことができたのではないかという説も述べられている。私はどちらかといえば本郷氏の説の方が「合理的」だと思えてしまう。いくらなんでも義元一人の力だけで万単位の人間を動かせるわけはないし、だとすれば様々な中間の指揮官がいたわけで、その指揮官たちがそんなに簡単に敵に背を向けるはずはない。それどころか、大将の敵討ちとばかりに、それこそ衆を恃んで反撃に出た可能性の方が大きいと思う。
さらに、本郷氏は当時の信長に数千の兵しか集められなかったという説にも異を唱えている。信長の領土尾張は当時の日本国内では屈指の穀倉地帯であったし、中部地方以東の地と都である京都との中継点にあったため、交易の要衝として経済的に潤っていたはずで、軍事専門の兵を多数抱えることが可能だったはずだというのだ。確かに戦国を舞台としたいくつかのシュミレーションゲームでも、尾張の地は他国よりも軍資金を蓄えるのが容易であるという設定は共通していた(笑)。
ではなぜ、数千の兵で数万の敵を破ったという「史実」が形成されたのか?これは信長の業績を記した「公式な」書物である『信長公記』の記述によるところが大きい。信長という人物のカリスマ性を高めるために、あえて無謀な戦いに挑み、勝ったという記録を捏造したのではないか、という説を本郷氏は述べ、それゆえ、史料の記述だけに頼った研究は過ちを犯す可能性が少なからずある、という自身への戒めまで述べているのだ。
こうしたいろいろな可能性を提示される度に、いかに学校のお勉強として習った歴史がつまらないものであったかを思い知らされることになる。
単純に多くの兵を集めればいいわけではなく、農繁期や気象状況との兼ね合いをどう考え、どう修練させるか、どう戦いへの士気を高めていくかなどは、現在のビジネスにおける人材マネジメントに関しても十分に応用の効くお話だし、単純に人間の行動の考察としても興味深いオハナシだ。
以前に↓の投稿で紹介した伊東潤氏の作品によれば「長篠の戦い」では鉄砲そのものの量よりも調達できた火薬の量で勝負が決まってしまったそうだ。
では織田軍はなぜ大量の火薬が調達でき、武田軍はできなかったのか。諜報戦での優劣、人的ネットワークの有無、地理の遠近、資金の量など、複雑な事情がそれこそ幾重にも重なった結果であることが伊東氏持ち前の「剛腕」な筆致で描かれている。
これは本当に代表的な例だが、歴史上の様々な出来事をただの記録の集積として覚え込むのではなく、当時の人間たちのどういった行動の集積によってもたらされたものであったのかを考えることは実に面白いと私には思える。様々な事象に対しての考察が正しいか正しくないかを論じるのではなく、どのような可能性が考えられるだろうか、また、ある条件が変化したら、今記録として残っている歴史はどのように変化しただろうか、などと想像し始めると、それこそ夜も眠れない。
特に、傑出したキャラクターを多数輩出した戦国時代に思いを馳せることは実にワクワクする。戦国シュミレーションゲームが根強い人気を誇るのも理解できるが、ゲームはいかに複雑に作ってはあっても、ある程度は条件を単純化・定量化して優劣を決めるという結果を出すことが目的で、結局はゲーム作者の考えたいくつかの結末に行き着いてしまう。同じ時間をかけるなら、いろんな資料を読み込んで、自分なりの仮説を立てることで楽しみたいものだ。