脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

『枕草子』は教材ではなく堂々たるエンターテインメント作品 『ちょっと毒のあるほうが、人生うまくいく!』読後感

 

 

先週末から花粉症が本格的に始まり、鼻水はずるずるだわ、目は痛いわ、熱っぽいわで体調は最悪。おまけに仕事は面倒臭いことばかり。過去の担当者がずるずると先送りにしてきたことがついに先送りにできなくなったとか、取引先が一方的にシステムを変えてきたりとか、全体像が見えないまま今までの私の「常識」でコトを進めたら一方的に怒られるわで、何しろ心身ともに状況は最悪。先週末は何もかもが嫌になって一日完全に仕事をすっ飛ばして不貞寝してた。そうでもしないと、長い休みを取らざるを得ないという予感があったためだ。

 

というわけで、こういう状態の時に本棚を見回すと目についてしまうのが、精神安定剤的作用のありそうな「心の持ち方」とか、「辛さのやり過ごし方」みたいな本。標題の書も「開き直って、できねーもんはできねーってケツまくっちまえ」的な内容だと勝手に想像して手に取った。清水義範氏は「出ると買い」作家の一人だったので、特に内容をあまり考えずに、電子書籍導入前には必ず行っていた月に1、2度の「気になった本すべて買い」の際にでも買い求めたモノだと思う。

 

例によって、長々と前置きを書いてしまったが、ページをめくってびっくり。日本最古の随筆文学作品の一つにして、最高傑作であるとも評されている「大看板」『枕草子』の解説本だったのだ。

 

枕草子』はビッグネームすぎて学校の教科書でしか読んだことがない。文学作品であるという前に「教材」という位置付けで触れてしまったため、楽しみ、味わって読んでみようという意識は、ハナっから生じなかった。今となって覚えているのは「春はあけぼの」で始まるあまりにも有名な冒頭の条りくらい。まあ、私は現代国語が一番得意で、「古文」も「漢文」もその応用として、なんとなく意味がわかるという程度には初見でも読めたので、まともに取り組まなかったし、長じては現代文の本を読む方が忙しく、結局「古典の名作」に関してはずっと敬遠したままだった。文学部卒のくせに『源氏物語』なんぞほとんど触れたことがない。

 

また話が脱線してしまった。標題の書は作者清少納言のちょっとハスに構えた鋭いセンスをユーモアたっぷりに紹介してくれている。そもそも随筆という表現形態そのものが、作者の頭の良さをあからさまに感じさせることなく表現することを目的としたものだ、という指摘には目から鱗が落ちる思いがした。

 

そうそう、同じようなモノゴトに接してもそれをどう表現するかによって、人々に与える「衝撃」は大きく違ってくる。新しい見方、面白い見方を示すことで人々の感動を呼ぶことができれば、立派な文学作品として世に残るし、著者の頭の良さやセンスの鋭さといったことだって自ずと表されてしまうのだ。

 

で、清少納言という方は鋭いセンスの塊のような方だったようだ。「普通の人」がなるほどと頷くモノゴト並べる中に、ヒョイっとこの方独自の「異物」を混入させてみたり、とんでもなく細かな事柄を取り上げてみたり…。なんだ、ずいぶんおもしれーこと書いてんじゃねーかよ、このねーちゃん(執筆時の年齢はおそらく今の私より随分下であろうから、あえてねーちゃんと呼んでしまおう)。今の世の中でも数多の人々の共感を呼ぶであろう事柄、考え方がウイットに富んだ筆致で書かれているのだ。同じ内容を現代語に直して、出版したら日本エッセイスト大賞くらいは軽く受賞してしまいそうな面白さである。

 

残念ながら、古典をしっかりと読み込んで味わうためには、英語と同様、ある程度の知識が必要とされる。大抵の人はその知識を身につけるのが面倒で、まともに読んでみようともしない(私もその一人だ)で、「どうせ面白くない」と思い込もうとしているのだが、実際に読んでみると実に面白い。以前筒井康隆氏がエッセイの中で「文部省の役人になるような人というのはそれなりに有能な方であり、その方々が教科書に掲載されるに値する作品として選んだものを本気で『味わってみる』ことには自分の鑑賞眼を見つめ直すという意味がある」という主旨の文を書いていたと記憶しているが、筒井氏の観点からも、執筆時から1000年以上の時を経ても世に残っていることを考え併せても、『枕草子』には一度本気でチャレンジしてみる価値はありそうだ。そのチャレンジがいつになるのかはわかったもんじゃないが(苦笑)。