脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

ちょっとした違和感は実は何より深い 『豆の上で眠る』読後感

 

 

久々に読んだ湊かなえ氏の著作は、湊氏らしからぬ一作。

 

「らしからぬ」の第一の理由は、私が湊氏の特徴だと認識していたクリフハンガー形式ではないこと。今作は徹頭徹尾主人公結衣子の視点から描かれる。結衣子の他にも登場人物は少なからず登場するが、あくまでも結衣子の目に映った言動、行動がそのまま描かれるのだ。主要な登場人物それぞれの視点で一つの事象が描かれていき、ストーリーの最後でそれが見事に交わり合うのが湊氏作品の醍醐味であるという先入観を持って読み始めたのでのっけからちょっと意表をつかれた。

 

そしてアンデルセン童話の中ではマイナーな部類に入る『えんどう豆のうえに寝たお姫様」がモチーフになっていること。この童話は話のあちこちに登場して、日常生活の中で感じたちょっとした違和感のメタファーとしてうまく作用している。こうした童話の「使い方」に関しても、私が今までに読んだ湊作品には出てきていなかった。

 

舞台は架空の小規模都市。農地のあちこちに住宅地が点在しているような場所で、大規模なスーパーなどができても集まる人がそもそもいないような、典型的な「片田舎」と言って良い街だ。主人公結衣子は二人姉妹の妹で姉の万佑子は2歳年上。万佑子が小学校三年、結衣子が小学校一年の時に、突如万佑子が失踪する。誘拐事件なのか?事故なのか?懸命な捜索にも関わらず万佑子の行方は杳として知れない。

 

結衣子と万佑子の母は、万佑子探しに必死になるあまり、結衣子や猫をダシに使って近所の家々を探るような真似までさせる。そしてそのことは結衣子がいじめを受ける原因となるのだ。万佑子は失踪から2年後に家に戻ってくるのだが、戻ってきても一度いじめられる側に回ってしまった結衣子の立場は変わらなかった。母の思いはわかるのだが、そのために犠牲を強いられたんじゃたまったもんじゃねーよな、というのが私の感想。姉のためなら妹がどうなってもいいというような行動を、母に取られた結衣子は、心に大きな傷を負い、いじめによってその傷を増幅されながら高校までの時期を郷里で過ごすのだが、私なら耐えられんなぁとも感じた。

 

さて家に戻ってきた万佑子に関し、結衣子は微かながら決して消すことのできない違和感を感じる。一緒に過ごした記憶は一致するのだが、どうしても家に戻った「姉」が「万佑子」であるとは思えないのだ。これ以降、結衣子はそれまで「万佑子ちゃん」と呼んでいた姉を「お姉ちゃん」と呼ぶことになる。何重にも敷き詰められた柔らかい布団の下にある豆のように、その存在を感じることなど不可能なはずの小さな違和感がずっと結衣子の心にひっかっているという展開は、童話と見事にシンクロしている。巧みな展開だ。

 

結末は言わぬが花だろう。見事に謎解きがされており、同時に、皆の心の中には存在しながら現実にはどこにも存在しない「万佑子」を演じなければならなかった人物の苦しみも伝わってくる。人は勝手に他人のイメージを作り上げてそのイメージを元に接してくるが、そのイメージは得てして自分が思い描いている自分自身のイメージとはかけ離れている。そこをうまく調整して、本来の自分自身の像を世の中に当てはめていくのが社会生活というものなのだが、自らの意図に反して作り上げられた人物像を演じなければならないという苦しみは察するにあまりある。同時に大なり小なりこの苦しみは誰しもが抱えていることなのだ、ということにも気づかされた。謎解きの爽快さよりも、社会生活って面倒くせえーなー、と改めて感じさせてくれた一作だったと思う。