『大水滸伝シリーズ』読破以来、あれ以上の作品はもうあり得ないのではないかという思いから、しばらく遠ざかっていた北方謙三氏の作品。とは言いながら、Kindleの中には『チンギス紀』は着々と溜め読はしているのだが。
さて、北方氏といえば日本のハードボイルド小説界の第一人者。彼の紡ぎ出す物語には、強い酒を一息で飲み干し、深々とタバコを吸い込んで、ケンカにも女にも強い、ってな昭和のおじさん方が「かくありたい」と思うような主人公が登場する。そしてそんな男が修羅場をかいくぐって最後には勝利するものの、その後ろ姿には寂寥感が漂う、なんてなストーリーが多い。
この物語もそうしたハードボイルドを予想して読み始めたのだが、さにあらず。他の作品に見られるような男臭さは十分に感じさせる主人公なのだが、職業は画家だ。他人が喧嘩する場面こそ登場するが、本人が直接暴れることはない。
そして、一本のバラをあらゆる方向から見て、絵を書き続け、その中から現れてくる「真の形」を描くことに心血を注ぐのだ。観念的というか、芸術の本質というか、画家の性というか。ありふれた日常の中から真の美を見出そうとする画家の営みも一つの戦いなのだ。
そして主人公が目の前の事物をどう捉え、どう表現するのかについて思い悩むことは、北方氏の作家としての原点に通じるものではないかと思う。北方氏が作家を目指したのは大学在学時。当時の大学は学園紛争の嵐が吹き荒れていたそうで、しばしば教室にバリケードを設けて封鎖するようなことがあったそうだ。北方氏はそのボリケードの内側で、純文学を志し、作品を描き続けていたそうだ。残念ながら、そこで書かれた作品たちは高い評価を得ることができずに日の目を見えることはなく、やがて北方氏はエンターテインメントに転向し、そこでハードボイルド小説の第一人者にまで上り詰める。
この連作小説の、名前さえつけられていない主人公の画家は、北方氏が本当になりたかったもののそのまま人のカタチにしたものではないだろうか。自分が本当に描きたいものと、おカネになるものは全くの別物。生きていくためにおカネになる作品を描かざるを得ないが、本当に自分の描きたいものは別にあり、それは一生をかけて追い求めるものだ。そんな主張が伝わってくるのだ。
私も書きたいことはあるものの、それは今のところおカネには結びつかないであろうことが予想できているので、まずはおカネになる文筆仕事にチャレンジしているのだが、それは本当に自分がやりたいことではない、という思いは常に持っている。北方氏とは全くレベルの違うお話ではあるが。
思いもかけず、北方氏の「本音」に近いものが感じられた一冊だった。
