脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

実際にその土地に行って自分の身体を使わないと感じられないことは確かにある 『戦国の古戦場を歩く』読後感

 

 

井沢元彦氏監修による、戦国時代の有名合戦地のガイド本。

 

織田信長今川義元を討ち取ったことで一気に戦国の雄にのし上がった「桶狭間の戦い」、武田家が織田軍の最新戦法、鉄砲の三段打ちで壊滅状態に陥った「長篠の戦い」、逆に武田軍が徳川軍を散々に打ち破って、家康が恐怖のあまり逃げながら脱糞したと伝えられる「三方ケ原の戦い」、そして戦国最大の「関ヶ原の戦い」などのメジャーな合戦場から、かなりマイナーな小さな戦いの場に至るまでを紹介している。合戦に至る背景の解説、実際の合戦の内容とともに、現在のアクセス方法までを綴っている便利な一冊である。

 

特に現在のアクセス方法を詳細に記してある点について、監修者である井沢氏は、「武将が馬に乗って駆け抜けたであろう街道などは車で移動しても良いが、実際の合戦の場に関しては是非とも自分の両脚で歩くことで往時の人々の感覚に近いものを味わってもらいたいから」としている。

 

そうそう、この「往時の人々の感覚に近いものを味わう」というのはなかなか難しい。「××軍は○○城の西方約5kmのところにある小高い丘に陣を張り、そこから一気に城下に攻め込んだ」などという記述はサラリと読めてしまうが、実際は鎧兜を被り、重たい銃や槍、刀を持ち5kmもの距離を走った後に敵とようやく激突することになるのだ。道も現在のように整備されてないし、途中に川があればそれも渡らなきゃならないし、深い泥田があればそこに足を取られて身動きもままならない、なんて状態もあったはず。そして、飛び交う大量の矢玉。そこをかいくぐっても、目の前に現れるのは文字通り殺意に満ち満ちて槍やら刀やらを携えた敵兵である。

 

いやはや。私なんぞは、敵の陣地に行く前に息切れしてしまっていざ戦いの場になったら全く役に立たずに、さっさと殺されてしまったことだろう。その他、野戦になればその時の厳しい自然状況に関わらず、地べたの上に直接寝っ転がって休息をとるしかない。最近の良い芝生の上でやるラグビーなんざ、それこそ貴族の蹴鞠みたいなもんだ。芝生のグラウンドが一般的でなかった我々の高校、大学時代の泥まみれの試合ですら、文字通り児戯に等しい

 

そんな状況にも関わらず、戦って、しかも勝ち続けて天下を取る。おそらく私は合戦場を一巡りしただけで到底自分にはなしえなかったとため息をつくしかないだろう。私にできることは、ほんの名も無い雑兵ですら、それだけの苦労の上にようやく斬ったとか突かれたとかの戦いに臨んだことに関して畏敬の念を抱くことだけだ。

 

秀吉が力攻めを嫌い、調略や糧道断ちで相手の降伏を辛抱強く待つという戦略をとったことにも合点がいく。んな疲れて、しかも命の危険があることに誰が喜び勇んで出かけるかっつーの。

 

まあ、おそらくアップダウンのきついであろう古戦場を歩いただけで、私は今の世に生まれた幸せをつくづくと感じてしまうだろう。戦国の戦いなんぞはゲームの上だけで「楽しんで」おけば良いものなのだ。何か古戦場から物語を拾ってこようとする目論みでもない限りは。

 

手軽なガイド本としては具体的な上に、適度に読み応えのあった一冊であったとはいえると思う。

最初に手に取ったのが「最後」の作品とは… 『必要になったら電話をかけて』読後感

 

私の書斎の本棚は、いまだに乱雑なままだが、各棚に並べてある本のサイズだけは統一してある。とりあえず物理的にできる整理としては、それが一番手っ取り早かったからで、まだ、中身を加味しての整理には手がつけられていない。よほどの暇ができない限りは無理だろうとも思っている。本棚の整理の前に、自分の洗濯物(最高権力者様がきちんと畳んではくれている)のタンスへの収納とか、庭の芝刈りとか不燃物のゴミ出しなどの雑用が山のように降ってくるからだ。それ以外にも、ラグビー記事の原稿書きやらレシピサイトの原稿書きもあるし、テストライティングにも挑戦し続けなければならない。とりあえず、先延ばしにしておいても不都合でないものはこうして期限を切られずにどんどん先延ばしされていく。

 

標題の本は、そんな私の書棚の「新書コーナー」の片隅にちょこんと並べられていたもの。「村上春樹 翻訳ライブラリー」と銘打たれたシリーズ中の一冊なのだが、巻末には結構長い村上氏による解説が掲載されている。その解説によれば、この書はレイモンド・カーヴァー全集の最終巻なのだそうだ。よりによって、この「翻訳ライブラリー」で最初に手に取った本が、最終巻とは…。なんだか皮肉なお話だが、今のところこの偶然が何か私の日常に変化を及ぼしたという自覚はない。本当はこの瞬間に最高権力者様との関係が決定的に壊れる「何か」が生じていたりするのかもしれないのだが、そんなことに気づくほどの繊細さを、私自身は持ち合わせていないと感じている。なお、この書に収められていたのは、未発表作品らしい。村上氏も既に逝去されたカーヴァー氏が作品をリリースしなかったのは、まだ推敲の余地がありとして手元に留め置いていたためではないかとの推察から、翻訳することを躊躇していたそうだ。カーヴァー氏には、とある編集者によって意図せざる改稿を勝手になされた上に、出版されてしまったという「前歴」があるという事情もあったそうだ。でも結局は遺族の了承も得た上で、残された作品をそのまま翻訳・出版することにしたのだそうだ。

 

閑話休題。村上氏によるカーヴァー作品の翻訳物としては、以下の2冊をはるか昔の大学生時代に読み飛ばした記憶だけが残っている。内容はほとんど覚えていない。

 

 

 

ただ、日常のほんの小さな食い違いの積み重ねが、ある日決定的な人間関係の破綻を招く、という物語ばかりが収められていたな、という印象だけは頭の片隅に引っかかってはいた。

 

で、標題の書もそういう雰囲気をまとった作品が5作収められている。アメリカ映画では主人公の家庭が崩壊しかかっていて、何かの大事件の解決とともに家族、主には夫婦が愛情を取り戻す、というストーリーばかりが描かれるが、それだけキリスト教の教義に基づいた一夫一婦制は矛盾に満ちたものなのだろう。で、カーヴァー氏の小説では、問題が解決せずに離れ離れになっていく夫婦たちの物語が綴られる。

 

日本だと、別れるだの別れないだのというお話は、ドロドロの怨恨ものになってしまうか、あるいは特に男の方が病的なまでに未練を持ち続けてしまうか、幼い子供の視点で悲しく悲しく描かれるか、何かしらウエットさを纏いつけてしまうのだが、カーヴァー氏の作品はドライというかクールというか、淡々と文章が進んでいく。一度壊れた関係はどうやっても修復はできない、という事実が、描き出されるさまざまな細かな事柄によっていつの間にか、強固なイメージを形作っていってしまうのだ。決して大きなドラマがあるわけでもない。人間関係の破滅を象徴するような出来事もほとんど描かれない。でもいつの間にか、この人たちはもう元の関係には絶対に戻れないのだな、という空気感が、作品の読者の心の中に醸成されていってしまう。

 

確かに、こういう作品は、作者としては最後の最後まで完成形をイメージしづらいだろう。芥川龍之介の『羅生門』のラストは3回改稿されていることで有名だが、カーヴァー氏などは、作品リリース後も自分が生きている限りは改稿したくて仕方がなかったのではないか。少々オーバーすぎる想像かも知れないが。

私の本棚にはまだ、カーヴァー氏作、村上氏翻訳の作品が多数眠っている。時々思い出したようにゆるゆると読んでいこうと思う。夜、川面で跳ねる鮭の水音のように、意外な時、思い出した時に。

ノート・手帳の使い方を巡る試行錯誤は続く 『深く考えるための最強のノート術-年収1億稼ぐための思考法』読後感

 

何度か書いている通り、私はA5のシステム手帳を使っている。

 

正直にいうと、中身はほとんどない。精々1ヶ月先までの通院予定とか飲み会の予定、あとは日々のやることリスト(バレットシステム採用)くらいで、記憶装置としてはそれなりの役割は果たしているが、思考を飛翔させる効果はほとんど産んでいない。ン万円もしたし、重いし、カサばりもするのだが、そこいらで百円も出せば買えるようなメモ帳程度の使い方しかできていない。

 

この状態をなんとか打開すべく、いろんな手帳術やらノート術なんてものを読んでいるのだが、結局はメモ書きの寄せ集めにしかなっておらず、アイデアの源泉とするという理想の使い方には程遠い。まあ、会社の仕事には活用しようとはほとんど思ってはいないが、自分の仕事としている文筆業に関してはもっともっと活用してネタの宝庫にしたい。

 

というわけで、いつDLしたかすら覚えていないが、Kindleのライブラリを眺めていたら目についたので早速読んでみた。なお、別に1億稼ぐための思考法を身につけようとしているわけではない。カネは多いに越したことはないが、今はカネよりもいかにいい文章を書くかのほうが私にとっては重要だ。ヒントになるようなことがあれば、なんでも拾ってやろうという気持ちだけは持って読書開始。

 

結論から言うと、特に目新しいことはなかった。著者氏は、自分が一番使いやすいと言う理由でB5サイズのノートを推奨。思いついたらすぐに取り出せて、場所を取らない上に文字が書きやすいと言う理由で、リングファイルで表紙が硬いもの、と言う細かいスペックまで指定していた。ま、こんな「カタチ」の話はどうでもいい。問題は、いかに思いつきを記録しておくことができるか、そして一見関係なさそうな事柄同士を結びつけることによってシナジー効果を生むかだ。

 

私は、今ちょっと前に読んだ本に書いてあったモーニングノートという方法で、毎朝A4の紙に3枚ほどとにかく頭の中身を全て吐き出し続けている。残念ながら、まだ素晴らしいアイデアが浮かんできたわけでも、具体的な作品を書き始めたわけでもないが、徐々にいろんなことの方向性が固まってきたような気はしている。

60までに会社を辞めて、地元でTOEICの講師でもやりながら文章を書き続けると言うのが今の「理想の姿」であり、その理想の実現のためにはどうしたらいいか?ということが徐々に具体化してきたのだ。

たとえばTOEICの公認講師になるには最低でも900点とって箔をつけなきゃいかんが、じゃ900点取るためにはどのくらいの勉強をどのくらいの期間続ける必要があるのか?文章で収入の半分を稼ぐとしたらどの程度の量の仕事をこなさなければいけないのか?で、自分が書くネタを豊富に持っているサイトなり雑誌なりにはどんなものがあり、どういう手続きを踏めば契約できるのか?

 

そんなことを考えながら、いろんなサイトに応募してみたら二つからテストライティングの指示があり、可能な限り素早く提出した。そんなことをしているうちに既に契約していながらしばらくご無沙汰だったサイトからも二つほどネタが送られてきたし、スポーツネタも1本抱えている。犬も歩けば棒に当たるというか、意志あるところに道は開けるというか、自分の意志をしっかりと自覚して、そこに注力し始めたら、いい方向に回り始めたのは事実だ。

 

次のステップは、やはり、意志ではなく、アイデアシナジーをどう生み出すか、そしてそのために手帳をどう使うかということになろう。

 

この本を読了する前に、私は一つの行動を起こすことを決めた。未整理になっているただの書きつけを分野ごとに分けたのだ。直近の仕事に必要なものは残してはあるが、基本的には保存用の6穴バインダーにきっちり分けた。モーニングノートのようなカオスな状況のものはそのままだが、知識の集積としてのシートはインデックスをつけてすぐに引っ張り出せるようにしたのだ。これだけでも、随分と進んだ使い方をしているという気分になるのだから、つくづく私は単純だ。あとは、必要に応じて情報を活用してもいいし、折に触れて、パラパラとめくってみても良い。

 

著者氏によれば、くだらねー、とかこんなことありえねーよ、とかいう考えなり、記憶なりこそに、商売の種が埋まっているのだそうだ。私は金儲けにつなげようとは思わないが、文章のネタになることならなんでも取っておきたい。

 

いずれにせよ、私はフォーマットとしてはA5のシステム手帳ありき、である。閉じてある紙にどんだけ頭の中身を吐き出せるか?しばらくはモーニングノートと並行してちょいちょい思いを吐き出し続けることにする。で、家に帰ったらきっちり整理。こっちの方はいつまで続くか自信はないがね(笑)。

二転三転する事件の様相とそれを追いかける刑事たちの執念の物語 『宿命と真実の炎』読後感

 

 

珍しく衝動DLしてしまったミステリー。作者貫井徳郎氏の評判が各種SNSで高いこともあり、一度は読んでみたいと思っていた作家の作品だ。この作品は山本周五郎賞を受賞した『後悔と真実の色』の続編だそうで、その物語の中で、スキャンダルを起こして警察を退職することを余儀なくされた西條輝司という二枚目も謎解きの重要な部分を担う人物として登場するので、貫井氏のファンにとっては思わずニンマリとしてしてしまう筋立てだろう。

 

さて、物語は一件の巧妙に事故死に見せかけた殺人事件から始まる。のっけから犯人がわかってしまう筋立てといえば、『刑事コロンボ』などが有名だが、この事件にも「コロンボ」に相当するような人物が登場する。所轄署である野方署の女性刑事高城理那である。彼女は柔道で鍛えたいかつい筋肉を持ち、顔の造作は決して美しくないという設定を持たされている。男社会の警察、しかも警視庁の捜査一課と所轄の刑事の間にも大きな壁がある。そんな中で、理那は捜査一課の村越という刑事と組んで捜査にあたることとなる。この村越という刑事が実にいい加減な性格設定。TVドラマにしたら、いかにも性格の合わない二人が組んで結局は事件の解決に立ち向かううちに相棒としての信頼関係を築いていくバディモノになりそうだ。しかし、女優が思い浮かばない。主役を張れるような女優さんはみんな綺麗な人ばっかりだからな。村越の方は候補者はたくさんいる。

 

さて、そんなことを言っているうちに第二、第三、第四の殺人が起こる。被害者はいずれも警官。第一、第二、第三の事件までは共通点があるのだが、第四の殺人には前三件との共通点がない。このままでは第四の事件以外は皆事故として処理されてしまうし、第四の殺人についての実行犯もどうも疑わしい。

 

読者には、最初から最後まで誰がやったかはわかっている。しかし、その動機は一体何なのだ?犯人は二人いると目されるのだが、その二人の関係は一体どんなもの?実行犯は明確なのだが、実行犯二人の正体と、動機は最後の最後まで不明なままである。

 

捜査の行き詰まりを打破してくれたのは、警備員の仕事についていた西條。西條の現在の唯一の楽しみは、目利きの店主がいる古書店に通うことだった。西條の推理にはこの古書店店主が大きなヒントをくれる。このヒントと、ホンのちょっとした被害者の行動から、思いもよらぬ結果が導き出されるのだが、それはぜひ本文をあたっていただきたい。

 

この事実をもとに、犯人逮捕への証拠探しをしている最中、犯人の一人である男が、無計画な殺人を犯してしまう。その男が勤めている会社に彼に好意を寄せている女子社員がいたのだが、その女子社員に後をつけられていることに気づかずに帰宅した男は、そこで事件の共犯でもあり、一番守らなければならないと思っている「人」との関係を目撃されてしまうのだ。自分が罪に問われても大切な「人」が助かるのならそれで良いと、男はあっさりと自首するのだが…。というわけで、結末は是非とも本文をお読みいただきたい。最後の最後まで目の離せない展開が続く。

 

警察は頻繁に自らのミスを隠すための隠蔽体質が深いと指弾され、それがさまざまなドラマや小説のネタになっているが、隠蔽体質が招いた冤罪と、それによって人生を変えられてしまった人々、というかなり重いテーマが底辺に潜んでいる。そしてそのつまづきが犯人二人の人生をどう変えてしまったのか?警察だって犯人をでっちあげるようなことを繰り返しているわけではなかろうが、例えばたった一度の冤罪事件でも人生が変えられてしまう人がいることありうる。殺人という手段で冤罪への恨みを晴らした犯人には救いはないが、もう一人の犯人は恐るべき罪悪感のなさで、刑務所からの復活を虎視眈々と狙う、究極の自己中というか、一種のサイコパスとして描かれている。この人物、本書の事件から何年かしてのち、新たな事件の主人公となる可能性大である。現実社会にはこんな人間がいないことを祈りながら、作品世界中では、どんなワルぶりを見せてくれるのかが楽しみではある。

 

 

噺の名人と小説の名手が語り合う「笑い」『対談 笑いの世界』読後感

 

桂米朝師匠が文化功労者筒井康隆氏が紫綬褒章を受章したことを受け、2003年の朝日新聞正月版の特集としてこのご両人の対談を掲載しようという企画を立てたところ、話が多岐に渡り盛り上がってしまったため、新聞の特集くらいでは載せきれない分量になったとのことで、急遽本にまとめようというお話になって、出版されたのが標題の書。米朝で対談とくると、一時の超大国の大統領と、半島北部の独裁者との結局何の実りもなかった交渉事を思い出してしまうなぁ、などと思いながら読み進めた。

 

桂米朝師匠は関西の落語界を代表する名人だし、筒井氏もSF小説が出発点でありながら、SFという言葉では括りきれない多様な作品を生み出し、その作品の多くにはさまざまな「笑い」が盛り込まれている。両者ともに「笑い」ということに関してはプロフェッショナルであり、そのプロフェッショナル同士がぶつかり合ったらどんな面白いお話が飛び出すかには大いに興味を惹かれたというのも事実。

 

米朝師匠は最初から寄席での演芸や上方落語の研究一筋に精進されていたのかと思ったら、さにあらず。もちろん四代目桂米団治に入門してからは古典から新作に至るまで、精密に勉強し、上方落語復権に貢献したのだが、入門前の笑いの原点はチャップリンであり、マルクスブラザースであったということに驚いた。こういう下地があったからこそ、おそらくただ古いだけで、誰が演じても笑えなかったであろう古典作品を笑える噺にアレンジしていくことができたのだろう。

 

筒井氏は映画についての評論集を出しているほどの映画好きでもあるし、自ら台本を書くほどの歌舞伎通でもある。何がウケて、何が人間の琴線に触れるのか?今の日本の演劇の根本となっている歌舞伎の世界で「常識」とされている世界観はどんなものなのか?こうしたことに対しての認識がきちんとあるから、どこをどう崩せば笑いにつながるか、あるいは感動を産むのか、についてのアイデアを出すことができ、時代を代表する作家となれたのだ。

 

この二人が、どんな事象をどう面白がるか、話す方も尽きないだろうし、聴く方もいつまででも聴いていたいことだろう。実際にあっという間に読み切ってしまい、もっともっといろんな話が読みたいと思わされてしまった。

 

中でも一番興味深かったのは、関西の笑いと関東の笑いの違いを米朝師匠が語った部分。「関東の芸人はあと一押しすれば、もっと笑いが取れる、というその一押しをせずに終えて、余韻を残す。関西の芸人はそこで全ての笑いどころを自分で演じきってしまう。」なんだか、一度蒸して余計な脂を抜いて仕上げる関東風の鰻の蒲焼と、蒸さずにそのまま焼き上げる関西風のそれとの味わいの違いのようなお話である。

 

これは正しいとか間違っているとかいう尺度の問題ではなく、関東と関西の笑いの文化の違いであるし、どちらを好むかは、それこそ個人の好き嫌いの問題だ。私個人としては、「本当にこの面白がり方で正しいのだろうか?」という関東風の笑いの方がやや好ましいような気もするが、関西風に「ここはこう面白がるのが本筋なんや!!」と言い切られてしまうクドさも嫌いではない。もちろん演じる芸人にもよるが。

 

残念ながら、米朝師匠亡き今となっては、再度同じ企画を実現することはできないが、例えば今度は関東の落語家と筒井氏の対談なんて企画も読んでみたい気はする。

死は誰にでも平等に訪れるとはいうものの 『事件現場清掃人』読後感

 

Yahooには、どこかの雑誌や書籍などから、話題になりそうなネタを引っ張ってきて、抜粋版を何回かに分けて掲載する企画があるが、一時よく取り上げられていたのが、ワケアリ物件とその「ワケ」に相当する、人知れず亡くなっていた方のオハナシ。

 

家族みんなに看取られながら、心安らかに旅立つ人もいれば、ゴミ屋敷の中で、数ヶ月も見つけられず、腐乱した際の臭気でようやく気がつかれ、死が確認される人もいる。

死体の発見が早ければ、借家であれば「普通」に掃除して「瑕疵物件」として少々安く貸し出すことになるだろうし、持ち家であれば、然るべき権利を持った人々によって分けられるなどして終わりだろう。まあ、持ち家だったりすると人の死よりもよほど面倒臭い遺産争いなどが起こる可能性はある(笑)。当家もつい最近親戚が亡くなったが、その遺産をめぐっては少々モメそうな気配がなきにしもあらず。

 

閑話休題。この書は遺体の発見までに時間がかかり、腐乱した遺体から流れ出た体液などが床や壁などに染み付いてしまったような現場を清掃することを生業にしている高江洲敦氏の体験記である。

 

私は実はもらいゲロ体質で、悪臭や腐敗物などの「気持ち悪いモノ」に遭遇するとすぐに吐き気を催し、また実際に吐いてしまうようなことも多々ある。したがって高江洲氏のような仕事はまずできないだろうと思うが、怖いもの見たさというか、グロいモノ想像したさとかいうべき心根もなぜか持ち合わせており、Yahooにこのテのオハナシが載ると、必ず読んでしまっていた。Kindle Unlimitedなんぞにラインアップされた日にゃ、読まざるをえまい、ということで即座にDL。一気に読んでしまった。

 

一人暮らしで、突発的な病気に襲われて、助けを求めるも、そこは近所付き合いの浅さってやつで、誰にも助けてもらえずに、玄関まで這っていって力尽きた遺体。閉鎖されて長い間空き家になっていた公営住宅に忍び込んでねぐらにし、雑誌やら弁当のカスやら、缶ビールの空き缶に囲まれた遺体。人が住んでいるという認識がないのだから発見されるべくもない。自殺した遺体も数々ある。何しろ、普通の掃除業者では手に負えないと判断されたが故に呼ばれることが高江洲氏にとっては「普通」の状態なのだから、平穏な状況などあるわけがないのだ。

 

タイトルにもした通り、死は誰のもとにも平等に訪れる。しかし、その死に様は平等ではない。「普通」の人間なら「畳の上で死ぬ」かあるいは「病院のベッドの上で息を引き取る」ってのが一般的で、死体は綺麗に洗い清められて見苦しくない姿で棺に収められて火葬場まで行く。この書に紹介されているのは、それこそ、ウジムシに腐肉を食い荒らされ、肉は半ば液状化して、壁やら床に染み込み、骨が見え始めているようなひどい状態の遺体ばかりだ。高江洲氏も直視に耐えないような遺体を目の当たりにしながら、それでも悲惨な死に様を見せざるを得なかった人々に対して、深い慈悲の心を持って、遺体を搬出し、その後の部屋を原状復帰させるべく清掃を行うのだ。死ぬ間際の苦しみや無念へ想いを馳せることもさることながら、残された肉親たちの抱えるさまざまな問題にも直面せざるを得ない。

あーやだやだ。私には務まりそうにない。よほど切羽詰まらない限りは遠慮したい仕事だ。先にも書いた通り、生理的にはもらいゲロ体質だし、死者の思いも、遺族の思いも触れたくないし、背負い込むのもまっぴらだ。変に感情が動いて特に死者の思いを背負い込んでしまうこともわかっている。そんなことになったらメンタルも崩壊しかねない。

 

私にできるのは、不謹慎なお話ではあるが、さまざまな死に様をエピソードとして味わい、それぞれの方々の人生を想像することくらいだ。結婚願望のあまりない若年層が増えているそうで、そうなると、あと50年後くらいには単身の世帯が激増していることが予想される。となると、こうした発見されない孤独死はより多くなっていくのだろう。皮肉なお話だが市場規模の拡大は見込める事業ではあるが、そんな事業が隆盛を誇るような社会はどこかおかしいのだと思う。

 

 

最後に一花何かやらかしてくれそうな気配を漂わせている「角川商法の始祖」 『最後の角川春樹』読後感

 

 

角川書店との最初の出会いは北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』だったと思う。小学校の最後か、中学校の初めだったか、北氏の『どくとるマンボウ途中下車』というエッセイ集にすっかり魅せられた私は、北氏の出世作である『航海記』を買いに近所の本屋に走った。首尾よく買い求められはしたのだが、その時の角川書店の文庫本は、新刊本なのに、紙の色は既に古色蒼然としていたし、紙の裁断がいい加減で、ページが不揃いだった。「新潮文庫とか、講談社文庫はこんな小汚くなかったよな…」というのが買い求めた直後の印象。すぐに中身の方に夢中になって本の見てくれなんぞ大して気にはならなかったが、なんか安っぽい出版社だな、という印象は残った。

 

その後、中学に進学すると、図書館にドカンと置かれていたのが「角川文庫の100冊」という中くらいの箱。その年の角川文庫の100冊をそっくりそのまま全国の中学校に配るという太っ腹な企画だった。中学生にとっては少々背伸びしても追いつかない作品が多々あったが、確か筒井康隆氏の『農協月へ行く』はこの本から引っ張り出して読んだと記憶している。

 

で、この頃から角川で出版している本を次々映画化して、映画の評判が上がるとともに本自体の売上も上がるといういわゆる「角川商法」が本格化していった。今でいうところの「メディアミックス戦略」の嚆矢で、今の世では常識化しているが、当時は映画という芸術の一つを本を売るための手段にするとは何事か!!という空気が支配的だった。

 

私は、それほど小遣いがあったわけでもないので、映画なんぞ観に行くのはそれこそ3年に一本くらいだった。ただし、ながら族として聞いていた『夜はともだち』の中では角川提供の番組があり、そこで散々映画の宣伝が流されるので、何冊かは原作を買って読んだ覚えがある。さほどの熱心さはなかったが、見事に角川のメディアミックス戦略に乗せられていた一読者ではあったのだ。

 

このメディアミックス戦略は、森村誠一横溝正史大藪春彦半村良眉村卓らをベストセラー作家にさせ、映画の主演に抜擢することで、薬師丸ひろ子原田知世、渡辺典子らのスターも生み出した。

 

コトの是非はともかくとして、角川春樹という人物が起こしたムーヴメントはそれなりの経済効果をもたらしたことは事実だ。

 

表題の書は、角川春樹氏の半生を聞き書きという形でかなり詳細に記述している。角川商法のお話はもちろんこの書の根幹をなすものではあるが、生い立ちから、父親、実の母親と継母二人の母親、姉と弟、そして異母妹との関係性。國學院大学に入学後ボクシング部に入学し、学生運動の最中に、渋谷で200人を相手に大立ち回りを演じたこと、大学卒業後、角川書店に入社したのはいいが、ジェットコースターのように、社内の地位が上下動したこと、そして実弟歴彦氏との対立から角川書店を離れたことまで。出版人というより映画人というより、歴史の影で動いたフィクサーとか、反社会勢力の親分さんの一代記とでもいうべき波瀾万丈さが詰めこまれている。なお、角川氏は違法薬物の所持で逮捕されるという経験もしている。ヤクザの親分さんならさぞかしハクがついただろうが、彼に関しても人間の振れ幅の大きさという魅力の一部となっている。

 

そんな角川氏も、御歳80歳。著者伊藤氏は題名に「最後の」という言葉を冠したが、残された人生の時間の中で、もう一度世間をあっと言わせる仕掛けを何か角川氏が考えているだろうという予測のもとにあえて「最後の」を題名に入れたという趣旨の発言をしていた。まだ80というべきかもう80というべきか、私自身は本人にあったことがないので、その迫力みたいなものを直に感じたことはないのだが、文章を読んでいる限りは最後どころか、もう三つくらい大きなネタを抱えているような気がしてきてしまうのが不思議なところだ。仮に「最後」になるとしたら、それこそ華々しい散りざまになるのではないか。