脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

死は誰にでも平等に訪れるとはいうものの 『事件現場清掃人』読後感

 

Yahooには、どこかの雑誌や書籍などから、話題になりそうなネタを引っ張ってきて、抜粋版を何回かに分けて掲載する企画があるが、一時よく取り上げられていたのが、ワケアリ物件とその「ワケ」に相当する、人知れず亡くなっていた方のオハナシ。

 

家族みんなに看取られながら、心安らかに旅立つ人もいれば、ゴミ屋敷の中で、数ヶ月も見つけられず、腐乱した際の臭気でようやく気がつかれ、死が確認される人もいる。

死体の発見が早ければ、借家であれば「普通」に掃除して「瑕疵物件」として少々安く貸し出すことになるだろうし、持ち家であれば、然るべき権利を持った人々によって分けられるなどして終わりだろう。まあ、持ち家だったりすると人の死よりもよほど面倒臭い遺産争いなどが起こる可能性はある(笑)。当家もつい最近親戚が亡くなったが、その遺産をめぐっては少々モメそうな気配がなきにしもあらず。

 

閑話休題。この書は遺体の発見までに時間がかかり、腐乱した遺体から流れ出た体液などが床や壁などに染み付いてしまったような現場を清掃することを生業にしている高江洲敦氏の体験記である。

 

私は実はもらいゲロ体質で、悪臭や腐敗物などの「気持ち悪いモノ」に遭遇するとすぐに吐き気を催し、また実際に吐いてしまうようなことも多々ある。したがって高江洲氏のような仕事はまずできないだろうと思うが、怖いもの見たさというか、グロいモノ想像したさとかいうべき心根もなぜか持ち合わせており、Yahooにこのテのオハナシが載ると、必ず読んでしまっていた。Kindle Unlimitedなんぞにラインアップされた日にゃ、読まざるをえまい、ということで即座にDL。一気に読んでしまった。

 

一人暮らしで、突発的な病気に襲われて、助けを求めるも、そこは近所付き合いの浅さってやつで、誰にも助けてもらえずに、玄関まで這っていって力尽きた遺体。閉鎖されて長い間空き家になっていた公営住宅に忍び込んでねぐらにし、雑誌やら弁当のカスやら、缶ビールの空き缶に囲まれた遺体。人が住んでいるという認識がないのだから発見されるべくもない。自殺した遺体も数々ある。何しろ、普通の掃除業者では手に負えないと判断されたが故に呼ばれることが高江洲氏にとっては「普通」の状態なのだから、平穏な状況などあるわけがないのだ。

 

タイトルにもした通り、死は誰のもとにも平等に訪れる。しかし、その死に様は平等ではない。「普通」の人間なら「畳の上で死ぬ」かあるいは「病院のベッドの上で息を引き取る」ってのが一般的で、死体は綺麗に洗い清められて見苦しくない姿で棺に収められて火葬場まで行く。この書に紹介されているのは、それこそ、ウジムシに腐肉を食い荒らされ、肉は半ば液状化して、壁やら床に染み込み、骨が見え始めているようなひどい状態の遺体ばかりだ。高江洲氏も直視に耐えないような遺体を目の当たりにしながら、それでも悲惨な死に様を見せざるを得なかった人々に対して、深い慈悲の心を持って、遺体を搬出し、その後の部屋を原状復帰させるべく清掃を行うのだ。死ぬ間際の苦しみや無念へ想いを馳せることもさることながら、残された肉親たちの抱えるさまざまな問題にも直面せざるを得ない。

あーやだやだ。私には務まりそうにない。よほど切羽詰まらない限りは遠慮したい仕事だ。先にも書いた通り、生理的にはもらいゲロ体質だし、死者の思いも、遺族の思いも触れたくないし、背負い込むのもまっぴらだ。変に感情が動いて特に死者の思いを背負い込んでしまうこともわかっている。そんなことになったらメンタルも崩壊しかねない。

 

私にできるのは、不謹慎なお話ではあるが、さまざまな死に様をエピソードとして味わい、それぞれの方々の人生を想像することくらいだ。結婚願望のあまりない若年層が増えているそうで、そうなると、あと50年後くらいには単身の世帯が激増していることが予想される。となると、こうした発見されない孤独死はより多くなっていくのだろう。皮肉なお話だが市場規模の拡大は見込める事業ではあるが、そんな事業が隆盛を誇るような社会はどこかおかしいのだと思う。