脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

噺の名人と小説の名手が語り合う「笑い」『対談 笑いの世界』読後感

 

桂米朝師匠が文化功労者筒井康隆氏が紫綬褒章を受章したことを受け、2003年の朝日新聞正月版の特集としてこのご両人の対談を掲載しようという企画を立てたところ、話が多岐に渡り盛り上がってしまったため、新聞の特集くらいでは載せきれない分量になったとのことで、急遽本にまとめようというお話になって、出版されたのが標題の書。米朝で対談とくると、一時の超大国の大統領と、半島北部の独裁者との結局何の実りもなかった交渉事を思い出してしまうなぁ、などと思いながら読み進めた。

 

桂米朝師匠は関西の落語界を代表する名人だし、筒井氏もSF小説が出発点でありながら、SFという言葉では括りきれない多様な作品を生み出し、その作品の多くにはさまざまな「笑い」が盛り込まれている。両者ともに「笑い」ということに関してはプロフェッショナルであり、そのプロフェッショナル同士がぶつかり合ったらどんな面白いお話が飛び出すかには大いに興味を惹かれたというのも事実。

 

米朝師匠は最初から寄席での演芸や上方落語の研究一筋に精進されていたのかと思ったら、さにあらず。もちろん四代目桂米団治に入門してからは古典から新作に至るまで、精密に勉強し、上方落語復権に貢献したのだが、入門前の笑いの原点はチャップリンであり、マルクスブラザースであったということに驚いた。こういう下地があったからこそ、おそらくただ古いだけで、誰が演じても笑えなかったであろう古典作品を笑える噺にアレンジしていくことができたのだろう。

 

筒井氏は映画についての評論集を出しているほどの映画好きでもあるし、自ら台本を書くほどの歌舞伎通でもある。何がウケて、何が人間の琴線に触れるのか?今の日本の演劇の根本となっている歌舞伎の世界で「常識」とされている世界観はどんなものなのか?こうしたことに対しての認識がきちんとあるから、どこをどう崩せば笑いにつながるか、あるいは感動を産むのか、についてのアイデアを出すことができ、時代を代表する作家となれたのだ。

 

この二人が、どんな事象をどう面白がるか、話す方も尽きないだろうし、聴く方もいつまででも聴いていたいことだろう。実際にあっという間に読み切ってしまい、もっともっといろんな話が読みたいと思わされてしまった。

 

中でも一番興味深かったのは、関西の笑いと関東の笑いの違いを米朝師匠が語った部分。「関東の芸人はあと一押しすれば、もっと笑いが取れる、というその一押しをせずに終えて、余韻を残す。関西の芸人はそこで全ての笑いどころを自分で演じきってしまう。」なんだか、一度蒸して余計な脂を抜いて仕上げる関東風の鰻の蒲焼と、蒸さずにそのまま焼き上げる関西風のそれとの味わいの違いのようなお話である。

 

これは正しいとか間違っているとかいう尺度の問題ではなく、関東と関西の笑いの文化の違いであるし、どちらを好むかは、それこそ個人の好き嫌いの問題だ。私個人としては、「本当にこの面白がり方で正しいのだろうか?」という関東風の笑いの方がやや好ましいような気もするが、関西風に「ここはこう面白がるのが本筋なんや!!」と言い切られてしまうクドさも嫌いではない。もちろん演じる芸人にもよるが。

 

残念ながら、米朝師匠亡き今となっては、再度同じ企画を実現することはできないが、例えば今度は関東の落語家と筒井氏の対談なんて企画も読んでみたい気はする。