脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

最初に手に取ったのが「最後」の作品とは… 『必要になったら電話をかけて』読後感

 

私の書斎の本棚は、いまだに乱雑なままだが、各棚に並べてある本のサイズだけは統一してある。とりあえず物理的にできる整理としては、それが一番手っ取り早かったからで、まだ、中身を加味しての整理には手がつけられていない。よほどの暇ができない限りは無理だろうとも思っている。本棚の整理の前に、自分の洗濯物(最高権力者様がきちんと畳んではくれている)のタンスへの収納とか、庭の芝刈りとか不燃物のゴミ出しなどの雑用が山のように降ってくるからだ。それ以外にも、ラグビー記事の原稿書きやらレシピサイトの原稿書きもあるし、テストライティングにも挑戦し続けなければならない。とりあえず、先延ばしにしておいても不都合でないものはこうして期限を切られずにどんどん先延ばしされていく。

 

標題の本は、そんな私の書棚の「新書コーナー」の片隅にちょこんと並べられていたもの。「村上春樹 翻訳ライブラリー」と銘打たれたシリーズ中の一冊なのだが、巻末には結構長い村上氏による解説が掲載されている。その解説によれば、この書はレイモンド・カーヴァー全集の最終巻なのだそうだ。よりによって、この「翻訳ライブラリー」で最初に手に取った本が、最終巻とは…。なんだか皮肉なお話だが、今のところこの偶然が何か私の日常に変化を及ぼしたという自覚はない。本当はこの瞬間に最高権力者様との関係が決定的に壊れる「何か」が生じていたりするのかもしれないのだが、そんなことに気づくほどの繊細さを、私自身は持ち合わせていないと感じている。なお、この書に収められていたのは、未発表作品らしい。村上氏も既に逝去されたカーヴァー氏が作品をリリースしなかったのは、まだ推敲の余地がありとして手元に留め置いていたためではないかとの推察から、翻訳することを躊躇していたそうだ。カーヴァー氏には、とある編集者によって意図せざる改稿を勝手になされた上に、出版されてしまったという「前歴」があるという事情もあったそうだ。でも結局は遺族の了承も得た上で、残された作品をそのまま翻訳・出版することにしたのだそうだ。

 

閑話休題。村上氏によるカーヴァー作品の翻訳物としては、以下の2冊をはるか昔の大学生時代に読み飛ばした記憶だけが残っている。内容はほとんど覚えていない。

 

 

 

ただ、日常のほんの小さな食い違いの積み重ねが、ある日決定的な人間関係の破綻を招く、という物語ばかりが収められていたな、という印象だけは頭の片隅に引っかかってはいた。

 

で、標題の書もそういう雰囲気をまとった作品が5作収められている。アメリカ映画では主人公の家庭が崩壊しかかっていて、何かの大事件の解決とともに家族、主には夫婦が愛情を取り戻す、というストーリーばかりが描かれるが、それだけキリスト教の教義に基づいた一夫一婦制は矛盾に満ちたものなのだろう。で、カーヴァー氏の小説では、問題が解決せずに離れ離れになっていく夫婦たちの物語が綴られる。

 

日本だと、別れるだの別れないだのというお話は、ドロドロの怨恨ものになってしまうか、あるいは特に男の方が病的なまでに未練を持ち続けてしまうか、幼い子供の視点で悲しく悲しく描かれるか、何かしらウエットさを纏いつけてしまうのだが、カーヴァー氏の作品はドライというかクールというか、淡々と文章が進んでいく。一度壊れた関係はどうやっても修復はできない、という事実が、描き出されるさまざまな細かな事柄によっていつの間にか、強固なイメージを形作っていってしまうのだ。決して大きなドラマがあるわけでもない。人間関係の破滅を象徴するような出来事もほとんど描かれない。でもいつの間にか、この人たちはもう元の関係には絶対に戻れないのだな、という空気感が、作品の読者の心の中に醸成されていってしまう。

 

確かに、こういう作品は、作者としては最後の最後まで完成形をイメージしづらいだろう。芥川龍之介の『羅生門』のラストは3回改稿されていることで有名だが、カーヴァー氏などは、作品リリース後も自分が生きている限りは改稿したくて仕方がなかったのではないか。少々オーバーすぎる想像かも知れないが。

私の本棚にはまだ、カーヴァー氏作、村上氏翻訳の作品が多数眠っている。時々思い出したようにゆるゆると読んでいこうと思う。夜、川面で跳ねる鮭の水音のように、意外な時、思い出した時に。