脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

クスリにはリスクがつきもの、制度には抜け道がつきもの 『クライシス』鑑賞記

 

アメリカの深刻な社会問題の一つである薬物依存を扱った一作。向精神薬として認可は受けているものの、麻薬に似た作用による依存症と、副反応によりさまざまな障害を引き起こすオピオイドという成分を含む薬品をめぐるサスペンス。

物語には3人の「主人公」が登場し、それぞれの立場でこの薬物と戦う姿が描かれる。

 

まず物語を引っ張るのが、カナダの薬物密輸組織に潜入している麻薬捜査官ジェイク(アーミー・ハマー)。最初に彼の姿が描かれることで、この作品はクライムサスペンスなのかと勘違いしてしまうのだが、そういう要素は強いものの、あくまでも敵は密売組織ではなく「薬物」そのものである。なお、この作品は日本ではビデオスルーであったが、劇場で公開されなかったのは米での作品公開時にアーミー・ハマーに性的なスキャンダル騒動が持ち上がっていたため。

 

お次は女性建築家クレア(エヴァンジェリン・リリー)。彼女の息子は、ある日突然行方不明となり、発見された時は明らかに薬物中毒と見られる症状を呈した上で亡くなっていた。息子に薬物を渡した人物とその背後にある組織への復讐を誓うクレア。自身にも薬物依存の経験があるという設定になっているクレアは「母は強し」を地でいく執念でクスリの流通ルートを調べ上げ、復讐の機会を虎視眈々と狙う。物語の終盤で、ジェイクとクレア二人のストーリーは一つの結末に集約していくという演出になっている。

最後は大学の薬学を専攻とする教授、ブラウアー(ゲイリー・オールドマン)。彼は製薬会社から莫大な資金援助(彼の研究のみならず、所属する大学の経営にも大きく影響する金額)を受けて、依存性の小さい鎮痛剤の研究を行なっている。しかし、研究が終盤に差し掛かり、製品化もほぼ決まりかけた時期に、実験から新薬にも深刻な薬害があることを示すデータが提示されてしまったから、さあ大変。投資回収とその後の莫大な利益のため、製薬会社はその不都合なデータを無効であると主張して、なんとか発売にこぎつけようとする。学者としての矜持と何より薬害により苦しむ人をなくそうと奮闘するブラウアーだが、お金の力は凄まじく、過去のスキャンダルを蒸し返されて社会的信用を失わされた上、大学からも追われることとなってしまう。

 

個人的には、このブラウアーの戦いをもっと大きく取り上げてもらいたかった気がする。薬品の開発という「川上」と流通先という「川下」両方の現場の問題を描こうとする心意気はよかったのだが、手を広げすぎてテーマがボケてしまった気がする。タイトルにもした通り、どんな制度にも必ず抜け道があり、末端の密売組織などは、その辺の加減を実に巧みに見極めて「商売」している。その巧みさを描くというのも一つの目的としては悪くはないとは思うが、根本の根本のところで、利潤追求のために、制度の根幹を揺るがしかねない巨大な不正が堂々と行われていることこそが問題だ、というところにフォーカスした方がサスペンスとしての緊張感も高まったのではないかという気がする。川下で正義感を持った捜査官がいかに奮闘しても、「合法的」に大々的に生産が行われていたのでは、まさしく、シャベル一本で大河の流れを止めようとするようなもので、いつまで経っても病根は断ち切れない。

 

最後の最後、ブラウアーは別の大学の薬学の教授として、学生からも研究者からも大きな期待を寄せられ、新たな戦いに挑むという未来が暗示されて終わるのだが、新しい大学で薬害の最大の原因であると判明した「企業の論理」といかに戦うかの方まで描いて欲しかった。まあ、もしそんな描き方をしたら、映画の制作会社も配給会社も、それこそ未来永劫製薬会社をスポンサーにすることができなくなるという「企業の論理」が働いた上での展開だったのかもしれないが(笑)。

手帳はアタマのUSBメモリー 『手帳フル活用術-仕事の達人、27人の「手のうち」!』読後感

 

 

何度か書いているが、私は現在A5サイズのシステムて手帳を使用している。買い求めてからそろそろ20年近くになるため、外見は堂々たる風格を持っているが、残念ながら、中身はお粗末なままだ。

 

バレットシステムの本を読んで導入したり、PDCAについて書かれた本の内容を自分の目標に応用して活用を試みたりした。しかしどの方法も、最初は勢い込んでどんどん書き付けはするのだが、結局なし崩し的にフェードアウト。「10年後のあるべき姿」だとか、3ヶ月も前の「今週中にやらなければいけないこと」なんてな、思考と行動の「塩漬け物件」の保管場所になってしまっている。

 

買い求めて以降の課題である手帳の活用法について、常に問題意識だけはあったので、書斎の積読山に標題の書を見つけた時に、すぐさま引っ張り出して一気読み。ちょうど、結構重要な仕事を完璧にすっ飛ばすというミスを犯したばかりだったので「このままではいけない!!」という気持ちもあったので、とにかく目についてしまったのだろう。

 

この一冊、過去のブログに読後感こそ投稿してはいなかったが、おそらく一度は読んでいる。「あ、この記述記憶がある」っていう箇所がいくつも出てきたからだ。まあ、手帳の活用法に関する本はこれ以外にも少なからず読んでいるのでそれらとの混同も起こっている可能性は少なからずあるが…。

 

さて、手帳の最大の効用は何か?それは記憶装置であるということだ。よほどの特異体質でない限り、自分では完璧に記憶したつもりでも絶対に忘れる。忘れてはいけないことは多々あるが、大きくは次の三つになるだろう。

まず第一。スケジュールやアポイントはどこかに書きつけておかないと致命的な間違いにつながる可能性がある。私も、ついうっかり、で痛い目を見たことはそれこそ無数にある。それゆえ、人と会う約束をした場合や何かイベントがあることに気づいた際は必ずその場で手帳に記すことにした。残念ながら、書いたはいいが、手帳を見ることを「忘れて」やっぱり痛い目を見たことは少なくないが(苦笑)。

 

第二に、すぐにやらなければならないこと。これは、忘れてしまうこともさることながら、書くことによって落ち着いて、最優先事項を判断することにもつながる。そんなわけで、日々の業務の開始時には、以前に紹介した↓の本で提唱されていたバレットジャーナルという方法を用いている。

www.yenotaboo.work

 

とにかく、今日やるべきことを、思いつくままに全て書き出し、済んだものには片っ端からチェックを入れていき、終わらなかったことに関しては納期を指定して翌日以降に回すという方法だ。

 

第三に、自分の夢や希望、なりたい姿を忘れないように書き留めておくこと。そして日々その理想を見続けることで、その理想に少しでも近づくためになすべき行動を考え、実践していくことにつなげるのである。

 

本来ならこれが一番大切な機能だ。「自分が本当に望むもの」は、大きすぎる課題であるがゆえ、ついつい雑事に追いまくられる毎日を送るうちに心の奥底に埋没していってしまう。その方が幸せである場合も往々にしてあるが、少なくとも私は今の日常をあと10年も続けるのは真平ゴメンだし、せっかくの新居をほっぽりださざるを得ないような遠隔地に飛ばされるのも嫌だ。故に、現在の自分が一番なりたいモノ、すなわち筆一本で食える文筆業者を目指すことにしたのだが、では文筆業者になるにはどうしたら良いか?

 

まずは決意を忘れないよう、潜在意識に刷り込むために毎日決意を眺める。そしてその決意を実現するためにはどんな活動を送るべきかを日々考え実施し、実施したことでどこまで自分の夢に近づいているのかを検証するためのツールにするのである。まさに、いくらでも容量が増やせる、USBメモリーだと言って良い。

 

どんなフォーマットでどんな追いかけ方をするか、については、本のタイトルにもあるとおり27人もの達人たちの使い方が紹介されているので、是非とも実際に読んで参考にしていただきたい。

私自身は、日々の活動のチェックはバレットジャーナルを継続使用することにしたが、本当に自分がなりたい姿と、そのための実施策については改めて考え直してみた。とはいえ、まだアタマの中にある欲望をその辺の紙に考えつく限り書き出したに過ぎないが。この中から、本当に、やりたいことを絞り込み、そしてその実現のためにやらなければならないことを考える、というところまでをまずやらなければなるまい。とにかく、今の会社の仕事以外は全てやりたいものだと言って良い状態なのだが、残された人生の中でチャレンジできることには限りがある。上位三つくらいにまで絞り込んで、それぞれの修練方法を考え、実施していきたいと思う。

久しぶりに三谷作品の真骨頂を見た思い 『short cut』鑑賞記

 

 

田舎ゆえに、レンタルDVDショップの閉店時間が早く(何しろ21時だ!まあ、その時間を過ぎたら、DVDショップはともかく、その周辺は狐狸妖怪の類が跋扈しそうな闇に覆われるのだから仕方ない)、店内に流れる『蛍の光』に追い立てられるようにして借りた一作は、CS界の永遠の中堅どころWOWOWが2011年に開局20周年を迎えたことを記念して作られたシュチュエーションコメディードラマ。

 

まあ、三谷幸喜の脚本ならば、そんなに外れることもないだろうという目論見も確かにあったが、この作品は三谷作品の真骨頂をしっかりと表していたなかなかの佳作だった。

 

では、三谷作品の真骨頂とは何か?そのうちの一つはキャストもコストも徹底的に絞り込んだ中で、台詞回しや役者の演技だけで勝負するところ、というのが私の考えである。

 

この作品には8割方夫婦役の中井貴一鈴木京香しか登場しない。後々になってちょっとクセのある敵役をやらせたらピカ一の梶原善が、モロに期待に添ったキャラクターで登場はするが、基本的には中井、鈴木お二方のセリフと演技だけで芝居は回っていく。ちょとググって調べてみたらカメラを止めることは一度もなかった「ワンカット・ワンシーン」作品だそうだ。演じる役者も大変だろうし、さまざまなシーンでさまざまなカメラワークを見せたスタッフはもっと大変だっただろうと思うが、この辺は、私が三谷幸喜という劇作家を知ることになった『12人の優しい日本人』と同様、そうしたシュチュエーションに耐えられるだけのキャストとスタッフをしっかりと集めてきている。

 

さて、ストーリーは鈴木演じる妻の実家近くのど田舎の山道(ロケ地は長野の伊那谷だったとのこと)からスタートする。妻の祖父の葬式に出席するために夫婦して車に乗ってやって来たものの、帰り道で車が故障。携帯も通じない、人も滅多に通りそうにない山道のど真ん中でどこか楽しそうな妻と、心底途方に暮れた様子の夫。夫はなんとかその日のうちに東京に帰りたいとして、人が通りそうな国道まで出て、そこから駅までヒッチハイクするという手段を選択する。その案に乗り気になった妻は、その山道が昔の遊び場であったことを思い出し、大回りとなる普通の道ではなく、一つの山の中を突っ切る獣道の抜け道を行こうと提案。ここで題名の『short cut』が効いてくる。要するに急がば回れを地でいくようなストーリーになるんだろうな、と思ったらその通り。近道のはずが、どんどん山深い方向に迷い込んでしまい、ついには妻にも現在地がわからなくなるという結果を招く。

 

そこで、改めてお互いがお互いに責任をなすりつけ合う夫婦喧嘩が勃発。ところがその夫婦喧嘩はこの場だけの問題ではなく、もっと大きな問題を孕んでいたことが発覚し、と、地理的にも心理的にも二人はすっかり大混乱。この辺りのストーリーの持って行き方は、くるぞくるぞと思わせておいて本当にその通りになってしまうというエンターテインメントの一つの形を見事に表している。どこかでみたようなオハナシだよな、とは思うのだが、三谷流の味付けがなかなか洒落ているもので、「パクリ」ではなく「オマージュ」なのだと納得することができるのだ。

 

二つ目の真骨頂がこのオマージュの巧みさだ。前述した『12人の優しい日本人』なんぞは、筋立ては『12人の怒れる男』そのまんまだが、シュチュエーションを変え、「日本人あるある」を巧みに取り込んださまざまな伏線を張って、それを回収し、最後の見事な一言で「原作」とは全くテイストの違った作品に仕上げている。この作品だって、具体的な作品名までは挙げられないが、要するに旦那の浮気が原因でギクシャクしてた夫婦関係修復の物語っていう、ここ10数年くらいのアメリカ映画では取ってつけたように最後に必ず描かれる無理やりな結末に導かれるのだ。まあ、それまでの展開が夫婦関係とは全く関係ない強大な敵との戦いではなく、自分たちでドツボにハマった状況がもたらしたドタバタだったのだから、「座りが良い」結末となるのだ。無理やりに「幸せな結末」をくっつけなくたって、自然に修復されていくっていう方法だってあるんだよ、って示し方が「普通のアメリカ映画」をみているよりは幾分か心地よかったし、アメリカ映画への皮肉にもなっていたような気がする。

どんな分野で活躍する人の足元にも広がっている深くて暗い落とし穴 『イップス 病魔を乗り越えたアスリートたち』読後感

 

 

私は、プロないしはその道のトップレベルで活躍できるほどのアスリートになった経験はない。したがって、この本に書いているような、極度の緊張を強いられる場面なんぞに遭遇したことはないし、したがってそこで致命的なミスを犯すようなことは幸いなことに今まで経験していない。仕事のミスで叱責されたり、自分自身が嫌になった経験だけは山ほどあるが。(笑)

 

かなり以前に、何度も何度も見直したはずの資料に、ごく初歩的な、しかも致命的なミスが見つかったことがあり、それが「イップス的」な体験だということは言えるかもしれない。ケアレスミスは私の最大にして最頻発の弱点ではあるが、あの時は、他の人にも見てもらった上で、何度も見直してようやくミスがないと確認してリリースした瞬間に別の人にミスを指摘されたのだ。なんでもないゴロを捌いて余裕の状態で送球したら大暴投になり、満塁の走者が全て生還してしまう、なんて状態の衝撃を無理矢理私の経験から引っ張り出すとしたら、この出来事しかない。

 

さて、改めて、イップスとはほんの簡単な動作をミスしてしまい、それ以降同じミスを繰り返すとか、同じ動作が全くできなくなってしまうという現象のこと。最初はゴルフでミスショットを繰り返してしまう際に用いられていた概念だったが、野球でも、主に内野手の送球時などに見られる現象ということで一気に「市民権」を得た言葉である。原因についてはいろんな「学説」があるが、実はまだはっきりと究明されたわけではなく、それゆえ、万人に共通した「治療法」も確立されていない。各人が各様に克服していくしかない現象であるし、この現象ゆえに競技自体の継続を諦めてしまった方も少なくないように思う。

 

標題の書は三人のプロ野球選手と二人のプロゴルファーの、発症から克服までのストーリーを克明に描き、最後の章で現時点での最新の研究で分かったことまでを述べている。イップスってどんなもの?実際にイップスが生じた場合にどうしたらいいの?という疑問に対しては現時点ではかなり高度なレベルで「即答」した一冊だと言えよう。単純な興味を充足するにも、実際に悩んでいる人が解決への糸口をつかむにも役立つ内容になっている。

 

紹介された選手のエピソードの中で一番印象的だったのは、ヤクルト黄金時代にいぶし銀的に要所要所で活躍し「野村野球の申し子」とまで言われた土橋勝征氏のものだ。私はヤクルトファンではないので、彼のプレーを具に見ていたわけではないのだが、当時はまだゴールデンタイムに放送されていた巨人戦でのプレーを見ていた限りでは、守備を買われて二塁手に定着し、試合で使われていく中でしぶとい打撃を身に付けたという「ストーリー」を勝手に自分の頭の中で作り上げていたのだが、さにあらず。彼の持ち味は打撃の良さ。もともとは遊撃手だったが、当時のチーム編成上の都合で二塁手を務めることが多く、そこで送球イップスを発症し、一時は外野に回ったこともあったそうだ。「え、土橋選手って外野も守ったことあったんだっけ?」というくらい二塁手としてのイメージしか私の中にはなかった。それも好守で鳴らした二塁手で送球イップスにかかったことがあるなんて雰囲気は微塵も見せていなかった気がする。自分の弱みを隠し通せてしまう「巧さ」までも含めて野村克也氏好みの「プロ野球選手」である所以なのだろう。

 

土橋選手は二人のコーチと共にそれこそ毎日同じ動作を繰り返して練習することで、技術的にイップスを克服していった。技術的な弱点は練習することでなんとかなる場合があるが、ミスによって引き起こされた精神的な傷は練習だけでは癒えない場合がある。土橋選手はミスで腐ってしまわない強い精神の持ち主(時にはコーチに殴られそうになりながらも、自らの考えを曲げようとはしなかったというエピソードも紹介されている)であったことも幸いし、指導したコーチすらが「常人なら音を上げてしまうだろう」とまで言ってしまう単純な送球動作を毎日何千回と繰り返すことで文字通り正確な送球を「身につけた」のである。ただし、前述した通り、イップスの原因についてはまだ不明な点ばかりで、土橋選手が克服したのと同じ方法が他の人全てにも通用するかというとそうでもないようだ。

 

いやはや。スポーツのプロとして生きていくためには文字通り自分とも厳しく戦い続ける必要があるという重い事実を思い知らされてしまった。普通の人には難しいと思えることを簡単にやれる(やれた)からこそプロに選抜されたのに、そこで待っていたのはど素人がやるような単純な反復動作。私ならさっさと諦めてしまうに違いない。実際に今の仕事には完全にやる気を無くしている(苦笑)。

イップスは何もスポーツの世界に限ったことではない。前述した私の小っ恥ずかしいエピソードのように、どんな場面、どんな動作に関しても、他の人からすれば「なんでそんな簡単なことができないの?」と思われることができなくなってしまう危険性は十分にありうる。そしてその克服には「定説」がない。どれだけ時間がかかろうと、労力がかかろうと自分で方法を見つけ、克服していくしかないのだ。その時間も労力も惜しいという場合には職を変えるしか手はないが、今の私のようになんの魅力も感じていない仕事ならともかく、自分で望んで恋焦がれて選んだ仕事でイップスにかかってしまったら、これは相当に苦しいお話だ。そう考えると、身の回りにには実にさまざまな危険性が潜んでいることに気づいてしまう。変に高度な知性を持ってしまった人間ってのは難しい生き物なんだねぇ…

自分の常識は他人の非常識 『HSPサラリーマン 人に疲れやすい僕が、楽しく働けるようになったワケ』読後感

 

 

標題の書の中の「HSP」とはHighly Sensitive Personの略。詳しくは↓のサイトを参照いただきたいが

kenko.sawai.co.jp

 

要するに過度に繊細で「普通の人」よりは様々な物事に傷つきやすい人間のことだ。

 

まあ、こうした資質は誰にでも大なり小なり備わっている。例えば、私は会社の業務が嫌いで仕方がないゆえに、なるべくそこで攻められないようミスしないようミスしないよう気をつけているつもりだが、実に初歩的な、みっともないミスをしてしまうことが少なからずある。そうなると、そのミスを散々引きずり、ついでに今までのミスまで引っ張り出してきて、自分の才能のなさを呪い、最後には自死まで考えてしまう。考えてしまうことは多々あっても一度も実行に移したことはないが(笑)。一度だけビルの八階の片隅で、「ここから飛び降りたら全てが終わるのかな」と考えてしばし立ち止まったことはある。その時は近くのドアから人が出てきたので、慌てて階段を駆け下りたが。

 

先週もチラッと書いたが、週末に告げられた勤務評定が最低だったことで、かなり落ち込んだ。いろんな要因が重なったとはいえ、私の一番重要な仕事ではちゃんとここ数年では一番の成果があがったのだ。しかし上司の言い分は「リーダーとしての仕事をしていないから」というものだった。「他のみんなはほぼ毎日出社していろんなことに対応している」とも「皆からは十分なフォローを受けている」と畳み掛けてきた。ちゃんと成果があがっていたのに俺の仕事は全く意味がないのか?腐り脳筋弱り毛根バカを突き放してずっと無視していることが悪かったのか?50過ぎたらみんな管理職然としてリーダーやんなきゃいかんのか…。いろんな想いが渦巻いて、鬱々として楽しめない週末を過ごさせられた。唯一の救いは姪っ子ちゃんと半日遊んだことだけ。

 

思いあまって、今週の出社日にちょうど空き時間を見つけた、直属の上の上司に思いの丈をぶつけてみた。そしたらなんのことはない、「実績」についてはちゃんと評価されていた。私の奉職する会社の評価は、いわゆる出世につながる「昇格」と給料の多寡につながる「昇給」の二本立てで評価することになっているのだが、管理職に昇格して初めての評価だった直属の上司は、どうやらそれをゴッチャにしてしまったようだったのだ。しかもこっちが、評価に納得できないと語気を強めたことで、余計に喧嘩腰になってしまい、私の至らないところばかりをあげつらうような評価になってしまったらしい。昇格なんぞもとより眼中にはないが、昇給の方まで最低という評価に納得がいかなかった私はすんなり鉾を納めた。単なる方便だったかもしれないが、会社に出てきている方が偉いという考え方もちょっと偏り過ぎている、という見方まで示してくれたので、ようやく悶々としていた気持ちが消えた。

 

まだ私なんかは、受けた傷を怒りに変えることができるのだから完全なHSPではないのだが、この本の著者春明氏は休職や退職にまでは至らなかったものの、病気としてのHSPの手前にまでは行ってしまったことが文中で語られている。WEBデザインの会社の営業マンを務めている春明氏は、40人いる営業マンの中で常に35位以下。柔道部出身で体育会系バリバリの部長に3ヶ月ごとの成績発表の際に散々どやしつけられるのが常。テレアポも取れなきゃ飛び込み営業でも相手にされない。何をやっても全くうまくいかない。

 

私なら、さっさと休職して、休職期間が終わったらさっさと退職するけどなぁ。その前に、毎日自分のプライドをズタズタにされるような飛び込み営業やらテレアポなんて仕事はそもそも選ばない。

 

しかしこの方は諦めない。常に営業成績が一位である先輩について回って、そのノウハウを逐一身につけようと努力するのだ。しかし、ただこの先輩のやり方だけを真似ても成績はついてこない。ついには最下位まで落ち込んでしまった。

 

では一体彼はどのようにして自らの閉塞状況を打開していったのか?細かいノウハウは是非とも本文にあたっていただきたい。要所要所に紹介される教訓じみた言葉も、メモっておいて繰り返し読むことで成果につながる可能性は大いにあると思う。

 

例によって自分なりにごくごく荒っぽく要約してしまえば、自分と他人は違うから、自分の思い込み通りに他人が動くことはまずない。目の前の人が何を望み、どんなことを自分にリクエストしたいかをじっくりと探ることこそが成功への道だということだ。

 

特に現在のようなSNS全盛時代であれば、30分もあれば、会って話すよりもよほど役に立つ情報を手に入れることが可能だ。そうやってリサーチを続ける一方で自分自身のSNSでの発信も工夫する。「どこかいって何か食ったら美味かった」だけではなく、もっとキャッチーで人を楽しませることのできる内容を発信していけば自然にファンが増えていくのだ。事実春明氏に最初に仕事を依頼してきたクライアントは「あなたのSNSのファンだから」というのが理由だった。

 

がーん。

 

私も、読んでくれる人が笑顔になったり、なるほどと頷いてくれるような文章を書きたいと思い努力をしてきたつもりだったが、じゃ、金を払ってまでも私の文章を読みたいというファンまで作れていたか?「いいね」をくれたり、コメントをくれるかたもいるにはいるが、とてもじゃないけど「採算ベース」にまではのっからない数だ。

そうだ、私が今やるべきは、もっともっと数多くの人が読みたいと思ってもらえるような文章を書くことなのだ。

 

仕事上の低評価の腹いせに読んだ一冊だったが、思わぬ気づきをいただいた。というわけで早速文章修行の一環としてとあるサイトに応募し、首尾よく採用されることとなった。なるべく早く文筆業で身を立てて、会社に辞表を叩きつけたい私としてはその日が来るまで精進あるのみである。

考えれば考えるほどわからなくなるけど、一つだけヒントをもらえた一冊 『天皇とは何か』読後感

 

 

独特の「井沢史観」で知られる小説家、井沢元彦氏と伝統的な宗教から新興宗教まで幅広く研究し、さまざまな形で言及している宗教学者島田裕巳氏との対談をまとめた一冊。題名の通り、「天皇」という存在について歴史的、宗教的にアプローチし、今後の天皇並びに天皇制というもののあり方について語り下ろしている。

 

この本の出版年は2013年なので、ここ数年を代表する皇室関連問題である「眞子さま結婚問題」については全く触れられていない。英国のヘンリー王子の王室脱退問題やら、チャールズ皇太子の再婚問題などとより詳細に比較していただきたかったが、まあこの一冊が企画された時点では、眞子さんと小室氏は知り合ったか知り合わないかくらいの状態ではなかったかと思われるので仕方ない。

 

さて、「天皇」とは現行の日本国憲法下では「国民の象徴」と定義されている。「普通」の国民には必ずあるはずの選挙権や、戸籍、名字がなく、私有財産もないが、日本国民にとってはなんとなく「偉い方」だと認知された存在だというのが一般的なイメージであろうと勝手に推測しておく。

 

だがよくよく考えてみればこの「象徴」という言葉で表される存在の実態は曖昧模糊という言葉をそのまま当てはめるしかないほどよくわからない。

 

なぜこんな状態に現在の「天皇」は祭り上げられてしまったのだろう?

 

そこには、武力で世を治める「覇者」よりも徳によって治世する「王者」の方を尊ぶという儒学の影響を受けた武家政権が「天皇」の王者としての徳を利用し、あくまでも天皇に成り代わって政務を担当するという形を取り続けてきた歴史がある。そして、第二次大戦の敗戦国となった日本を平和裡に民主化するにはこの「天皇」の徳を利用すべきだという判断をGHQが下したことにより、象徴天皇制などという摩訶不思議な国体が生じたのだ。極々荒っぽく私なりに天皇の現状を概観してしまうと上記のような理解となる。

では「国民の象徴」って一体どんな存在なんだ?

SF小説の大家小松左京氏の代表作に『日本沈没』という作品がある。この作品は地球規模の地殻変動の影響で日本という国の国土が完全に水没してしまうまでを描く第一部と、その後の日本人たちを描く第二部で完結する物語だ。1973年に出版された第一部で描かれた「日本という国が地球上から物理的に消失してしまう」という衝撃のストーリーがある意味独り歩きをしてしまったのと、谷甲州との共著という形で第二部が出版(2006年)されるまでに30年以上の時を経てしまったため、多くの人の中では日本が沈没してしまった時点で物語が終わってしまっているであろうと推測する。実際に私も二部はまだ読んでいないし、映画やドラマなどで再三取り上げられるのは衝撃の強い第一部のストーリーばかりだ。しかしながら、この作品は実は日本がなくなるという衝撃を描くことが本来の目的ではなく、本当は「国土」を失った後の「日本人」がどのような生き方をしていくのかを描くことだった、というのを小松氏がエッセイにしていたのを読んだ記憶がある。故に当初は題名も『日本沈没』ではなく『日本漂流』にする予定だったとのことだ。

 

この第二部では天皇家はスイスに避難したという設定になっているらしい。何しろ私は作品を読んでいないので、標題の書の中の井沢氏の紹介に従うしかない。で、世界の各地に散らばった日本人たちが「日本」という国を文字通り再建しようとした際に、その旗印として戴こうとするのが「天皇」という存在なのだ。「日本国民の象徴」としての天皇が「実際」に意識されるのは確かにこんな時でしかないだろう。

 

ロシアがウクライナに侵攻したという報道が日々大々的になされているが、例えば、北方四島を起点としてロシアが攻め込んできて、日本が軍事的脅威に晒された場合に、日本人は一体何を精神的な支柱にして戦うのだろうと考えた際に、一番イメージしやすい存在であるように私は思う。家族や愛する人たち、私有財産を守るという現実的な戦闘への意志とは別の次元で、「国を守る」という概念を抱いた時に、比較的早い段階で頭に浮かぶ存在である。まさに「日本国民の象徴」だ。

 

とはいえ、理屈もヘッタクレもなく、戦って死ぬ決意を持てるほどの強大な存在ではない。そんな状態も「象徴」と呼ぶのにふさわしい。この駄文の題名にもした通り、存在に関しての一つのヒントだけは得ることができたが、まだまだ「実体」を掴むのには程遠い状態にあるのが「天皇」という存在である。

逃げるは恥でもないし役に立つ 『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』読後感

 

 

先日、昨年の成績を通知された。評価は最低

 

ちゃんとやるべきことをやって、しかも当初の目標値には届いていないものの、ちゃんと結果も出したのに最低ってことぁねーだろーよ。少なくとも結果を考えれば、下から二番目の評価をもらえるべきだと思ったので、かなり気色ばんで抗議したら、理由として挙げてきたのが「資格として求められるリーダーとしての活動がほとんど見られなかった」というもの。おいおい、目標設定の際に「リーダーとしての活動」なんてのは何も求められなかったし、業務計画書にもそんなことはこれっぽっちも書いてないぜ。今になってそんなことで評価されるのは納得がいかない。受け入れられるかどうかは別にして、かなり怒気を含ませて抗議したし、今回に関してはすんなりと納得はできない。申し訳程度にだが、組合から送られてくるアンケートには思いっきり不満をぶちまけておいた。

 

うつに罹患して以降、こういうことが起こると、私はひたすら落ち込むしかなかったのだが、今回に関しては怒るだけのパワーが出たのだから少しは回復したと喜ぶべきか?もっともつい最近紹介した↓の書によれば怒りに身を任せるほど無駄なことはないのだが。

www.yenotaboo.work

 

というわけで、やりばのない怒りを覚えながらも、少々気持ちを落ち着かせるために、精神安定剤がわりに読んだのが標題の書。溢れ出る責任感と気合と根性で数々の困難を乗り越えてきたが、ある日ポッキリとココロが折れて心身ともににっちもさっちも行かなくなってしまった元自衛官のわび氏の体験談だ。

 

わび氏の体験談、回復までの道のりについては是非とも本文をご一読いただきたい。レベルの差はあれ、仕事を一所懸命にやったにも関わらず、それを認めてもらえずに悔しい思いをした経験がある方は多々いらっしゃるだろうし、そのことで心を病んでしまう方も少なからずいると思う。かくいう私自身が、最高の成績を上げた次の瞬間僻地に島流しにあってうつ病を罹患し、それを今まで引きずった状態なのだから、わび氏の体験談はほぼ全て「そうそう、あるある」と思って読み進めていた。

 

わび氏と私の決定的な違いは「逃げる勇気」の有無だ。わび氏はエリート自衛官という肩書きをあっさりと捨てて転職し、今や充実した生活を送るとともに、私にとっては一番の羨望事項だが、本まで出版している。私は「一つの会社にずっと奉職することが一番」という幼少時より親から刷り込まれた呪縛と、「辞めたら食うにも困る」という不安感とで、結局会社にしがみついて、やりがいなどまるでない仕事を細々とこなす毎日を送っている。流石に去年の評価が最低だということに関しては徹底抗戦するつもりだが、「不満があるなら、辞める?」と問われたら即座に「ええ、納得がいかないから辞めますよ」と言い切るだけの勇気はない。だからこそメンタル医者に通って薬もらって飲んでるし、カウンセリングにも再び通うことになった。

 

辞表を叩きつけるのはカッコいいし、確かに今の閉塞状況からは脱することにはなる。でも、資格も技術もない今の自分がいきなり世に出たところで、単純な肉体労働か、コンビニの店員にでもなるしか生活費を稼ぐ道はない。夢や希望だけでメシは食えないから仕方ない…。

 

そんなことをいつまでも思っているから、いつまで経っても心身ともにスッキリしないんだ。とにかく、こんな状況から逃げても余裕で暮らせるような準備だけはしておこう。そんなわけで、求職サイトのライター募集の一つに応募し、テストライティングを提出することから始めることにした。今の会社にいても今以上のパフォーマンスは発揮できないし、発揮するべく努力するなんて真平ごめんだ。私は私の望む方向に向けて努力したい。少なくとも今の仕事は努力するには値しない仕事だ。

 

今回は状況が状況だっただけに、精神を安定させるというよりは、興奮させる方に作用してしまったが、何しろライティングという「仕事」で食っていくために本気で取り組もうと思わせてくれたのは事実だ。今年一年で、「不満があるならいつでも辞めていいよ」「じゃ、今日で辞めますね」と言い切れるだけの状況を作り上げたいと思う。