脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

どんな分野で活躍する人の足元にも広がっている深くて暗い落とし穴 『イップス 病魔を乗り越えたアスリートたち』読後感

 

 

私は、プロないしはその道のトップレベルで活躍できるほどのアスリートになった経験はない。したがって、この本に書いているような、極度の緊張を強いられる場面なんぞに遭遇したことはないし、したがってそこで致命的なミスを犯すようなことは幸いなことに今まで経験していない。仕事のミスで叱責されたり、自分自身が嫌になった経験だけは山ほどあるが。(笑)

 

かなり以前に、何度も何度も見直したはずの資料に、ごく初歩的な、しかも致命的なミスが見つかったことがあり、それが「イップス的」な体験だということは言えるかもしれない。ケアレスミスは私の最大にして最頻発の弱点ではあるが、あの時は、他の人にも見てもらった上で、何度も見直してようやくミスがないと確認してリリースした瞬間に別の人にミスを指摘されたのだ。なんでもないゴロを捌いて余裕の状態で送球したら大暴投になり、満塁の走者が全て生還してしまう、なんて状態の衝撃を無理矢理私の経験から引っ張り出すとしたら、この出来事しかない。

 

さて、改めて、イップスとはほんの簡単な動作をミスしてしまい、それ以降同じミスを繰り返すとか、同じ動作が全くできなくなってしまうという現象のこと。最初はゴルフでミスショットを繰り返してしまう際に用いられていた概念だったが、野球でも、主に内野手の送球時などに見られる現象ということで一気に「市民権」を得た言葉である。原因についてはいろんな「学説」があるが、実はまだはっきりと究明されたわけではなく、それゆえ、万人に共通した「治療法」も確立されていない。各人が各様に克服していくしかない現象であるし、この現象ゆえに競技自体の継続を諦めてしまった方も少なくないように思う。

 

標題の書は三人のプロ野球選手と二人のプロゴルファーの、発症から克服までのストーリーを克明に描き、最後の章で現時点での最新の研究で分かったことまでを述べている。イップスってどんなもの?実際にイップスが生じた場合にどうしたらいいの?という疑問に対しては現時点ではかなり高度なレベルで「即答」した一冊だと言えよう。単純な興味を充足するにも、実際に悩んでいる人が解決への糸口をつかむにも役立つ内容になっている。

 

紹介された選手のエピソードの中で一番印象的だったのは、ヤクルト黄金時代にいぶし銀的に要所要所で活躍し「野村野球の申し子」とまで言われた土橋勝征氏のものだ。私はヤクルトファンではないので、彼のプレーを具に見ていたわけではないのだが、当時はまだゴールデンタイムに放送されていた巨人戦でのプレーを見ていた限りでは、守備を買われて二塁手に定着し、試合で使われていく中でしぶとい打撃を身に付けたという「ストーリー」を勝手に自分の頭の中で作り上げていたのだが、さにあらず。彼の持ち味は打撃の良さ。もともとは遊撃手だったが、当時のチーム編成上の都合で二塁手を務めることが多く、そこで送球イップスを発症し、一時は外野に回ったこともあったそうだ。「え、土橋選手って外野も守ったことあったんだっけ?」というくらい二塁手としてのイメージしか私の中にはなかった。それも好守で鳴らした二塁手で送球イップスにかかったことがあるなんて雰囲気は微塵も見せていなかった気がする。自分の弱みを隠し通せてしまう「巧さ」までも含めて野村克也氏好みの「プロ野球選手」である所以なのだろう。

 

土橋選手は二人のコーチと共にそれこそ毎日同じ動作を繰り返して練習することで、技術的にイップスを克服していった。技術的な弱点は練習することでなんとかなる場合があるが、ミスによって引き起こされた精神的な傷は練習だけでは癒えない場合がある。土橋選手はミスで腐ってしまわない強い精神の持ち主(時にはコーチに殴られそうになりながらも、自らの考えを曲げようとはしなかったというエピソードも紹介されている)であったことも幸いし、指導したコーチすらが「常人なら音を上げてしまうだろう」とまで言ってしまう単純な送球動作を毎日何千回と繰り返すことで文字通り正確な送球を「身につけた」のである。ただし、前述した通り、イップスの原因についてはまだ不明な点ばかりで、土橋選手が克服したのと同じ方法が他の人全てにも通用するかというとそうでもないようだ。

 

いやはや。スポーツのプロとして生きていくためには文字通り自分とも厳しく戦い続ける必要があるという重い事実を思い知らされてしまった。普通の人には難しいと思えることを簡単にやれる(やれた)からこそプロに選抜されたのに、そこで待っていたのはど素人がやるような単純な反復動作。私ならさっさと諦めてしまうに違いない。実際に今の仕事には完全にやる気を無くしている(苦笑)。

イップスは何もスポーツの世界に限ったことではない。前述した私の小っ恥ずかしいエピソードのように、どんな場面、どんな動作に関しても、他の人からすれば「なんでそんな簡単なことができないの?」と思われることができなくなってしまう危険性は十分にありうる。そしてその克服には「定説」がない。どれだけ時間がかかろうと、労力がかかろうと自分で方法を見つけ、克服していくしかないのだ。その時間も労力も惜しいという場合には職を変えるしか手はないが、今の私のようになんの魅力も感じていない仕事ならともかく、自分で望んで恋焦がれて選んだ仕事でイップスにかかってしまったら、これは相当に苦しいお話だ。そう考えると、身の回りにには実にさまざまな危険性が潜んでいることに気づいてしまう。変に高度な知性を持ってしまった人間ってのは難しい生き物なんだねぇ…