脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

支離鬱々日記71(日本シリーズと貴景勝と通販の生鮮食品)

日本シリーズが開幕したが、いきなり巨人が2連敗した。2000年のON対決ではホークス(当時の親会社はダイエー)が2連勝したのちに、巨人が4連勝したが、昨年、今年に関しては、巨人が勝つというイメージが湧いてこない。

 

菅野が先発した第1戦を落としたのがまず痛い。それも、柳田や外国人選手ではなく、セリーグ球団のファンにはあまり馴染みのない栗原という若手の大爆発によってだ。たとえは悪いが、足軽に大将首を獲られてしまったようなもの。おまけに、頼みの打線は相手のエース千賀がコントロールが定まらずに苦しんでいるときに、よりにもよってクリーンアップが軒並み凡退。千賀のみならず、ホークスというチームそのものも完全に調子づかせてしまった。希望があるとすれば、守護神森から1点奪ったことと、二番手の戸郷が1回だけとはいえすんなり押さえたことくらい。

 

昨日の2戦目は目を覆いたくなる、という言葉がぴったりの惨状を呈した。先発した今村が初回にいきなり2失点、それに対しホークスの先発石川は、坂本を三振に取るなど上々の立ち上がり。二回に3点目を取られた今村から交代したのは前日に好投した戸郷だったが、3回にグラシアルに2ランを被弾。3回までに0−6じゃどうあがいても勝てない。この日もウィーラーが技ありの2ランを放ったのみ。最終スコアは2-13。ステージの違うチーム同士の対戦のようだった。

 

巨人には何か一つ起爆剤が欲しいが、現有戦力を見渡しても、そんな役を担えそうなメンバーは見当たらない。主軸がしっかりしていたからこそ、脇役がのびのび活躍できたことが今年のシーズンの巨人の強さだったのに、主軸が働かないんじゃ、脇役がいかに頑張ってもせいぜい引っ掻き傷くらいを残す程度の効果しか生まない。2年連続4連敗でV逸という屈辱が現実味を帯びてきてしまった。クリーンアップトリオの奮起を期待するしかない。

 

大相撲の11月場所は大関貴景勝の優勝で幕を閉じた。両横綱の初日からの休場に加え、朝乃山、正代の二大関が相次いで途中休場するなど、強敵が軒並みいない状況だったのだから、優勝して当たり前。

そこに立ちはだかったのが、奇跡の復活を遂げた照ノ富士。本割の結びの一番で勝って、一勝のビハインドを跳ね返して優勝決定戦にまで持ち込んだ。照ノ富士の、どん底まで落ちてからの復活劇には心底瞠目させられるが、大関を張る貴景勝の勝負弱さの方が気になった。

 

翔猿戦の黒星は、まあ取りこぼしとして笑って済ませても良いが、千秋楽の本割の一番はいかにもいただけない。あそこはすんなり勝っておかないと、もう一つ上の地位にいくには何か一つ足りない、という状態の大関のまま終わってしまいそうな気がする。なんだかんだ言っても歴代4人のモンゴル人横綱たちには、「ここ一番」の取組には負けない強さがあった。短命に終わった稀勢の里にしても、横綱昇進を決める優勝のかかった一番では、最大の難敵白鵬をねじ伏せた。今の貴景勝に足りないのは、「ここ一番」の強さだ。両横綱、二大関が揃って復活してくるであろう、来年の初場所に今場所の最後の最後で浮かび上がってきた課題をどう克服して臨んでくるのか?二場所連続優勝を果たして、横綱に上がれるかいなかはひとえにそこにかかってくるだろう。まあ、外野が言うまでもなく、本人が一番痛感していることだろうとは思うがね…。照ノ富士大関復帰と、貴景勝の綱取りに注目したい。

 

コロナ禍のおかげで、今年は外出の機会がめっきり減った。たまに外出しても、最低限の用事だけ済ませてそそくさと帰ってくるのが習慣づいてしまった。

 

そんなわけで、大小取り混ぜ、「衝動買い」という行為がめっきりと減り、その分懐的には暖かくなった。いかに今まで無駄な買い物をしてきたのかが、浮き彫りになった格好だ。これを機に、無駄遣いを極力やめていこうと思う。

 

そんな中、TVでふと見かけたのが、「行列のできる倉庫」の話題。鮮魚の仲卸が売り上げ低下対策の一つとして、ドライブスルー方式の小売を始めたら、大人気となって、毎回毎回車の行列ができる騒ぎになっている、という話題だった。で、モノは試しってことで、この仲卸のHPを探して、通販で買ってみることにした。

 

TVで紹介されていたのは鮮魚だけだったが、精肉も青果もやっていた。鮮魚ではマグロの詰め合わせ、精肉では牛肉の煮込み用肉、青果では野菜10種セットってやつを買ってみた。結果的にいうと、全て当たり。値段的にさほど高くない上、品物は非常によかった。合計金額がそれなりであったため、配送料もかからなかったし、注文してから二日後には早々に届いてしまった。

 

ドライブに出かけて、出かけた先の特産品を買い求めて帰ってくるのはそれなりに楽しいのだが、ガソリン代や、高速代、出先での飲食代、金額では計れないが、拘束時間や運転に伴う疲労度などを考え合わせると、ずいぶん高くつく買い物になっていた、というのを改めて認識した。見た目の値段は高くても、様々なことを考え合わせれば決して高くないし、何より目利きが選んだ高品質の食品を手に入れられることが大きい。どうせ外出できないのなら、こうした、今まで知らなかった調達方法を試してみるのもテだ。

 

野球というコンテンツは生き残っていけるのか? 『野球消滅』読後感

 

野球消滅 (新潮新書)

野球消滅 (新潮新書)

  • 作者:中島 大輔
  • 発売日: 2019/08/08
  • メディア: 新書
 

  今シーズンは、久々にプロ野球中継を数多く観た。在宅勤務を終えて、一風呂浴びてビール片手にテレビの前に座ると、ちょうどTV中継が始まる、という一連の流れが日々のルーティーンと化したからだ。

 

思えば、私の親の世代くらいまでは、プロ野球シーズンにおいてはウイークデイの夕刻の茶の間ってのは、こんな光景が一般的だった。ちょうど巨人が9連覇を果たした頃合いで、長嶋、王をはじめとする、巨人のスターたちと、セリーグ他球団のライバルたちの戦いが、世のお父さんたちの胸を熱くしていた頃だ。地上波各局は巨人戦というコンテンツを必死で獲得しようとしていたし、実際に視聴率も高かった。

 

しかしこんな光景は2000年代の初頭には見られなくなっていた。今やゴールデンタイムの地上波にプロ野球が放映されるのは年に数度、そしてその中継の視聴率も10%に満たない。今年観た中継もそのほとんどがBSだった。往年のプロ野球人気を知る者にとっては寂しい限りだ。

 

日本全体の「野球」というスポーツに対しての熱量が低下して久しい。球場での観戦者は逆に増えているらしいから、コアなファンは一定数いる。主にパリーグ各球団の地域密着戦略も奏功しているし、ちょっと前まではイケメンの多さに引っ張られた「カープ女子」なんてのも出現した。スポーツビジネスにおいては、入場者収入、グッズ販売、そして放映権料というのが三つの収入の柱であるが、前述したようなコアなファンたちは球場に足繁く通ったり、グッズを買ったり、球場で飲み食いしたりして、球団の収益を支えている。しかし、長らく球団経営を支えてきた放映権料は激減した。プロ野球に関心はあるものの、球場に行くまでの熱心さはない、という「浮動票」が一気に失われてしまったからだ。

 

では、なぜ、プロ野球は人気を失ってしまったのだろう?いくつか原因は考えられる。標題の書でも記されているが、私は三つ指摘しておきたいと思う。

 

まず第一に、スポーツの多様化。サッカーもあれば、バスケットもプロ化したし、私が一番関心を持っているラグビーも地元開催のW杯での躍進を機に一気に知名度が高まった。知っているスポーツが日本のプロ野球と大相撲だけ、という時代ではなくなったのだ。

 

第二に日本のプロ野球が、最高峰ではなくなったこと。日本で卓越した成績をあげた選手は、FA権を得たら、巨人や阪神といった日本国内の人気球団への移籍を望むのではなく、MLBを目指すことが「一般化」してしまった。国内の球団からは人気、実力ともに備えた選手が脂の乗り切ったところでポンと抜けてしまうし、そうなれば、人気のみならず、実力的にも「最高峰」とは言えなくなってしまう。また、国代表が覇権を争う、WBCやオリンピックなどの国際大会で優勝できなくなったことも影響しているだろう。国内でいかに人気があっても、国際大会で通用しないことが分かった途端に、一気に人気が落ちてしまうことは、W杯でずっと勝てずにいたジャパンの姿を見せつけられた結果、最盛期には国立競技場に抽選でしか入れなかった早明戦のチケットが紙屑同然にまで値下がりしたラグビーファンなら身に染みて分かっているはずだ。

 

第三が、標題の書の著者中島氏が指摘するところの「競技者の二極分化」である。プロを目指そうとする選手は小学校、中学校時代から頭角を現し、高校野球の名門高校に入ることがまず第一の関門となる。そこで、まず、甲子園を目指すような名門校と、公立の普通高校とでは人材に格差が生じる。今や、どの県でも公立の普通高校が甲子園に出場するのは至難の技である。それこそ、出身中学が明らかに地元ではない選手が集まった私立校やら、地元の出身者は多くても、スポーツ推薦制度があったり、勉強する時間よりも部活の時間が倍あるような公立の実業高校ばかりが名を連ねる結果となる。そこで、多くの選手は野球への情熱を失う。

優れた身体能力を買われて、入学した選手たちも、甲子園で勝利して学校の知名度を上げる、という目的の下、勝利至上主義の指導者たちに酷使を強いられる。下手をすると、高校で選手生命が終わってしまうようなことも起こる。それでも残っていけるのがプロだ、という考え方にも一理あるが、そこまでの犠牲を強いられる野球に没頭できるのは余程のもの好きか、体力に恵まれたやつだけだ、と素人考えでは思えてしまう。手っ取り早く有名になるのなら、苦しい思いをして、野球をやるよりはYouTuberにでもなった方が良いと考える現代の中学生の野球に対する歩留まり率は低下していくとしか考えられない。

 

こうした状況を打破する一つの考え方として、中島氏はドミニカの育成システムを紹介している。中学や、高校のレベルではプロを目指すような選手を預かる指導者は勝利を目標にはしない。むしろ、休養をしっかり取らせ、できるだけ、故障しない体づくりを優先する。そして、育成した選手がプロ入りし、一定の成績を残した場合にのみ、報奨金を受け取れる、という制度だ。日本で、同じようなことをやろうとすれば、文部科学省の偉い方々が、眦を釣り上げて猛反対することだろうが、少なくとも、「腕も折れよと投げ抜く闘志」などという自己犠牲の美名の下に酷使される選手を生まない、という効果は認められるだろう。

 

今年は幸か不幸か、夏の甲子園大会は開催されなかった。したがって、炎天下の試合で何百球も投げさせられるような投手はいなかったことになる。今年の高卒選手の選手寿命や成績などのデータをしっかりとって分析することは、今後の高校野球のあり方に対して大きく示唆を与えるものではなかろうか。誰か、専門的な方なり、プロ野球の運営の方なりが研究する準備を進めておいていただきたいものだ。中島氏の指摘した問題点が少しでも解消の方向に向かわない限りは、野球というスポーツの日本における将来は暗いとしか言いようがない。

遠山の金さんの「型」が決まった映画シリーズ中の一作 『はやぶさ奉行』鑑賞記

 

遠山の金さん~はやぶさ奉行~ [VHS]

遠山の金さん~はやぶさ奉行~ [VHS]

  • 発売日: 1995/10/21
  • メディア: VHS
 

 

録り溜め映画鑑賞記シリーズ第7弾は、時代劇の大御所片岡千恵蔵主演で18作製作された「いれずみ判官」シリーズの12作目となる標題の作。1957年制作で、今やほとんど観る方もいないのだろうか、アマゾンの商品紹介ではDVDではなくVHSしか登場しない。

 

ストーリーは、およう、お道の二名が水中で曲芸を披露する見世物小屋で殺人が起こったシーンから始まる。皆が皆、二人がパフォーマンスを繰り広げる水槽を注視するのに夢中になっていて、殺された人物(大工)が倒れるまで殺人に気付かなかったとする設定には少々難あり。押し合いへし合いする群衆の中とはいえ、大工と、殺人者はその群衆を無理やりかき分けて、水槽の真ん前まで進入したのだから。人気の舞台ゆえに、強引に分け入ったやつに文句を言ったり、下手すりゃ掴みかかったっておかしくない状況だ。

いきなり長々とツッコミを入れてしまったが、この作品、こういう、無理を黙認することを観衆に強要するシーンが多すぎる。例えば、主役級の脇役として大川橋蔵扮するねずみ小僧が登場して、大名の行列の前にいきなり飛び出して長口上を述べるシーンがあるが、江戸時代の常識なら、長口上なんか聞く前に問答無用で切り捨てるはず。殺人の黒幕として怪しいと睨んだ「花川戸の虎姫」という武家屋敷に、その翌日からいきなり金さんが植木職人として出入りするようになったりもする。

 

で、この虎姫屋敷を所有する六郷藩は将軍が日光東照宮に参る際の日光仮御殿の普請を任されている。将軍の東照宮詣りで仮御殿とくれば、どうしても「宇都宮釣り天井事件」を思い出してしまう。ちょっとググって調べてみたら、「餃子の町」として有名になる前は、宇都宮という都市は「釣り天井事件」が真っ先に想起される場所だったそうである。私は『伊賀の影丸』を読んで、この、未遂に終わった将軍暗殺事件については知ってはいたのだが、そこまで宇都宮のイメージに関わった事件だとは思わなかった。なお、この事件で謀殺されそうになったのは二代将軍秀忠で、今作の背景となったのは11代家斉から12代家慶の治世であるので、歴史上の事件をそのまま題材にとったものではない。

 

さて、物語は、もう一人大工が殺され、またおようも殺される。六郷藩が何かを隠していることは明々白々だ。そんな訳で、金さんとねずみ小僧は日光へ向かう。ここまでは理解できるが、突っ込みどころが一つ。なんと、お道それにこの作品のヒロインお景、お景の弟仙吉(植木千恵。千恵蔵氏の愛娘で現在は芸能界を引退。ウィキペディアも立っていない状態だから、芸能人生においては大した活躍はしていないんでしょう)までもが日光へ向かうのだ。こいつらは日光に行ったってなんの役にも立たないし、足手まといになるだけなのに…。案の定、あっさり六郷藩に捕らえられてしまうが、途中の経緯を全く語られることなく、あっさりとねずみ小僧に救出される。

 

そしてこの作品の最大のツッコミどころ。一度六郷一味に捕らえられ、大立ち回りを行って殺される寸前に逃走に成功した金さんが、いきなり仮御殿の普請場に雇われてしまうのだ。金さんが捕われる寸前に、とくとその顔を見ていたはずの、大工の差配や役人の接待を行うお半という女性が東照宮の前で「左甚五郎のような名工になれますように」と願掛けしていた、その名も甚五郎という人物をヒョイと普請場に入れてしまうのだ。甚五郎は思いっきり金さんで、変装も何もしていない。お半は「お前さんにはどこかで会わなかったかい?」などと思わせぶりなセリフも吐くし、のちには「大工のタコじゃなくて剣ダコのある甚五郎さん」という旨のセリフもいうので、薄々甚五郎がただの大工ではないということを気づいているようではあるが、この伏線は明確な形では回収されないまま終わった。

 

様々なツッコミどころを満載しながらストーリーは進み、仮御殿に将軍が入り、さあ、天井が落ちちゃうよ〜、ってところで金さんが助けに入り、悪事が露見して悪人一味はひっ捕らえられ、いざお白洲の場へ。

 

今までのストーリーは全て、このお白洲の場で金さんこと遠山金四郎が切る啖呵への前フリだ。シラを切ろうとする悪人たちへ、見せつける遠山桜は、必殺技中の必殺技だ。このパターンは様々に形や設定を変え、いまだに映画、演劇、ドラマに使われ続けている。同じパターンを使い続けるという事に対しては賛否あるだろうが、このパターンがある程度のカタルシスをもたらすことは間違い無いだろう。パターン確立の過程を遡れるというのも古い作品を観る、一つの効用である。

 

 

支離鬱々日記70

コロナ禍は本格的な第三波を迎えてしまったようだ。

 

11/20時点で、東京は新規感染者500人超えを2日続けて達成してしまったし、北海道は300人超、大阪は400人に迫る勢い、愛知も2日連続で200人超、そしてこうした大都市圏の近隣の県でも軒並み過去最大の新規感染者を更新する始末だ。経済を止めないための「GO TOなんちゃら」が見事に感染拡大に一役買ってしまったという結果となった。

 

今までに経験したことのないパンデミック故、いろんなことを手探りで進めていかなければならないという難しさは重々承知の上でいうのだが、「GO TOなんちゃら」はいかにも拙速な策であったように思う。世界各国で、ロックダウン解除後に、再度感染が拡大した事例は数々報告されていたはずだし、日本でも例えば3月の連休時に人手が増したのちに感染が拡大したという経験則があった。にもかかわらず、無理やり需要をひねくり出すような策を講じた結果がこの体たらくだ。北海道なんぞは典型的で、「GO TO TRAVEL」で、旅行にきた他地域の感染者が撒いた種を「GO TO EAT」で道民に広げてしまったという感染モデルが見事に推測されてしまう。

 

「人が来る」事によって成り立っている産業、及びそれに付随する各種の業者を守るために、なるべくゆるい制限でなんとか乗り切ろうとする意欲は理解できるのだが、実態がこの有様では、前回よりも厳しい規制をかけるべきだとすら思えてしまう。小池都知事が「五つの小(+こころづかい)」などというキャッチフレーズを掲げて、なんとか行動の規範を示そうとしているが、こんな策はいかにも「小」手先の「小」細工であり「小」幅な効果しか望めない。「こ」まったモノだ。最後にもう「コ」リゴリで五つの「こ」。シャレにもならない。

 

今日から日本シリーズが始まる。第1戦は巨人菅野、ソフトバンクは千賀の両エースの激突だ。巨人は菅野の登板試合は確実に勝たないといけない。菅野以外の投手はほとんどがシリーズで活躍したイメージがない。戸郷なんか、去年は第3戦のリードした場面で登板して、思いっきり逆転されて、シリーズの流れを完全にソフトバンクのものにしてしまった。中川が間に合ったのは朗報だが、ソフトバンクはクリーンアップが強力なのはもちろん、それ以外にもクライマックスシリーズで大爆発した中村晃やら走塁のスペシャリスト周東やら、「熱男」松田やら気の抜けない打線で臨んでくる。みているだけの私ですら恐怖感を感じる打線だ。

 

巨人もシーズンにおける打線の破壊力なら引けを取らないのだが、去年のシリーズでは坂本、岡本、丸が完璧という言葉がズバリ当てはまるほどに抑え込まれてしまった。この3人の打棒爆発なくしては勝てるはずがない。特に深刻なのは「逆シリーズ男」の汚名を受け続けている丸だろう。一番打点を稼げるはずの五番打者にはぜひ汚名返上を期待したい。

 

投手の話に戻ると、長いイニングを引っ張るのは菅野にだけ任せて、あとの試合は6人くらいの投手をつぎ込む体制ででも臨んだらいかがか?スターター+ローテ投手二人で6回まで、7、8、9回は高梨、中川、デラロサを毎試合投げさせることを「計画」しておく。黄金時代の西武は東尾を上手くロングリリーフで用いて成功していたし、工藤や渡辺久信も場面によっては二番手、三番手で複数試合に登板していた。短期決戦なのだから、普段のローテ投手はもとより、菅野も毎試合スタンバっておくくらいの体制で臨んでもよいと思う。桜井、畠、田口、戸郷あたりは「2回だけ」って決めてやったほうが全力疾走しやすいのではないかと思う。前半は調子よく飛ばしていても終盤スタミナ切れでアタフタなんて光景を少なからず観た。終盤の阪神戦で5人の投手で「完封勝ち」したようなパターンを4試合作れればそれで良いのだ。全試合DH制採用ということも決まったことだし、そのくらい思い切った手を打たないと、不利だという戦前予想を覆せそうにない。それほどソフトバンクは強力だ。

 

プロ野球といえば、ヤクルトの山田、石山が相次いでFA宣言なしで残留を決めたようだ。巨人ファンとしては、積年の課題である「打てる二塁手」というピースにズバリハマる選手獲得の目がなくなったことは残念な限りだが、プロ野球セリーグ全体の均衡を考える意味ではよかったのではないか。今年、最下位の球団から主軸打者と主力の投手を引っこ抜いての優勝ってのはいかにもバツが悪い。ヤクルトは積極的な補強によるチーム強化をもっと進めて欲しいと願っていたところでもある。とはいえ、ライアン小川がFA市場に出てきたら手をあげるではあろうけどね。ソトも欲しいし、場合によっては井納も欲しい。今の救援陣考えたら、増田だって欲しい。巨人ファンは欲張りである。

支離鬱々日記69(夢の話)

昨日の晩の夢。

「俺」は取引先に行く途中だ。結構重要な案件を抱えており、その日を含めた数日のうちに、その案件を解消しなければならないらしい。その日は週の半ばと言ったところか?週末までにはまだ何日か余裕がある。

「俺」はその日の朝に、会社で転勤の内示を受けたばかり。転勤先は今までの俺とは縁もゆかりもない山陰の営業所。おいおい、これじゃ、東北地方の拠点に転勤になった時と状況が一緒じゃねーかよ。そんなところ行きたくねーよ、でも…、辞めたら生活はどうなる?諦めて行くしかないのか?辞表を叩きつけるか?不思議な事に、文章で食って行く、という気持ちはこの瞬間にはなかった。ただ会社を辞めるか、都落ちを受け入れるかという二者択一の質問だけが頭の中を駆け巡っていた。

 

「俺」は電車の中で、ふと、何もかもが嫌になり、今日はこの取引先に行くのをやめようと思い立ち、次の駅で降りた。駅名は御茶ノ水だが、記憶にある御茶ノ水駅とは明らかに風景が違う。実際の駅には存在しない、広い広い地下街があると認識している。東京駅の八重洲地下街に匹敵するような、地下街が、だ。

 

「俺」は、行かなければならない、という気持ちと、もうどうでもいいから今日はサボってしまいたい、という気持ちのせめぎ合いの中、地上と、地下街を行ったり来たりしながらさまよう。エレベーターやエスカレーターなどの昇降機には乗った覚えが全くないのに、いつのまにか地下街にいたし、いつの間にか地上に戻ってたりした。そのうちに、取引先に行くほうに気持ちが固まり出したのだが、その際に自分が半袖ポロシャツ に、短パンというおよそ取引先に行く社会人として似つかわしくない格好をしている事に気づく。しかも歩き回ったせいで、半袖ポロシャツ は汗でびっしょりだ。あまりに気持ち悪いので、ポロシャツ を脱いで上半身裸で歩き回ったのだが、流石に周りの人間からは奇異な姿に映ったらしく、「みろよ、裸の大将が歩いてるぜ」みたいなヤジまで浴びたので、背負っていたリュックを探すと、長袖のTシャツがあったのでそれを着て、そのまま彷徨を続ける。ここに至ってもまだ、取引先に行く決心がつかない。

やらなければいけないという気持ちはあっても、実行する決意にまではいかないという歯痒いような、もどかしいような、焦るような気持ち。そういえば御茶ノ水ってのは某大手予備校がある場所でもある。「私」には大学浪人の経験があるが、その大手予備校とは別の大手予備校に通っていた。で、御茶ノ水には模試とか、その予備校に通う友人と会うためとか、古書店巡りをするためとかで月に数度は訪れていた。そうした際に御茶ノ水駅近辺を歩いていた時の心理状況を思い出したのだろう。ついでに言うと、今年最終のオフィシャル(会社から受験を義務付けられている)なTOEIC試験があと数日に迫っているのに、全然勉強できていないという焦りも加わっていたのだと思う。やらなければならないのに、やる気が起きない。これじゃ最も唾棄すべきマッスルバカの所業と同じじゃねーかよ、おい。「私」が「俺」にツッコむ。

 

だって、こんな状況でやる気なんか出るか?なんとか頑張ろうって、気力を奮い立たせて行った東北の拠点で受けた痛手のことはお前だってわかってるだろ!「俺」が「私」に言い返す。

「私」は、「そこで努力をやめたら負けだ。取引先に行くか行かないかという問題なんかどうでもいいんだが、努力する気持ちを捨てたら、お前は英語もやらないし、取りかかってるはずの小説も完結できないままで終わるぞ。それでもいいのか」と返した。

「俺」は「取引先に行くか行かないかは問題じゃないってどう言うことだよ、おい」って言い返した。「まあ、確かにそんなことはどうでもいいな。これは自分の中に巣食っている問題意識の発露なんだから。やらなければならぬモノがある中で、それに取り掛かることができないというもどかしさのメタファーとなっている心象で…」

 

「私」がツッコみ返す。「馬鹿野郎、そういう解説はこっちの役目だろう!!」

「俺」「んなもん、勝手に決めるな。俺が一人ノリツッコミでなんでも完結させちゃうのは知ってるだろ」

「私」「馬鹿野郎!そっちはそっちで、悩む役割演じてりゃいいんだ。解説とか連想とか、思考はこっちの役割だっつうの」

「僕」「あーあ、喧嘩始めちゃったよ。元々が同じ人格なんだから、どっちが正しいも悪いもないし、役割もへったくれもないんだけどな。結局同じことを考えて行く中での思考のプロセスで色々出てくる選択肢を、脳の中で勝手に擬人化してストーリー的に展開してるだけでしょ。要するに、会社が嫌いなんだけど、安定した収入だけは保証してくれてる会社から飛び出す勇気がなくて、それに対してうじうじ思ってる自分がいて、そういう自分が嫌いで、でも新しく志た道の方もパッとしなくて、煮詰っちゃってるなぁ、って状況を再認識してるだけだろ」

「私」「勝手にまとめるな!!まあ、その通りではあるんだけどさ…」

「俺」「ったく、ただでさえ毎日仕事でストレスだってのに、この上、自分で自分の頭の中がこんがらがらせてりゃ、世話ないわ。酒でも飲まなきゃやってらんねーよ」

「私」「だからって、酒ばっかり飲んでちゃしょうがねーだろ。そんな時間があったら、トレーニングの一つでもやって、いつラグビーチームに復帰する事になってもちゃんと活躍できるようにしとけよ。ついでに言うとな、楽譜を読めるようにするってのも自分で決めたことのはずだろ。そっちも何にもやってねーぞ、コラ」

「僕」「そんなこと言ったって、結局全てのことをサボるの認めちゃってんのも、「自分」でしょ。「自分」でなんとかしなきゃ、結局何物も達成できはしないんだから。マッスルバカのやる気のなさと責任転嫁に腹立てたんでしょ。」

「俺」「私」「僕」「そうだ、こういう憂鬱さを引き起こさせたのは、マッスルバカだ。マッスルバカが全て悪い。あいつの脳みそは腐ってるから、その腐った脳が頭皮まで浸出してきて、毛根が弱ってハゲてんだ。あんなバカと同類になりたくなきゃ、自分で努力して、その成果をあのバカに見せつけてやるしかないんだ!!」

「俺」「もっとも、あのバカのオツムの状況じゃ、例えばTOEICで俺たちが900点取って、それが努力の結果として手にした成果だってことを身をもって示しても気がつけないだろうけどな」

「私」「それには同意する。毛根腐りマッスルバカのことだけに禿同って事にしておくか」

「僕」「あんまり上手くないけど、まあいいか。それよりそろそろ起きる時間みたいだよ」

 

なんてなことで目が覚めた。なんだか、この「取引先に行かなきゃいけないんだけど、行く気がどうしても起きなくて、目的の駅の一つ前で降りて逡巡してる」みたいなシュチュエーションの夢は定期的に見ているような気がする。それだけ、今の状況が閉塞的であるってことのようだ。

嫌いと感じることは戦闘態勢に入っているということ『嫌いなヤツを消す心理術』読後感

 

嫌いなヤツを消す心理術

嫌いなヤツを消す心理術

  • 作者:神岡真司
  • 発売日: 2016/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

再三再四、このブログで罵倒しているが、私の現時点で一番嫌いなヤツは同じ部署のマッスルバカこと、一流大学にスポーツで入って、勉強らしい勉強を全くせず、頭の中身は中学生並のまま卒業し、スポーツで会社に入ったド低能男だ。自分がバカなままのだけなら「所詮、運動『だけ』やってきたヤツなんだからバカで当たり前だ」で済むのだが、自分のやる気のなさを他人のせいにし、あまつさえ、そのやる気のなさを他人にまで感染させてしまうバカだから始末に悪い。おまけに本人は皆にやる気のなさを感染させたことを「リーダーシップの発露だ」とでも感じているようだから、文字通り手に負えない。唯一の取り柄であるスポーツの団体からも早々に見放されてしまった今になっても、何かを学びとろうという姿勢が一切見られないから、こんな奴は雇っておくだけ無駄だと思うのだが、簡単にクビにはできないところが会社経営の難しいところだ。もっとも雇っておくだけ無駄、という言葉は私にも思いっきり当てはまってしまうので、会社経営の難しさの恩恵に預かっているという意味では同じ穴の狢なんだけどね…。

 

というわけで、私は、一般的な人々が嫌いなヤツに対する反応としては王道である、こいつのことを完全無視するという態度をとっている。リモートでの会議などの際に、こいつが発言する際は、わざわざ顔を背ける様をカメラに映してやっているくらいだ。当然、こいつが何を言おうと、聞いてないし、反応も返さない。

 

実はこの態度、実に無駄なことなのだ。無視をするということは意識しているということだし、反応しないと決めて会議に出るということは、こっちが一方的に相手に喧嘩を仕掛けているのと同じ。結局は嫌な感情を引きずって、疲労をためてしまうだけなのだ。

 

では、標題にあるように、嫌いなヤツを消すにはどうしたら良いのか?ごく荒っぽく要約してしまえば、積極的に「嫌う」のではなく、存在を「気にしない」という気持ちを作り上げることである。気持ちを作り上げるための詳しい方法は本文に懇切丁寧に書いてあるので、是非とも参照いただきたい。

 

「嫌う」という感情は相手と自分との差異に気味の悪さや恐怖を感じた時に起こるそうで、そうした場合に、人間は無意識のうちに心身ともに戦闘態勢に入るのだそうだ。気持ちも各所の筋肉も緊張するし、戦闘に必要な物質も分泌される。一日中無意識に戦うための状態を維持していたら、それはそれは疲れるはずだ。著者神岡氏の説明はストンと腑に落ちた。

 

何度も思ったことではあるが、あんなバカにエネルギーを奪われることこそが一番バカらしいことなのだ。バカな人間は風景の一部だ、くらいに達観できることが望ましい。そしてその達観はトレーニングで身につけるしかない。

 

でもどうしても、殺してやりたいくらい嫌なヤツだ、という場合は、殺してしまっても良い。と言ってもいきなり出刃包丁で刺すとか、金属バットで殴ることを推奨しているのではない。あくまでも想像の上でできるだけ、苦しめて殺してやれば良いのだ。具体的にはノートでも紙切れでも良いから、嫌いなやつが、散々に苦しめられる様子を詳細に描写するのである。ただしこれは最終手段。本当に、それこそ殺したいと思う相手にのみ適用する方法だそうだ。大体、苦しいと思う状況をノートに半分も書き綴れば、大抵の場合は疲れて、それ以上は筆が進まなくなると思う。走り込みが苦しいのと一緒だ。そんな苦しい思いをするなら、と思い切れればしめたモノだし、苦しさを上回る憎さがあるのなら、満足するまで続ければ良い。私の場合はせいぜいこのブログで罵倒すれば、おさまってしまうくらいの嫌悪感でしかない。その割に繰り返し言ってるな、というツッコミは甘んじて受けておく。ここでの罵倒はとりあえずの応急処置であって、本当の怒りはまだおさまっていないというのは事実だ。少なくともこのマッスルバカと一緒に酒を飲みたいとは今のところは思えていないので、まあ、皆と一緒の場にいるのは仕方ないか、と思えるくらいになるまでは、罵倒し続ける事にする(笑)。

支離鬱々日記68(コロナ禍アレコレ)

IOCのバッハ会長が来日した。来夏の東京オリンピックの開催可否についての方針確認が目的らしい。

 

私自身は、せっかく女子7人制ラグビー決勝トーナメントのチケットに当選したこともあり、やってほしいとの希望の方が強い。ただし、昨今の世界全体の状況を考えると、事実上開催は難しいだろう。日本にしてからが、「GO TOなんちゃら」で外出を促進した途端に、第二波だか、第三波だかの感染拡大に繋がってしまった。パリを始め、世界各地でも感染の再拡大、再々拡大が広がっている。

 

こんな状態では、いかに水際でいろんな対策を取ったとしても、感染者の洗い出しなどできる訳が無い。これからの数ヶ月で、よほど画期的な感染者識別システムを作り上げるか、実効性の高いワクチンでも開発されない限りは、平和の祭典もスポーツの最高峰もヘッタクレもない。仮に開催して、世界中から感染者が集まって、結果として日本に甚大で深刻な被害が広がってしまったら、一体誰が責任を取るのか?

 

まあ、こんな重大な問題に軽々に結論を出せないだろうから、当面は感染状況をウォッチしながら、必要と思われる対策を検討していく、という方針を表明するくらいしかやることはないだろう。この騒ぎで、東京の次に予定されているパリの開催準備もストップしているようだから、いっそのこと2024年を正式な東京五輪の開催年にしてしまったらどうか?2020開催のオリンピックに向けて競技人生のピークを持ってきていた選手諸氏の無念さは想像するにあまりあるが、それだけ深刻な事態なのだと思っていただくしかない。

 

今年に関しては、ラグビーも歌も「実戦」は諦めた。ラグビーは密になること前提のスポーツだし、コロナ鈍りで体重も増えたし、筋力も落ちた。少なくとも試合に出て楽しいと感じられるだけの準備ができていない。中途半端な状態で出ても怪我の危険性が高まるだけ。歌に関しても、喘息を抑える薬の副作用で、声が枯れてしまって発声どころの騒ぎではない。うまく準備できていないまま、何かを表現しようとしても絶対に後悔が残るだけ。声の問題以外にも、集団での練習に関しては大量に飛び交う飛沫を吸い込んでしまう危険性もある。最高権力者様の厳命により、どこの誰ともしれぬ人間の飛沫が残っているであろう、カラオケボックスにすらいけない状態なのだ。結局、憂さ晴らしは酒だけという事になり、ますます不健康さを拗らす結果となっている。いやはや。せいぜいスピンバイクでも漕ぐ事にする。

 

先日、久しぶりに「それなりの」買い物をするためにデパートに出かけた。通販で大抵のモノが手に入る昨今だが、すぐに必要なモノであったのと、やはり現物を目にして手にとって確認すべき類のものであったためだ。

 

買い物を終えて、下りエスカレーターに乗ろうとした際に、上りエスカレーターを乳母車を抱えて上ってきた親子連れが1組。幼児が少々グズったため、一旦乗降口でその親子は立ち止まった。その際に母親のマフラーが落ち、母親はその事に気づかなかった。ちょど近くにいた私は、拾って手渡してしまったのだが、後からよくよく考えると、このご時世で、素手で拾って手渡してしまうことは却って危険な行為だったのかもしれないと、少々申し訳ない気持ちになってしまった。ちょうどその親子のすぐ後ろにいた若い女性が「あの、マフラー落ちてますよ」と声をかけた直後でもあった。このご時世なら、ああした声がけだけに留めておくほうが親切だったのかもしれない。結果的に「小さな親切大きなお世話」どころか、「親切のつもりで却って迷惑」な行為をしてしまった可能性がある。モノ一つ手渡すにも、ことほど左様に気を使わねばならぬ…。確かに世界は新しい局面を迎えているようだ。