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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

遠山の金さんの「型」が決まった映画シリーズ中の一作 『はやぶさ奉行』鑑賞記

 

遠山の金さん~はやぶさ奉行~ [VHS]

遠山の金さん~はやぶさ奉行~ [VHS]

  • 発売日: 1995/10/21
  • メディア: VHS
 

 

録り溜め映画鑑賞記シリーズ第7弾は、時代劇の大御所片岡千恵蔵主演で18作製作された「いれずみ判官」シリーズの12作目となる標題の作。1957年制作で、今やほとんど観る方もいないのだろうか、アマゾンの商品紹介ではDVDではなくVHSしか登場しない。

 

ストーリーは、およう、お道の二名が水中で曲芸を披露する見世物小屋で殺人が起こったシーンから始まる。皆が皆、二人がパフォーマンスを繰り広げる水槽を注視するのに夢中になっていて、殺された人物(大工)が倒れるまで殺人に気付かなかったとする設定には少々難あり。押し合いへし合いする群衆の中とはいえ、大工と、殺人者はその群衆を無理やりかき分けて、水槽の真ん前まで進入したのだから。人気の舞台ゆえに、強引に分け入ったやつに文句を言ったり、下手すりゃ掴みかかったっておかしくない状況だ。

いきなり長々とツッコミを入れてしまったが、この作品、こういう、無理を黙認することを観衆に強要するシーンが多すぎる。例えば、主役級の脇役として大川橋蔵扮するねずみ小僧が登場して、大名の行列の前にいきなり飛び出して長口上を述べるシーンがあるが、江戸時代の常識なら、長口上なんか聞く前に問答無用で切り捨てるはず。殺人の黒幕として怪しいと睨んだ「花川戸の虎姫」という武家屋敷に、その翌日からいきなり金さんが植木職人として出入りするようになったりもする。

 

で、この虎姫屋敷を所有する六郷藩は将軍が日光東照宮に参る際の日光仮御殿の普請を任されている。将軍の東照宮詣りで仮御殿とくれば、どうしても「宇都宮釣り天井事件」を思い出してしまう。ちょっとググって調べてみたら、「餃子の町」として有名になる前は、宇都宮という都市は「釣り天井事件」が真っ先に想起される場所だったそうである。私は『伊賀の影丸』を読んで、この、未遂に終わった将軍暗殺事件については知ってはいたのだが、そこまで宇都宮のイメージに関わった事件だとは思わなかった。なお、この事件で謀殺されそうになったのは二代将軍秀忠で、今作の背景となったのは11代家斉から12代家慶の治世であるので、歴史上の事件をそのまま題材にとったものではない。

 

さて、物語は、もう一人大工が殺され、またおようも殺される。六郷藩が何かを隠していることは明々白々だ。そんな訳で、金さんとねずみ小僧は日光へ向かう。ここまでは理解できるが、突っ込みどころが一つ。なんと、お道それにこの作品のヒロインお景、お景の弟仙吉(植木千恵。千恵蔵氏の愛娘で現在は芸能界を引退。ウィキペディアも立っていない状態だから、芸能人生においては大した活躍はしていないんでしょう)までもが日光へ向かうのだ。こいつらは日光に行ったってなんの役にも立たないし、足手まといになるだけなのに…。案の定、あっさり六郷藩に捕らえられてしまうが、途中の経緯を全く語られることなく、あっさりとねずみ小僧に救出される。

 

そしてこの作品の最大のツッコミどころ。一度六郷一味に捕らえられ、大立ち回りを行って殺される寸前に逃走に成功した金さんが、いきなり仮御殿の普請場に雇われてしまうのだ。金さんが捕われる寸前に、とくとその顔を見ていたはずの、大工の差配や役人の接待を行うお半という女性が東照宮の前で「左甚五郎のような名工になれますように」と願掛けしていた、その名も甚五郎という人物をヒョイと普請場に入れてしまうのだ。甚五郎は思いっきり金さんで、変装も何もしていない。お半は「お前さんにはどこかで会わなかったかい?」などと思わせぶりなセリフも吐くし、のちには「大工のタコじゃなくて剣ダコのある甚五郎さん」という旨のセリフもいうので、薄々甚五郎がただの大工ではないということを気づいているようではあるが、この伏線は明確な形では回収されないまま終わった。

 

様々なツッコミどころを満載しながらストーリーは進み、仮御殿に将軍が入り、さあ、天井が落ちちゃうよ〜、ってところで金さんが助けに入り、悪事が露見して悪人一味はひっ捕らえられ、いざお白洲の場へ。

 

今までのストーリーは全て、このお白洲の場で金さんこと遠山金四郎が切る啖呵への前フリだ。シラを切ろうとする悪人たちへ、見せつける遠山桜は、必殺技中の必殺技だ。このパターンは様々に形や設定を変え、いまだに映画、演劇、ドラマに使われ続けている。同じパターンを使い続けるという事に対しては賛否あるだろうが、このパターンがある程度のカタルシスをもたらすことは間違い無いだろう。パターン確立の過程を遡れるというのも古い作品を観る、一つの効用である。