長い題名だな、しかし。ブログのタイトルにするのに制限字数超えないかと心配した。
などという薄っぺらな感想はさておき、会社生活から逃避している今現在、私にとって一番のストレスとなっているのは母親との関係である。有料老人ホームに入居しているため、せいぜい週に1回しか会わないのだが、何しろあっている時間は常にストレスフルだ。老人ホームでの日々の出来事を語っているくらいならいいのだが、すぐに「私は母親として息子のお前のことを精一杯心配して生きている」アピールが始まり、年端もいかない幼児に接するように説教を垂れたがる。私に言わせれば、私のためというよりは、私に対して「役に立つことを言った」という安心感を自分が得たいがための行為だ。しかもこっちの意向など全く考えずに、自分が満足するまでとにかく同じ言葉を繰り返す。最近はこちらも慣れたもんで母親が説教くさいことを言い始めたら即「んなこたぁー言われなくたってわかってんだよ。わかってることをいちいち繰り返すんじゃねーよ」とピシャリと言い放って、それ以上は話させないようにしている。でもこういうことを繰り返していては母親のアタマの状態には良くないのではないかという疑問は常に生じる。自分自身のココロの状態が良くない中で、こうしたストレスは普段にも増して重荷となる。結果として、母親との時間は常にストレスの元となるのだ。
そんな中で毎日のルーティーン、Kindleでその時々の気になっているワードで検索をかけた際にリストアップされたのが標題の書。首尾よくKindle Unlimitedにもなっていたので、即DLして読んでみた。
内容は、認知行動療法そのもの。今までのネガティブな出来事を、その出来事の際に生じた感情に囚われることなく客観的に捉え直すことを勧めている。ただし、捉え直そうにも、自分の中には、自分を否定する存在としての「毒親」が必ず存在するので、その「毒親」から自由になることが肝要だというのが主旨。どんな方法でココロの中の「毒親」を追い出すかについての具体的な手法については是非とも本文に当たっていただきたい。
この本を読んだ直後、AmazonPrimeにちょうど↓のドラマがラインアップされた。
このドラマ、リアルタイムでも観ており、なかなかの佳作という感想を持っていたため、改めて観直したのだが、まさに「毒親」とその被害者を描いたドラマだった。主人公の観山寿一は能の宗家の嫡男。幼い頃から父親の人間国宝観山寿三郎に厳しい稽古をつけられてきたが、ついに寿三郎からは能に関しては「認めて」もらえず、思春期に家を飛び出しプロレスラーとなった。このプロレスラーという職を選んだのも父寿三郎がプロレスファンだったから。寿三郎は病に倒れ、その介護のために家に戻った寿一は、今度は寿三郎のさまざまなわがままに振り回されることとなる。ここでも精一杯に尽くしているのにまた「認めて」もらえない。
寿一がブチギレて寿三郎の介護を投げ出すと宣言したシーンを観ている途中で、私と同じではないか、という思いがピンと閃いた。
私は結局母親に「認めて」もらっていないからイラついているのだ。学生時代はいくらいい成績を上げても「一番をとったわけじゃない、上には上がいる」と言われたし、社会人になってからも「東大に行った同級生は年収二千万だ」「ぼやぼやしてたら出世できない」と尻を叩かれた。挙げ句の果ては、私を「困ったことがあれば親に縋り付いてくる存在」だと幼児扱いしてオレオレ詐欺に2度も引っかかった。今だって何かにつけては説教したがる。全て私を一人の大人として「認めて」いないからこその所業。そのことに怒りを覚えていたのだ。
このことに気づき、その上で母親なんていうちっぽけな存在に「認めて」もらえないだけで腹立ててりゃ世話ねーわ、という気持ちにもなった。これじゃ、確かにイヤイヤしているガキと一緒じゃねーか、あはははは。今となっても母親の影響は無視できないとはいえ、私はもう独立した大人なんだし、母は幼児がえりしてるんだ。こっちがガキに接するように親に接すればいい。そう思うと少し心が軽くなった。
本とドラマの偶然のシンクロニシティーで、思わぬ気づきをもらった。とはいえ、まだ、母へのイラつきを完全に消し去るまでには至らないだろうから、気の持ち方への模索は続く。