脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

理解の上で人格を尊重すべき、という主張はわかるが… 『マンガでわかる!認知症の人が見ている世界』読後感

 

 

私の母は認知症で要介護1と診断された。歩く足取りはおぼつかないし、日常の動作の一つ一つが鈍い。つい数年前まで、水泳や舞踊を嗜み、旅行にもガンガン出掛けていたことを考え合わせると、ここ数年の衰えぶりは目を覆わんばかりだ。

 

私が郷里に引っ込むという決断をくだしたのも、複数の親戚から相次いで母の急激な衰えを指摘されたことが一つの要因だ。その際に、実家を改築して、同居するという選択肢もあり得たのだが、これは母の方が拒否した。実家の近所に新居を建てて私たち夫婦はそこに住んでいるのだが、実家・新居どちらに住むにせよ3人での暮らしは想定できていない。したがって現在は介護老人ホームに入居している。特殊詐欺に二度も引っかかって、警察から「一人にしておくのが危険」と判断されたためである。

 

そのため、母の日常の言動行動に煩わされることはほぼないのだが、実家の整理や、さまざまな手続きの際には付き添わねばならず、その時間は常にイライラさせられる。

 

動作は鈍いが、口だけはまだ達者で、のべつ幕なしに喋り倒す。私のことは幼児扱いでちょっとした動作にもいちいち口出ししてあれやこれやといらぬ心配をする。いちいち反応するのも面倒なので喋りたいだけ喋らせておくと、今度は聞いていないと言って怒る。

 

今の若者風に「うぜーこと、パネーよ。ああ、うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!!!」とシャウトしたくなる。自分の身の回りのことすらおぼつかねーのに、50を過ぎた息子の一挙手一投足に口出ししてくんじゃねーよ、というのが私が母と一緒にいる時の心情だ。

 

こういう接し方が悪いことはわかっている。母は母なりの合理的な判断と、私への愛情に基づいて言葉を発し、行動しているのであって、こちらの方がその「合理性」と「愛情」を察して、認めてあげた上で接するのが理想的だ、というこの本の主張はよく理解できたし、重々承知もしていた。

 

しかし、だ。言うは易く行うは難し。こちらも聖人君子ではないし、自分自身の状況もシンドイ中で、母の細かい、クドい要求に応えるのは至難の技だ。母が傷つくのはわかっていながらも、ついつい言葉が荒くなってしまう。母も私の荒い言葉に対して「すぐそうやって怒って。そういうふうにすぐ怒るから電話だってできなかったんだ」と特殊詐欺にあったことを私のせいにするような言葉を返してくる。そうなると、こっちも「積年の恨み」ってやつを持ち出さざるを得ない。「子供は親の言うことには従うものだ」という強引な論理で、どれだけ不愉快な思いをさせられてきたかを思いっきり吐き出すことになる。そうすると最後には「いいよ、私はもうすぐに死ぬんだから」と開き直る。そういう態度が気に入らないので「そういうことは死んでから言え」と返してしばらくお互いに怒りを秘めたまま無言。親子だけにお互い遠慮がないから、それこそ血を流すような傷つけ合いの応酬だ。

 

まあ、最近は皮肉にも母の衰えのおかげで、無言の時間の後にベットから転げ落ちてみたり、今までの怒りをケロッと忘れて頓珍漢な話をいきなり始めたりするので、ついつい笑ってしまって場が和んだりするのだが(笑)。

 

巷には毒親という、もっと極端に子供の人権を侵害する存在もいるようで、そういう人々に比べればまだマシなのかもしれないが、私にとって大きなストレス源の一つが母親であることは間違いない。母が無償の愛を注いできてくれたことには大いに感謝しているが、同時に独善的な価値観をずっと押し付け続け、結果として私の人生に悪い影響を与えているという側面も否定し得ない。母は私にとって決して理想的な存在ではなかった。私だって母にとっては理想の息子ではなかったと思うが(笑)。

 

私が、ある意味「親」のような達観した気持ちになれるまで、お互いの古傷に塩をすり込むような関係は続くのだろう。そういうわけで、私に平穏な日々が訪れるのはまだまだ先のお話のようだ。やれやれ。