私の大学時代、農村の嫁不足が深刻化し、中国から女性を引っ張ってきて、農家の後継者の嫁に据えることが「流行」した時期があった。私は社会学の一分野としてカテゴライズされていた専攻に所属していたので、当時はそうした中国人妻と、日本の農村の旧弊なしきたり、人情といったものとの衝突およびその解消といったムーブメントに大いに興味をそそられていたし、同じ専攻の仲間たちとも話し合ったりもした。そんなある日の雑談時にとある院生の先輩からは苦笑混じりに「いや、農村の嫁不足も深刻ですが、僕ら大学院卒業者の嫁不足だって深刻ですよ。」という言葉が出た。
当時は、「まあ、大学院に進んじゃうと研究が忙しくて、出会いがないんだろうな」くらいにしか思わなかったが、実はもっと現実的な問題が水面下に潜んでいた。実は院卒者はなかなか「食えない」のだ。
よほど優秀でない限り、准教授や教授などの「生活が安定した」職業につくことはできないし、仮にそうした教育者、研究者としての職を得るにしても長い間、ほぼ無給の助教という立場を経なければならない。で、こうした時期はいわゆる「結婚適齢期」と重なる。
学問の場での研究者という立場を諦めたとしても、特に文系の場合、一般企業には院卒であることが逆にネックとなって就職しにくいというのが実情のようだ。たしかに、一般のメーカーなどに文系の院卒者が新卒で入ってくる例は非常にまれだ。また、私が就活していた頃某シンクタンクなどは「院卒でないと一人前の仕事は任せてもらえない」などという噂が流れたことがあったし、もちろんそういう職場も存在はするのだろうが、こちらも教授などと同様狭き門だ。
それではと、いままで培ってきた「学力」を活かして学習塾などに就職してみても、今度は「教え方が悪い」という評価を生徒の方から下されてしまう例が増えているそうだ。学習塾は大学院のように、体系的、専門的な知識を身に付けることを目的とするのではなく、受験突破という目的に絞った指導が求められるため、受験突破のテクニックを効率よく教える「プロ」が必要とされるが、いかに地頭はよくても「教える」テクニックを持っていない講師は生徒から否応なくNOを突きつけられるというわけだ。
そんなこんなで、高学歴が足かせとなって、転落人生を歩んだ人の生々しい実話がいくつか紹介されているのが標題の書。
私自身も、一時は単にモラトリアムの時間を伸ばすためだけに大学院進学を考えた時期もあったのだが、「自分は大学院を出て一体何がしたいのだろう?」と考えたときに、何も答えが出てこなかったので、その道は断念した。実際は大学院に進めるような優秀な成績をとっていなかったからだが(笑)。
筆者の阿部恭子氏は主に「加害者家族」のケアに携わってきた人物。本人たちには罪がないにも関わらず、身内に犯罪者がいると言うだけで、社会から爪弾きにされ厳しい生活を強いられ、しかもその状態から脱却する手立てがほとんどないという絶望的な人々だ。「高学歴」という武器があるからいざとなりゃなんとかできるだろうと思われがちな高学歴難民たちも、数が少ないからなかなか社会から注目を浴びることがないと言う点では共通しており、なかなか苦境からの脱却が難しい。
せっかく大学院まで進める賢さがある人材たちなのだから、なんとかその頭脳を活かす工夫はないものだろうか。短兵急に結果だけを求められ、こうした人材たちを自由に研究に打ち込ませなることができない余裕のない社会からは独創的な発見は生まれてこないのではないかと思う。「普通」に生きている人々からは思いもつかないような発想や発明が出てくるのが現代の「文人墨客」たる高学歴な人々の主な役割だ。同じ文化的なことに金を使うのなら万博を開くよりも、こうした「文人墨客」たちを手厚く保護する政策の方がよほど役にたつと思うのだが、いかがだろうか?