脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

生きていれば日本を変えたかもしれない人物の評伝 『夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯』読後感

 

 

 

だいぶ前に買って積ん読、それも上下巻別々に本棚に乱雑に突っ込んだもんで、存在すら忘れかけていた作品。引っ越しに伴う「発掘」活動で発見され、無事上下巻揃ってから1年してようやく読んだ。

 

読み始めて数ページでいきなり「主人公」の近衛文麿公が死んでしまった。まあ、こういう評伝の類に関しては、冒頭、いきなり主人公の臨終の場面から始まって、それから、近習の誰かの回想、みたいな形で物語が展開していくことも少なからずあることなので気にせず読み進めていったのだが、どうも様子がおかしい。で、一旦本を閉じてよくよく題名を見返してみたら「近衛文隆の生涯」の文字があるではないか!

 

そもそも、私は父君の近衛文麿公に関しても、陸軍の暴走を止められずに、日中戦争を招き、最終的に太平洋戦争を引き起こした政治的に無力なお公家さんという、高校の教科書に出てきたホンの数行程度の知識しかなかった。したがって、その方のご子息近衛文隆氏に関しては、この本を読んで初めて知ったくらいだ。もっともこれは日本の近現代史を専門としている学者でもなければ無理からぬお話。歴史上に何か足跡を残す前に、抑留されていたソ連で亡くなっていた方だからだ。歴史の闇に埋もれてしまった人物なのである。

 

埋もれてしまった方であるが故に、この方の評伝をまとめるに際しては、著者西木正明氏は相当なご苦労をされたことだろう。しかし、この近衛文隆氏はどれほどの苦労があろうとも、世に知らしめたくなる魅力を備えた方であるのは事実。

 

近衛文隆氏は近衛文麿公の長男として1915年に誕生。下に弟一人、妹二人がいる。なお下の妹の温子さんはのちの総理大臣細川護煕氏の母にあたる方だ。近衛家藤原北家嫡流という名門で文麿公はのちに首相に就任するなど当時の政治家としてはトップランナー。そんな家に生まれた嫡男は、何不自由なくすくすくと育ち、典型的なボンボンとして青年期を迎える。幼い時からゴルフに親しみ、高校時代にはプロゴルファーと互角に戦えるほどの腕前となっていた。

 

大学進学時には、米の名門プリンストン大学に進み、親の金で派手に遊んで年上の女性と浮き名を流したり、ジャーナリストや若手の官僚などと飲み友達になったりした。得意のゴルフを活かして、ゴルフ部の主将になったりもした。

 

ここまでの生い立ちを読み、私は泉谷しげる氏が「育ちのいい不良」と形容した、麻生太郎氏の姿が浮かんで仕方なかった。麻生氏も、親戚には数々の高名な政治家や公家、幕末の志士などが名を連ねる名家で、留学経験もあり、それなりに余裕のある家庭でなければ競技することが叶わないライフル射撃の選手としてオリンピックにまで出場した経験を持つ。ただ、少なくとも西木氏の文面からは、麻生氏のような「ガラの悪さ」みたいなものが伝わってこない。あくまでもスマートな「貴公子」の姿が浮かんでくるのだ。

 

さて、文隆氏はプリンストンでは肝心の学業は全くのお留守になったようで(こういうところはガラの悪さかな? 笑)、落第寸前のところで、父から帰国命令を受け、父の職務である総理大臣の秘書の一人として働くこととなる。ここで、文麿公は日中の戦争を全く食い止めようとしなかったわけではなく、水面下でさまざまな仕掛けを行なってなんとか戦争を食い止めようとはしたものの、陸軍の妨害にあって、ついに果たせなかったことが語られる。結果として「軍の暴走を止められなかった」のは事実ではあるが、実は文麿公は文麿公なりに精一杯手を尽くしていたのだということを目の当たりにして自分の浅学を大いに恥じた。日本国を統べる天皇の補佐役として、国難を回避するために懸命に頑張ったお公家さんだったのだ。

 

残念ながら志を果たせず、さらに軍部からの圧力で総理大臣の職を辞さざるを得なくなった文麿公は、秘書官として、日中関係の危うさを知った文隆氏に、東亜同文書院の講師として中国にわたり、日中関係を改善するため蒋介石と連絡を取り合う裏工作を命じる。

 

軍部の監視も厳しく、なかなか行動を起こせない文隆氏は上海の夜の街を回遊しながらさまざまな人脈を築いていく。そしてその中で中国政府要人の娘であるピンルーと知り合い、生涯でもっとも激しい恋に落ちる。ピンルーのためにも日本のためにも日中関係の改善に奔走する文隆氏だったが、やがてこのことが軍にバれ、「精神を叩き直す」ために一兵卒として軍に放り込まれ、中ソ国境近くの戦線に送られることとなる。

 

ここで文隆氏は苦手の「お勉強」に取り組み、どんどん出世していく。もはや当初意図したような日中関係の修復は不可能ではあるが、ソ連の進出をなんとか防ぎ、国益に貢献することを第一の目的とすることとなる。

 

しかし、この努力も虚しく、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連の軍隊に捕まり、捕虜としてソ連各地の収容所を転々とすることとなる。

 

その間、日本は敗戦で連合国に全面降伏。国としてのどん底を味わった後、復活の歩みを続けていく。その過程で、日本とソ連の関係も少しずつ改善し、やがて捕虜となっていた日本兵も徐々に解放されていくこととなった。

 

ここでまた、文隆氏の「出自」が彼の運命に大きく影響を及ぼす。早期送還という飴をぶら下げられた上で、日本に社会主義を広め、親ソの機運を高めるための役割を担うことを求められたのだ。文隆氏は「日本国を統べる立場にあった人間が、日本人の考え方を変えてしまうような動きに協力できるか」とこの話を突っぱねる。こういう、ノーブレス・オブリージュの手本のような行動を、今の世の、同じような育ちの現役政治家さんにはできるんだろうか?そんなことを考えてしまった。自分の利権確保に汲々としている現役政治家さんには無理だろうな、と即時に結論づけてしまえるほどだったけどね。

 

で、最後までソ連の要求を突っぱね続けたおかげで、文隆氏は不審で唐突な死を迎えてしまうのだ。少々オーバーに言えば、自由主義社会主義の間の争いの大きなうねりに飲み込まれてそのまま、一気に歴史の闇の中に埋没させられてしまったのだ。

 

文隆氏が生きて帰還し、戦後に政治家として活躍していたら、果たしてどんな日本が出現しただろうか?華やかな社交界から、およそ人間扱いされない捕囚としての生活まで経験し、酒も強けりゃ、ゴルフも上手く、激しい恋愛も経験済みで、アメリカには知人友人が多数いる。遠山の金さんみたいな、人々の暮らしに寄り添える政治家になったのではないだろうか。そんな人が一人でもいれば、今の日本の姿は変わっていたのではないかと、見果てぬ夢を見てみたりした。

 

題名になった「夢顔さん」とは誰を指す言葉なのか?この言葉の謎解きも、この物語にミステリー的な要素を持たせる大きな効果となっている。収容所生活という、情報からもっとも隔絶された世界にいたことによる、悲しい「天然ボケ」。例えソ連から帰還することができていたとしても、文隆氏が夢想していたような理想的な社会は日本には存在してはいなかったのだ。

 

この「夢顔さん」のヒントはちょいちょい文中には出てくるので、どれがヒントなのかを推理しながら読むのも一興であると思う。