女性に対しては口説くのが「礼儀」とされている国、イタリア。この国の歴史を形作ってきた錚々たる面々の「業績」を集めたのが標題の一冊。何しろ取り上げられているのが、カエサルにロドリゴ・ボルジア、大芸術家にして科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチに画家のカラヴァッジョ、そして世界的女ったらしとして名高いカサノヴァ、音楽家ジャコモ・プッチーニときて、最後がムッソリーニ。下半身関係だけでなく、芸術や政治の分野で名を馳せた方々ばかり。女癖の方だけが強調されるカサノヴァにしてからが、高い教養と見識を持ち、複雑怪奇なヨーロッパを颯爽と闊歩した外交官として評価されてもいるのだ。
なんというか、彼らを思い浮かべただけで、女にモテるの当たり前、って気がしてきてしまうから不思議だ。同じ愛を語るにしても、おそらくかっこいいセリフ吐いて、ワインの香りでも楽しみながらおしゃれに関係を深めていくってイメージをどうしても思い浮かべてしまう。
日本の場合、例えば秀吉なんかはそれこそ手当たり次第に女に手をつけたようなイメージがあるが、後世の描かれ方の影響か、人物像としては、有能ではあっても「カッコいい」というイメージは持ちにくい、文字通りのヒヒ爺として嫌がる女を金と権力で無理やりモノにしていくというシーンばかりが想起されてなんだかしみったれた感じがする。
なんのなんの、日本にだって、高貴な出身で当時としては一流の教養を持ち、数々の浮名を流した光源氏という存在がいるではないか、と思ってはみたが、彼はモデルがいるとはいえ、架空の人物だし、「千人斬り」を達成したと言われる世之介もまた創作上の人物だ。武士政権の祖と言われる源頼朝なんぞは最終的に女房に政権まで盗られてしまった。徳川政権では11代将軍家斉が大量のタネを世に撒いたが、政治家としては目立った業績を残せていない。
ムッソリーニが政治だけでなく色事にも精を出していた頃、東條英機や石原莞爾は一体何をしていたのだろうか?おそらく色ごとにうつつを抜かしている暇なんぞ無かったのではなかろうか?彼らに共通しているのは国を「敗戦」に導いたということだけだ。
こうした「歴史」は今の世にまで影響を及ぼしている。イタリアはちょっと前までベルルスコーニなんていう、あぶらぎった方が首相の座についていたが、日本では色恋沙汰で騒がれた首相は田中角栄氏以来出現していない。宇野宗佑なんて人物が芸者の指三本握って1ヶ月の手当てを値切ったのが祟って超短命に終わったのが話題になったくらいだ。
政治に限ったお話ではなく、日本の場合は色恋と「真面目さ」は相反するというイメージを持たれてしまうものののようだ。ましてや、最近はコンプライアンス意識の高まりなんてやつで、異性スキャンダルは政治家にとっては命取りになりかねない。したがって、「学歴エリート」の皆さんは概して「恋愛」は苦手のようだ。
イタリアも流石にベルルスコーニ氏に関しては「やりすぎ」という批判が出て失脚したものの、色恋への旺盛さとインテリジェンスの高さは相反したアクションではないという認識が前提。題名にも挙げたが、女の一人も惹きつける魅力のないやつが万人に支持されるわけがないというのが「常識」だろう。
どっちがいいとか悪いとかいう問題ではなく、島国日本と、さまざまな人種、宗教が入り乱れる歴史を積み重ねてきたイタリアとの「国民性」の違いってやつはかくも大きい。ただし、イタリアの方が「多様性」を認める意識に関しては進んでいるような気がする。日本のように均質性の高い国民構成ではないがゆえに、より細かくより深いコミュニケーションをとって相手の考えを確認していく必要がある。そうした技術は色恋の場面でも遺憾なく発揮される。相手が何を望み、何を自分に期待しているのか?こうした情報を感じ取るのではなく、きちんと調べて確認し、期待に応えていく方が「成功率」は高くなるだろう。私自身が特に異性に関しては「空気」を察するのが苦手であるということもある。まあ、具体的に確認しようとしてついつい深く突っ込みすぎて失敗してしまった経験も少なくないが(笑)。
恋愛に活かすかどうかはさておいて、コミュニケーションの取り方は大いに学ぶべきところである。まあ、この本で取り上げられた人物たちが成し遂げた偉大な実績があればそんなもん関係なく異性は寄ってくるのかも知れないが。偉大な業績を成し遂げるよりはまだ、細かなコミュニケーションを取る努力する方が楽だろう(笑)。