脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

清濁併せ呑む度量を持ち、聖と俗の間での経験も積んできた二人による「文章」をめぐる対談集 『文章修業』読後感

 

 

私はつい最近会社がつくづくと嫌になったことを直接のきっかけとして、文筆業に本格的にシフトしていくことを決意した。以前から考えていたことでもあり、また実際にちゃんとギャラの出る(ものすごく安くはあったが…)ライター活動に勤しんでいた時期もあった。早速二つほどのWebサイトの募集に応募して、ちゃんとギャラの出る活動を始めることとなったが、この二つのサイトからの収入だけではとてもじゃないが食っていけるほどの額にはならない。スーパーの品出しでもやっていた方がよほど金になる。銭金の問題じゃないという部分は少なからずあるが、さりとて銭金の問題を全く無視して生きていけるほどの資産があるわけでもない。

一番の理想は、多数の読者の皆様に喜んでいただける作品を書いて、執筆料と印税で食える作家になること。その一助とすべく、本棚の片隅から引っ張り出したのが標題の書。

 

前半生を奔放に生き、後半生はその波乱の前半生から得たものと、帰依した仏教の世界とを融合させ、小説のみならず説法でも人々を魅了し続け、2021年11月に99歳で大往生を遂げた瀬戸内寂聴氏と、小僧として寺に修行に出されたものの、その辛さに耐えられず出奔した経験を持ち、俗世間に戻ってから大学で文学を学び、文学青年からそのまま小説家になったような経歴の水上勉氏とが、お互いの半生を語り合いながら、どのようにして小説に魅せられ、自ら書き綴るようになったのかを明らかにしていく一冊。

 

さて、本は好きなんだけど偏食本読みである私はお二方の作品はろくに読んだことがない。唯一覚えているのは水上氏のそれも食に関する随筆集である『土を喰らう日々』だけだ。

 

 

それも『美味しんぼ』の野菜の旨さを語るお話の中で紹介されていたことで興味を持ったから読んだのだ。というわけで、私はこのお二方の作品について事細かに語れるほどの知識は持ち得ていない。というより全くもっていないといった方が良いだろう。

 

標題の書の中にはお互いが自著に触れた部分もあり、読んでみたいと思った作品がいくつか見つかったので、是非とも読んで、実際の表現を学びたいと思う。

現時点で私がこの本を読んで学んだことは三つ。

まず一つは、お二方共に、やりたいと思ったことをちゃんと実行しているということだ。とにかく書きたいという衝動を満たすために何しろ書く。作品の形にする。売れるとか売れないとかそんなことは二の次三の次。どれだけ傷を負おうともとにかくまず書いた。そして、自分の文章がある程度世に認められてからは、「売れる作品」を求める編集者の意向に逆らって、あえて、売れ行き的にはシンドい「純文学」に転向していった。ここでも自分のやりたいことを貫いている。

第二に他人の目でチェックしてもらうことは非常に有効だということ。水上氏は宇野浩二(この方も知らん…)氏の口述筆記を請け負い、改めて清書して宇野氏のチェックを受けるのだが、どのように推敲するかを具に観察し、それを自身の文章に活かしたと語っている。優れた文筆家は一体どのような観点で作品を満足のいくものに仕上げていくのか、その過程を見られるというのは非常に幸せなことでもあるし、自然と身につくテクニカルな部分もあるだろう。水上氏のケースとは異なるが、私も、これからは自分の書いた文章を、必ず他者の目から見てもらう機会を得るので、そこでいただいた意見はその時々のみならず、それ以降の自分が書きたい作品を書くときに活かしていきたいと思う。

三つ目。「小説は事件ではなく、人間を描け」という言葉。これは松本清張氏の作品が書くもの書くもの全て大当たりし、推理小説というものの需要が高まっている際に、ピンチヒッターとして起用され、推理小説を書き続けていた水上氏に、とある編集者が投げかけた言葉である。出来事の羅列では新聞や雑誌の記事と変わらない。小説を小説たらしめるのはある事件の背後にある人間の行動であり、考え方だ。そこまで踏み込めた作品は人々の心に響く。まあ、これは小説に限ったお話ではなく、映画、ドラマ、コミックに至るまで「表現」されるものに共通しているお話だ。そこまで踏み込むのが至難の技であるゆえに、「名作」はなかなか生まれないのだし、いざ生まれれば後々の世まで受け継がれる「古典」となっていくのだ。

 

あーあ、また書く前からハードル自分で上げちゃったよ。こうやってハードル上げちゃ、結局飛び越えられないって悲観して落ち込んで書けなくなって、やけ酒飲んで肝臓壊して死亡墓参りって悪循環に陥るんだよ。一番肝心なことは、まず始めること、そして決して諦めないこと。ましてや自分が好きで飛び込もうとしている道なのだから、挑戦しない理由も諦める理由もないはずだ。