脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

忙しなき日常から逃れてしばしカオスの世界に遊ぶための短編 『令和の雑駁なマルスの歌』読後感

 

 

この本の読後感を書くにあたり、はたと考え込んでしまった。

 

『令和の雑駁なマルスの歌』というからには『○○時代の統一性のあるマルスの歌』とでもいうべき存在があるはずであり、試みに「マルス」という言葉をググってみたら、変なスーパーマルスフードショップ株式会社やら本坊酒造やらJRの発券システムやらなんやら出てきて訳が分からなくなってしまったので、「マルスの歌」で再度検索をかけてみたらシンプルに『マルスの歌』という作品がヒットした。

 

無頼派、または独自孤高の作家とも称される石川淳氏の作品で発表当時は反軍国的な作品だとして発禁処分を受け、罰金刑まで課せられた作品だとのこと。町田氏の『令和の雑駁な〜』には反戦の匂いなど微塵もなく、いじけた男とそのいじけた男の手柄を横取りにしてしまうことで調子良く出世して行った男との間で揺れ動く女を、横で見ているだけのはずだった小説家がこの三人のカオス的な恋愛模様の中に巻き込まれて呆然としている様が描かれたのみだったので、本家『マルスの歌』とはどんな作品だったのだろうと大いに興味が湧いてしまい、早速Kindleで検索してみたら、『焼け跡のイエス 善財』という作品集に収録されていることがわかったので、即時に買い求めようとしたら、なんとこの作品集は1500円以上もするのだ!

 

ちょっと逡巡したが、いやいや文学作品の価値は書籍の値段ではかれるものではない、お前はたかだか1500円の金を惜しんで文学作品に触れようともしない卑しい心象の持ち主なのか、という自己批判の気持ちがムラムラと湧き上がってきた。一方で、いや生きていく上でカネはなくてはならいものだ、じゃあおカネさえあれば愛はいらないっていうの?愛なんてものを信じられるほど、もう若くないさと君に言い訳したね〜、などとしまいには『いちご白書をもう一度』のメロディーまでが頭の中で流れ出す始末で、結局そのせめぎ合いは愛の方に軍配が降り、作品集を買い求めて本家『マルスの歌』を読んでみることにした。

 

 

考えてみたら石川淳氏の作品に触れるのはこれが初めて。本好きが嵩じて文学部に行ったくせに芥川賞作家の作品すら読んでないのかよ、おい?そんな体たらくでモノの書き手になりてーだと?物書きなめてやがると、コンクリート抱かしたまんま東京湾に沈めるぞ、ゴルァーと、私の中のネガティブキャラが暴走し始めたので、伊藤美誠がいわゆる「美誠パンチ」を放つ際の踏み込みの強さ並の力を無理やり引っ張り出して、『マルスの歌』を読み進めた。

 

驚いたことに、両者の文体は同じ人間が描いたのかと思えるほど似ていた。町田氏の「出自」がパンクロッカーであり、文章に盛り込まれる様々なノイズが味わいとなっているのは理解できるのだが、幼き時代より論語素読を叩き込まれたような一流のインテリである石川氏の文体も、統一性が高いどころか町田氏に負けず劣らず雑駁で、読者をある種の不安状態に追い込むところはよく似ている。常に「自分が理解している(はずの)文章の意味は、本当に私の理解の通りなのだろうか?」を自問しながら読まないといたたまれない思いに駆られるのだ。文章を読んでいて浮かんでくるノイズはノイズのまま感じるのがいいのか?それともそのノイズには隠された意味があるのか?考えれば考えるほど、ええか?ええのんか?おまー!!という鶴光師匠の絶叫のみが頭の中にこだましてしまうのだ。

 

とりあえず、両者を比較して感じたのは、町田氏の作品が、和歌でいうところのいわゆる「本歌取り」に当たるのだろうな、ということ。二つの小説は筋書き的には非常によく似ているのだ。同じような設定、同じような状況を踏まえた時に、石川氏がこう書くのなら、私はこう書いちゃうぞ、だってこっちの方が今っぽいんだもん、題名に「令和」って文字も入れちゃってるしね。町田氏がギターをかき鳴らしながら、あるいはステージ上でヘドバンしながらシャウトしつつも頭の中では今日はどこで飯食って帰ろうか、とか、布袋の野郎は許さないけど、タッパの高さがあるから実際にもう一度喧嘩しても不利だな、とか冷静に考えながら、文章を練った末に書いた一作なのだろうと想像してしまう。

 

両作ともにその時代の「常識」で考えれば、あり得ない状況を描いてはいるが、実際に起こる可能性もなくはないという結末になっている。石川氏の作品は当時の国の体制に反旗を翻したと判断されて罪に問われたというのは先述した通り。町田氏の描いた結末は、罪に問われることはないだろうが、「世の常識」に背いているという意味では「同罪」ではある。ただ、町田氏の描いたような結末に「世の常識」の方が近寄っていくという可能性は十分に考えられる。今の若い奴らは、という言い方はしたくはないのだが、少なくとも平成を経て令和という時代に突入した今の世のマジョリティーにとっては「ああ、こんなことが反社会的だと思われた時代があったんだ」と感慨に耽る作品になるのかもしれない。私が、石川氏の作品を読んでそう感じたように。