法廷に出向き、実際に判決を受ける被告の裁きの場での姿を描写したルポルタージュを多数上梓されている青沼陽一郎氏のど真ん中の一冊。オウム真理教の主要な人物の法廷から、秋田の実子殺人事件、山口県光市の母子殺人事件など、世間を騒がした数々の事件を取り上げ、被告たちの生々しい姿を、事件のあらましとともに述べている。つい最近死刑判決が確定した、座間市の9人連蔵殺人事件はこの本の出版時にはまだ発生していなかったため、当然のことながら取り上げられていない。
俗に日本では「二人殺したら死刑」などと言われている。実際には、殺人方法の残虐さや精神状態、本人の悔悛の状況などが考慮されて必ずしもこの公式が当てはまるわけではないが、判例をみても、「社会常識」としても「二人殺せば死刑」というのは定着しているようだ。私自身はそもそもこの「判例」が疑問だ。綺麗事を言うつもりはないが、人間一人一人の命の価値は平等のはずだ。一人殺しただけなら、懲役刑で二人殺して初めて死刑では殺された人間の命の価値は殺した人間の価値の半分なのか?と初歩の数式を理解し始めた幼児並みの単純さで思ってしまう。殺された人間の遺族が意見陳述の場で被告に向かって「死んだ人を返して」と叫ぶ場面を著者青沼氏は何度となく目にしているそうだが、遺された人間の心境はまさにこの言葉の通りなのだろうと思う。被告を殺したいとか、罰を受けて欲しいとか言う前に、まず、奪われた命を返して欲しい…、不可能であることは理解していても、こう叫ばざるを得ない遺族の気持ちは痛いほどに伝わってくる。どうやっても償えない罪を償うには、同じ価値のモノを差し出すことを要求せざるを得ない。人一人殺したなら、殺人者の命を以て償え、というのは理屈としては理解はできる。
その上で私は死刑には反対だ。殺人者の死をもって、事件の落とし前をつけたと考えるのは一種の思考停止であると考えるからだ。たとえ死刑という罰をうけ、それが執行されたとしても遺された人々の苦しみは一生続くのだ。それゆえ、せめてもの償いの証としては、本人の反省の気持ちを具体的に示し続けることと、現世において価値を持つもの、すなわち金を差し出し続けるしかないと思う。故に、私は死刑ではなく終身刑を最高の刑罰とすべきだと考える。そして、犯人には可能な限り労働させ、わずかであってもその賃金を賠償金として遺族に送り続けさせるべきであろうと思う。「人殺しをすれば、国に殺してもらえると思った」などという理由で無差別殺人をしでかす人物は何年かおきに出現するが、こういう人物こそ、簡単に死刑になどせずに、過酷な条件下で強制労働でもなんでもさせて、生きている限り反省を促すべきなのではないか?被告にも人権、というお話もあるが、一定の自由を制限して苦しい思いをさせることこそが、文字通り身にしみた反省につながるのではないだろうか。
また、法廷戦略として心神耗弱を持ち出す傾向にも疑問を感じる。いい例が山口県光市の母子殺人事件である。当時18歳の「少年」の「死体を押し入れに隠せばドラえもんがタイムマシンで元に戻してくれると思った」などという言い分を、涙ながらに披露して哀れみを誘おうとした弁護士の姿を見て失笑を禁じ得なかったが、殺人を犯そうという人間がそもそも一般常識を弁えた「正常な人間」などであるはずはなく、調査すれば何らかの異常が露呈するのはある意味当然のお話だ。実際には異常、正常の判断に関しては、専門家の先生方が、さまざまな方法を駆使して緻密に行うだろうから、素人が考えるよりはより正確な判断になるのだろう(と信じたい)が、いずれにせよ罪は罪であり、被害者遺族には大きな傷が残るし、何より殺された人はその後の未来を全て奪われてしまったことに変わりはない。何らかの罰、並びに一生涯の行動制限と賠償は課されるべきで、精神面を理由に無罪などという判決はあり得ないと個人的には考える。
今回は、本の読後感というよりは、殺人犯に対する処罰に関しての私見ばかりになってしまったが、青沼氏は最後に裁判員制度についてもちょっと触れている。法の名の下に、死刑を下した裁判員は、その事により、一生「ある人の死を決定づけてしまった」という重荷を背負う事になりはしないか?そんな重荷を法律の専門家でもない一般市民に負わせてしまっても良いものか?という疑問を呈しているのだ。一般の市民を裁判の場に引っ張り出すことは広く社会の声を聞き、それを判決に反映させるという狙いがあるようだが、ここで私がこの駄文につけた疑問が浮かんでくる。「国家や社会には人を殺す権利があるのか」。にわかには答えの出せない質問が突きつけられる。私個人は上述もした通り、死刑ではなく終身刑を最高刑とし、その間の労働により賃金を得て、その賃金で遺族に賠償を行わせるべきであるという考えだ。その上で、この問題は個々の事例の法廷ではなく、もっと大きな場所で検討すべき課題であるとも思う。