脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

あなたのほんのすぐ身近にあるかも知れない怪談を味わってみませんか?『怪談和尚の京都怪奇譚(全三冊)』読後感

 

怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

 

続・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

続・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

 

続々・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

続々・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

私の仕事中の息抜きは、こっそりとYahooのニュース記事を読むことだ。いい気分転換になるし、世間の動きなんかもよくわかる。仕事よりも熱心に見入ってしまう事が多い。

Yahooのトップページには新刊本の「試読版」のようなものを掲載したまとめサイトの類が表示される事が少なくない。遠慮なく利用させてもらい、面白そうだと思った本は結構な割合で買い求めたりもしている。検索エンジンサイトにとっては理想的な顧客であると言えよう(笑)。

 

で、とある日の「試読版」ウォッチで見かけたのが標題の作。著者三木大雲氏は京都の蓮久寺の住職であり、いわば人間の生死の境の専門家。仏教に関心のない不良少年たちを相手に「怪談説法」を用いて働きかけ、しまいには彼らの悩み事の相談を受けるまでになったという、人の心に何かを訴えかける「怪談語り」のスペシャリストでもある。怪談語りの第一人者稲川淳二氏が主催する怪談語りのコンクールで準優勝するほどのウデの持ち主だ。

 

私は、生まれついての鈍感体質で、怪しげな気配とか、虫の知らせ、みたいなものを感じたことは皆無だ。金縛りには何度か遭ったことはあるが、胸やら腹の上に何かが乗っていたなどということはなく「これは脳は覚醒しているものの、カラダは覚醒していないがために起こる現象だ」と妙に冷静に対処して、いつの間にかまた寝入っていたという経験しかない。最後に金縛りにあったのは浪人時代だから今からもう30年以上も前のお話で、長じてからは飲み過ぎで気持ちが悪くなった時くらいしか、夜中に目が覚めるなどということすらない。

 

そんな訳で、「実体験」がない以上、基本的には狐狸妖怪の類やら幽霊なんてものはいないと考えてはいる。ただし、どうしても科学では説明のつかない現象というものがあるのは事実で、幽霊の目撃談などを「科学的に」否定している大槻義彦氏ほどのガチガチな否定派にまではなれない。そういう現象を無理やり理屈で考えるよりは、曖昧なままにしておいて、そこになんらかの物語を見出して作り上げられる怪談は大好きだ。特に、非常に不可思議な出来事の真相は、実は狂気と正気の狭間にいる人間が起こしたことだった、などという内容のお話が大好物で、故に特に初期の作品でこうした事象をテーマにすることの多かった阿刀田高氏の大ファンでもある。

 

閑話休題

 

標題の三冊の書では、三木氏が実際に遭遇した事件を中心に、様々な怪異現象が語られている。そして、最終的に、その怪異には必ず人が関わっている。幽霊になって出てくるくらいだから、いずれの人々も何かしら現世に心を残している。恨みであったり、無念の思いであったり、子孫や縁者たちの行末への心配だったり…。だから出現の仕方もそれこそバラエティーに富んでいて、一つとして同じお話はない。そして不良少年たちを惹きつけた話術は見事に文章にも活かされており、実に「盛り上げ方」が巧みだし、必ず最後には三木氏の供養によって怪異が去っていく、というハッピーエンドのオチとなるところも秀逸。あの世(あるいはこの世とあの世の狭間)に行ってしまったとしても、元は同じ人間同士、丁寧に供養し、その方のこの世への未練を断ち切れる状態にすれば、必ず事態は良い方に向かう。供養する心も大切だが、それよりも大切なのは、例えば他人の恨みを買うような不道徳な行いをしないよう自分の行動を戒めておくこと。不道徳な行いは、他人を傷つけるのみならず、いつか必ず自分の元に報いとなって訪れてくる。うん、確かに、怖い話を聞いた後で、怖い原因を作るの防ぐのも自分次第だよ、と説かれることは効果的だ。三木氏が最初に説法を始めた不良少年たちなど、自分の行いをどこか後ろめたく思っている連中にはさぞかし効果的なお話だったろう。

 

さて、この三冊を読んだ後でも、私の基本的なスタンスは変わらないが、例えば昔から、立ち入ってはいけないとされてきた場所などには、何かしらの理由が必ずあるはずで、面白半分にそうした場所に近寄ることだけはやめておこうと思う。鈍感体質ではあるが、怖がりであるというのも事実。怖さは頭の中で想像しておくに限る(苦笑)。