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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

怪異は、ただそれを読んで聞いて、怖がるなり不思議がるなりすれば足りる『怪談実話 黒い百物語』読後感

 

怪談実話 黒い百物語 (角川ホラー文庫)

怪談実話 黒い百物語 (角川ホラー文庫)

 

 当代屈指のホラーの書き手、福沢徹三氏が収集した、怪談を百話格納したのが標題の書。怪異専門誌「幽」に連載されたモノをまとめてある。よりリアルな怪談を求め、著者の知り合いからの聞き取りが中心であったため、百話揃えるのに手間取り、結果的に一つの聞き書きを複数に分割したものもあるそうだ。私の気まぐれ集中怪談読書シリーズのひとまずの最終巻となった。

 

前の2シリーズ計4巻が、素朴な素材そのものを出してきた刺身のようなものだとするなら、標題の書は、同じ素材を様々な技巧を凝らして誂えた前菜の盛り合わせとでも言おうか。プロの小説家として怪談以外の著作も多々ある福澤氏ならではの仕上がりになっている。一つ一つのお話は短いのだが、短い中にもきちんと伏線やら盛り上げやら、特にはくすぐりまで盛り込まれているのだ。無理やりいくつかの話に分けたお話は、流石に少々味付けが薄くはあったが…。

さて、今回の気まぐれ集中怪談読書で学んだことの一つは、「怪異は禁忌に触れた時に起こる」ということである。それぞれの土地土地に「あそこに近づいてはいけない」とか「夜中に通ると必ず良くないことが起こる」などと言い伝えられている場所や空間が必ずある。知らずにそこを訪れてしまったり、あるいは蛮勇を奮ってわざとそこに近づいたりしたものには必ず怪異が襲い掛かるのだ。この駄文の題名にも書いた通り、福澤氏の根本の考え方は「怪異は、ただそれを読んで聞いて、怖がるなり不思議がるなりすれば足りる」のだが、時に無意識に、時に好奇心に抗えず、人は怪異に近寄って行ってしまう。そして痛い目怖い目にあってしまうのだ。もっともこうした人々のおかげで、我々は「怖がるなり不思議がるなり」という感情を巻き起こす一種のエンターテインメントとしてそれを楽しむことができるのだが。安逸の場で他人の恐怖を勝手に楽しむことへの後ろめたさと、こんなことを続けていたら何か自分の身にも起こるかも知れないという漠然とした恐怖を感じながらではあるが。

 

閑話休題

 

人がみだりに立ち入ってはいけない区域をもっとも有しながら、人間の生活に密着しているのは海だ。怪異の発生場所が、島や砂浜といった具体的な場所であることもままあるが、ある時間帯であったり、ある気象条件(霧の発生、降雨など)の下で通常なら安全区域であったはずの場所がいきなり危険地帯になるから始末に悪い。本書においても、海における怪異が一番多いし、また怖さの「濃度」も高いものが多い。こんな話を読んでしまうと、気軽に海になんか出かけられなくなるではないか、と少々怒りを感じたりもするのだが、元々、海というのは簡単に人の命など奪ってしまうほどの荒々しい存在なのだ。我々が勝手に「整備された」とか「安全だ」とか思い込んで、無邪気に遊んでいるだけ。いわゆる海水浴場になっている場所ですら、常に死の危険性を孕んでいるのだ。

 

まあ、そんなことを言い始めたら、道を歩けば常に交通事故死の危険性はあるし、家に籠もっていたって、空から飛行機でも落ちてくればいっぺんにお陀仏である。どうしたって人間は死の危険性をある程度内包した空間の中で生活していかざるを得ないのだが、それゆえ注意深く行動することが大切なのだ、というある種宗教じみた「教え」にたどり着いてしまう。そんな「教え」を類型化された「怪談」は示してくれているのではないか、と考えると、ただ単に「消費」してはいけない物語たちなのではないかと考えさせてもくれる。

ほんの楽しみのつもりで読んだ怪談集から、思わぬ「哲学」を教えてもらったようだ。社会的な関係性を優先した結果、地縁や血縁といった関係性が希薄になった現代において、土地土地の怪談が伝承されなくなった意味は思った以上に大きいのかも知れない。そういう意味で、こうした書は一種の警告の書として読み解いていく必要があるのかも知れない。