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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

死体が語る死に様の変容『男と女の悲しい死体-監察医は見た』読後感

 

男と女の悲しい死体―監察医は見た

男と女の悲しい死体―監察医は見た

 

 監察医として二万体の遺体を扱った経験を持つ上野正彦氏による「死体トリビア」本。ベストセラーとなった『死体は語る』を始め、上野氏には経験に基づいた死体に関する書が多いのだが、この一冊では題名どおり、主に男女が心中を図った際の死体についてのエピソードの数々を取り上げている。

二人で「合体」したまま服毒自殺したカップルやら、二人の腹の間にダイナマイトを挟んで火をつけ、そのまま両者の腹部が木っ端微塵になったケースやら、流石に二万体もの死体に向き合ってきただけあって、死者には失礼ながら、「突飛な」死に様が語られている。

 

ちなみに上野氏は世界初の「腹上死」の論文発表者だそうだ。場面が場面だけに死者も生き残った方ともにプライバシーの問題で非常に扱いの難しい事例であることは想像に難くない。よってまともな研究資料は残されてこなかったのだそうだ。「腹上死」という字面から、秘め事で絶頂を迎えたその瞬間に文字通り「昇天」するというイメージが喚起され、それゆえ男性にとっては「一番幸せな死に方」あるいは「憧れの死に方」などとされたりもするのだが、実際は秘め事の最中よりも行為の前後での死亡例が圧倒的多数なのだそうだ。要は、急激な環境の変化に身体がついていけないことが原因であって、そういう意味では、冬場の浴場でよく起こる「ヒートショック」などと良く似た現象であるといえよう。ロマンのかけらもない(笑)。

 

また、映画やドラマなどでは男女が固く抱き合ったままでこと切れている場面が散見されるが、実際にはこうしたことは稀なのだそうだ。男女がほぼ同時にこと切れるには服毒かガスなどに中毒するかという「死に方」を選択する必要があるが、双方とも、死ぬ間際は凄まじい苦しみを生じる方法であり、大抵は個々人が様々にもがき苦しんで散り散りになっているそうである。文中では二人が「死の床」で固く抱き合ったままの姿勢で発見された例が示されているが、これは、死までの時間が短いこと、両者がお互いの手足をしっかりと縛っていたこと、かけ布団が重かったため、二体が「固定」される効果を持ったことなどが要因となって生じた奇跡のような状態だったのだそうだ。いやはや。

 

ところで、これは全くの私見であるが、最近、男女の愛憎のもつれによる心中も、周囲から結婚を反対されての心中というのもあまり聞かなくなったような気がする。愛憎の方では、どちらかが一方的に相手を傷つけ、死に至らしめることが多くなったように思う。周囲に反対された仲の方に関しては、そもそも周囲に反対されるような相手は選ばなくなったような気がする。さる高貴なお方のように、結婚したいのはご本人だけ、というのは近来稀に見る悲恋物語だ。

 

一方でネットで一緒に死ぬ人を募って、実際に一緒に自死するという例も現れるようになった。上野氏は、こうした死に対する意識の変容について、戦争を経験して死が身近にあった世代から、平和な時代を生きてきた世代への交代が原因であろうと述べている。確かに現代では、事件や事故などの異常事態を除けば、「望まない死」に直面する機会はほぼない。それゆえ「死」にまつわる物語が希薄化して、容易に乗り越えられるモノになってしまった。

 

そしてこの意識の変化は自らに対してでだけなく、他者に対しても適用される。すなわち他人を殺すということに、高いハードルを感じない人間が出現し始めたということだ。先ごろ起こった、川崎市の児童殺傷事件や京アニへの放火殺人事件などは自分の惨めな境遇への不満を他者に向けた、いわば八つ当たりなのだが、人を刃物で刺したら、あるいは建物に放火したら、その先には人間の死という、ある意味価値のつけようのない重い事態が待ち受けているということに関する感覚の麻痺がその根底にはあるように思う。

 

「死ぬ気になればなんだってできる」という「気合い」の方向が変な風にねじ曲がってしまった現代は実は非常に怖い時代なのかもしれない。