Kindle君がご親切に「お客様へのおすすめ」としてラインアップしてくれていたのが標題の書。ころりと引っかかって、衝動DLしてそのまま一気読み。お江戸への通勤往復でほぼ読み切ってしまった。眠気を誘われないほどに面白かったのだ。
浅学にして知らなかったが、著者山平重樹氏は「ヤクザライター」としては第一人者らしい。ウィキペディアには「ヤクザ」というワードをズバリ組み込んだ題名の本がずらり。書籍のみならず、ヤクザの社会を描いたコミックの原作もあるし、映像化された作品も多数ある。
日本社会のアウトローの代名詞といえばやっぱりヤクザで、この書にもヤクザの親分の死に様が多数取り上げられてはいる。しかしながら、この書の「アウトロー」はもうちょっと範囲が広い。いわゆる一般常識からかけ離れた生き様の人物は全てその範疇に含むようである。例えば山田かまちは全く犯罪には手を染めていない。17歳というあまりにも短い生涯を終えるまでに、多数の優れた絵や詩を創作した。そして、生きていれば一体どんな優れた作品をどれだけ世に出しただろうという期待をよそに不自然な死に方をしてしまったことで、半ば伝説の存在となってしまった。
尾崎豊も横山やすしもそのほかに取り上げられたヤクザの面々からすれば大した罪は犯していないが、芸能界という「半グレ」状態の業界の中でもひときわ輝く「異端者」たちだった。
その他、学生運動から過激なテロリストに転じた団体の首謀者やら、新興宗教の教祖やらも取り上げられているが、自死を遂げた者、敵対者に殺された者、壮絶な闘病の末に志半ばにして倒れた者などが総勢七十名取り上げられている。
各々の方々の死に様は是非本文に当たっていただきたいが、どの方にもそれぞれの物語があり、その方なりの正義を持って生き抜いたことがわかる一冊となっている。ただしその「正義」は必ずしも社会には受け入れられなかったことだけは共通している。
意外に思えたのは児玉誉士夫氏。彼は戦中から日本軍の特務を請け負い、戦後のどさくさに乗じて海軍の在留資産を我が物とし、その莫大な資産をバックに政界を裏から操ったと言われており「フィクサー」と呼ばれていた。晩年にはロッキード事件の首魁と目されていたが、衆議院の証人喚問を病気を理由に欠席して、ついに司法の手は届かぬままに終わった。そのことに憤慨した俳優がセスナ機で邸宅に突っ込んで自爆するという「テロ」を起こしたが、児玉氏はそのセスナ機が突っ込んだ場所に祭壇を設けて、俳優を追悼し、「まだまだ日本も捨てたもんじゃない。己の身を捨てて何かを正そうとする。こうした若者がいるんだからな…」と側近に語ったというエピソードが紹介されていた。この話をどう解釈するかは人それぞれだと思うし、私自身も「何を今更」という気はしたが、少なくとも彼には自らの命を狙ってきた人物をも理解しうる器の大きさはあったのだという気はした。
全編を通じて感じたのは山平氏の「ヤクザ映画愛」とでもいうべき心情。任侠映画が世の男たちの心を熱くしていた頃の「弱気を助け、強きを挫くのが真の男」という物語をこよなく愛してることが窺える文章がそこかしこにみられるのだ。体制に与しない者たちが、自らの信義に基づいて強大な敵に挑んでいく…。ベッタベタのヒロイズムであり、ヤクザの正義が巨悪を正す世界なんてのは一種のユートピア幻想だとは思うが、そこで描かれる男がカッコ良く映るのは事実だ。
「普通」の生活を送っている人間の周りには、暴力はズバリ目に見える形ではなかなか表れてこない。したがって、「ヤクザ映画」というのはリアルな世界において暴力に最も近しいと考えられるヤクザの世界を舞台とした、アクションヒーローものだ。少なくとも我々の世代の「男の子」にとってはアクションヒーローに胸を熱くするのは通過儀礼であり、その時の胸の高まりは幾つになっても胸の奥に熾火として残っているものだ。ある時代の「大人の男」にとっては「ヤクザ映画」は胸の奥の熾火を心置きなく燃やせる代償行為としての価値は大きかったのだと思う。今は、変なヒロイズムよりも、いかに女の子のハートを射止めるかの方に重きが置かれているようだが。
読後、私は一体どんな死に方をするのだろうか?死ぬ時に悔いのない生き方ができているか?というかなり重い問いを自分に発せざるを得なかった。少なくとも今の生活を続けている限りは悔いしか残らないよなぁ…、と思いつつ電車を降りた。