脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

支離鬱々日記Vol.143(お題に乗っかっちゃいます)

今週のお題「現時点での今年の漢字

 

これはズバリ「忙」

 

これ以外に考えられないくらいに心を亡くしている。

 

何しろ、私の生活の中で差優先事項にすべき、文筆活動が10日以上も滞るほど、会社の仕事が忙しく、また、目の痛みやら、定期的な通院やらでとにかく時間がなかった。

 

さらに、先週の木曜の未明、伯父が亡くなった。生涯独身を通したこの伯父は実の妹である私の実母しか近親者はおらず、その母は、病院から何度電話しても通じなかったとのことで、私の携帯にも、最高権力者様の携帯にも電話が入った。目の痛みでなかなか眠れず、ようやく眠れた瞬間に文字通り叩き起こされたので、話を聞いた瞬間は「全ての手続は明朝じゃいかんのか?」と心の中で思ってしまったくらい。「衣食足りて礼節を知る」ではないが、本能的な欲求を満たしている最中に、それを中断されてしまうと、訳もなく腹立たしいものだ。この苛立ちを、不謹慎な考えだと考えられるようになったのは、着替えを済ませ、何度目かの電話でようやく起き出してきた母親を実家に迎えにいくことになった車中でのお話。

 

病院について、担当医師と看護師から、病状の推移や息を引き取る寸前の様子やらを伺った。なんでも、その日の朝に体調が悪化したため、隣にあった介護施設から、病院に入院し、真夜中ちょっと前に息を引き取ったとのこと。死に顔は穏やかなもので、あまり苦しんだ風もなかったことだけが、唯一の救い。コロナのこともあり、ここ数年会えていなかったことも少々心残りには感じたが、今となっては後の祭り。

 

この伯父は私が幼い頃は、いろんなところにも連れてってくれたし、当時住んでいた東京の話を聞かせてくれたりで、身近なヒーローだった。伯父さんが帰郷する、と聞いた日にはワクワクしたものだ。小遣いも少なからずもらえたし(笑)。

 

大学生になり、私の「経験値」が伯父さんのそれを超え始めた頃からは、ワクワクする存在から、一気にうるせーオッサンに変わってしまった。一人で生きてきた期間が長いせいか、例えば私の実家に泊まりにきても、自分の生活のペースを一切変えようとしなかった。いろんな番組を録画しては観るというのが趣味ではあったのだが、たかだか2、3日の滞在なのに、わざわざ自分の録画機を持ってきて、録画しまくるのだ。居間にあったテレビのみならず、私が寝室として使っていた部屋にあるテレビにまで録画機が設置してあり、私が寝ているにもかかわらず、ノックもせずに部屋に入ってきて録画予約をしていくという気ままさ。私が結婚した後もこの生活態度は治らず、我々夫婦がまだ寝ているにもかかわらず部屋に入ってきたので、流石にその時は抗議した。不思議そうな顔をしていたので、なんで私が抗議したのか意味はわかっていなかったと思う。昔の大家族ではあるまいし、親戚ではあっても最低限のプライバシーは守られるべき、という今の世の常識を知る場がなかったのだろう。何しろ「自前」の家族を持ったことのない人だったのだ。

 

無遠慮さはこのことに限ったことではない。私がうつを患って以降、会社の仕事の話は少なくとも私と母の間ではほぼ最大のタブーとなっていたのだが、伯父は(10年くらい前の一時期、伯父は母と共に私の実家で暮らしていた。最終的には養護施設に入所したが)帰省した私に向かって、「おい、お前は今会社ではどんな地位にいるんだ?課長とか部長とか目指してるんだろう?そのくらいの地位に就くくらいの努力はしなきゃいかんぞ」みたいなことを平気で言ってきた。たりかねて母が「そういうことは言わないで、って散々頼んだじゃないの!なんでそんなことを聞くの?」と遮ったので、その場はそれで終わったが、また伯父は例によって不思議そうな顔をした。私は「そういうことは自分の家庭を作って、自分の子供に聞け!」って言ってやろうかと思ったが、どうせ言っても通じない、と考え直して無言で不機嫌な顔を続けていた。

 

そういう、どちらかといえば不愉快な思い出が頭の中を駆け巡ったが、よくよく考えてみると、厄介な仕事があった金曜日は忌引扱いで、必要最低限の仕事だけで済んだし、1/23の日曜が友引で火葬場が休みになっていることもあって、告別式は1/25の火曜になったが、その日も忌引となる。忙しかった年末年始を過ごしていた私に「まあ、ちょっと休め」って最後にプレゼントをしてくれたんじゃないのか、と思い直すことができた。涙を流すほどの悲しみは湧き上がっては来ないが、一時期ヒーローであった人間がこの世からいなくなるという出来事には、やはり寂しさを感じざるを得ない。ゆったりとした休日を過ごさせてもらっている今、つくづくとそう思う。