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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

いつ、どんな人が陥ってもおかしくないのがひきこもり『中高年引きこもり-社会問題を背負わされた人たち-」読後感

 

中高年ひきこもり―社会問題を背負わされた人たち― (扶桑社新書)

中高年ひきこもり―社会問題を背負わされた人たち― (扶桑社新書)

  • 作者:藤田 孝典
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/11/02
  • メディア: 新書
 

 

私には都合三度、期間にして約半年ほど会社を休職した経験がある。その際は、仕事に関する事柄からは徹底的に遠ざかったが、文章を書くことや筋トレ(とその結果としての減量)にはせっせと励んだし、通院を始めとする外出は普通に出来たので、完全な引きこもりではなかったが、社会一般の「成人した以上は、経済的に自立するために毎日働くのが当然だ」という常識の軛からは大きく外れた生活を営んでいた。最初に休職する際の少し前くらいから、会社という組織には絶望し、会社の仕事に対しての情熱はほとんどないような状態ではあったが、それでも社会の「平均」を大きく下回る生活をしているという思いは常にココロの片隅にはあり、その思いは時折過干渉な実母やそれに輪をかけて過干渉な伯父の口調で「大学まで出て何やってんの?」「いい歳をしてまだヒラのままかい?」「会社にいけないような奴は生きてる資格がない!」等等の言葉を伴って肥大化し、疲弊していた私のメンタルを散々いたぶってくれた。

 

著者藤田氏の記すところによれば、ひきこもり、特に中高年齢層に差し掛かったひきこもりの人々の大多数は、自分の境遇の責めを自らに向ける思考を持つもののようである。ようやく私が「人並み」になれる状況があると知り、少し安心した(苦笑)。

 

家の外に出るのが怖い、他人と交わるのが怖い、だから仕事ができない。でもこんな状況がいい訳はない。なんとかしなければ…。でもやっぱり外は怖い…。こうした思考の堂々巡りが常に頭の中にあり、時間だけがすぎて行くのがひきこもりであり、それが長期化したのが中高年齢層のひきこもりである。

 

こうした状況に「転落」してしまう直接の原因は人それぞれであり、発生時期もまた各人各様である。小学校でいじめにあって引きこもってしまう人もいれば、会社に入ってから意に染まない転勤を強いられた結果として部屋のドアを開けられなくなる人物もいる。どんなカタチをとるにせよ、大元の問題は同じ。その人間が適応できない環境に放り込まれ、そこから避難した結果が引きこもりだ。学校へはきちんと通うのが常識、大人は仕事をして当たり前、女性はある程度の年齢まで行ったら結婚して子供をもうけて家庭を守るのが一般的、などという「無言の圧力」のようなモノが、親兄弟はもとより、友人・知人から赤の他人に至るまで全方位からかかっている。そしてそうした「常識」から外れた人物は全方位から一斉に「失格者、落ちこぼれ、出来損ない」などの罵倒を受けることになる。そして最後は自分自身で自分自身を責める結果となり部屋の中に逃げ込むしか無くなるのである。

 

「世の常識」などというモノは、ただ世の中の人々が「なんとなく」信じ込んでいる、できの悪い共同幻想そのもので、そこで定められたスタンダードや「上流階級」というモノサシは、明確な基準があるようで、ない。ましてや、その「常識」が規定するステータスは、どんなに高くても、必ずしもそこに属する個々人の幸せを保証するものではない。そこから外れたというだけで、生きる資格までなくすものでは断じてない。年収なんかは、どうしても統計上の「平均値」が出て、彼我の差を感じざるを得ないが、幸福度や生活に対する満足度などはもっと主観的であって良いし、もっと尊重されるべきなのだ。硬直化したモノサシは社会への不適合者を増やすだけで、中には法を犯すものも現れるだろう。

 

ひきこもりそのものが第一の問題なのではなく、現在の価値体系というものの方が問題なのであり、その問題が解決しなければ、ひきこもりの人数は増えこそすれ、減ることはないだろう。個人のレベルで「甘ったれんじゃねーよ」と言っていれば良い問題ではないくらい、現在ではひきこもりの人々の数は増えている。さて、現政権はこうした人々をどう扱うのか?単なる切り捨て対象と見るのか、それともこうした人々の生きづらさを解消する方向に向かうのか?にわかには答えの出ない問題こそ政治家の皆さんに何か方策を考えてもらわなければならないのだが、今の政治家さんたちの最大の関心は、宴会の出席者らしい。