脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

LGBTQ問題はあらゆる意味で現代社会の問題の縮図 『LGBTの不都合な真実 活動家の言葉を100%妄信するマスコミ報道は公共的か』読後感

 

 

ゲイであることを公表し、参議院議員時代からLGBTQの方々を取り巻く様々な事象に対して、日本社会へ問題を提起し続けている松浦大悟氏が、日本の現状を概観している一冊。同性婚憲法のレベルで認められるべき問題で、改憲を行うべきだというものすごく大きな問題から、ゲイのカップルがラブホテルで嫌われるのはなぜかという下世話な話題まで、文字通り多種多様な切り口で「不都合な真実」を紹介するとともに、様々な問題に関してのご自身の「立ち位置」も明言されている。

 

この本を読了して数日後、私にとっては実に印象的な出来事があった。『阿佐ヶ谷アパートメント』という番組の「ギャル部屋」という括りの部屋に「本物」の若い女性と一緒に、女装した男性が「ギャル」として入っていて色んなコメントを発していたのだ。いつ頃までの話だったか明確ではないのだが、ホンの30年くらい前までは、「おすぎとピーコ」のお二人は同性愛者であることを理由にNHKには出演できなかったはずなのに、今更ながら時代は変わったんだなぁ、と感じさせられたのだ。

 

私の青春時代は、女装したり、いわゆる「女性言葉」を使ったり、日常から「女性らしい仕草」をしているような男性は「オカマ」として明確に嫌悪される存在だったのだが、今時の若い方々には「同性愛者は『普通』とは違う。『普通』と違う自分を確立していることはカッコいい」とする風潮があるそうだ。もちろん、強烈に忌み嫌う人々も少なくはないが、どんな属性を持つ人間に対してもアンチは一定数必ずいるもので、ここ30年くらいで世間全体の嫌悪感の閾値は著しく下がったと言って良い。

先ほど私は前時代的に乱暴なニュアンスを込めて「オカマ」と一括りにしたが、現在では男性の体を持ちながら性自認が女性である方、異性愛者でありながら女装したり化粧したりする方、性転換手術を行い、身体的にも法律的にも女性になった方など、実に様々なカタチで自身の性を世に示すことがいることがわかった。生物学的に「女性」として生まれてきた方も然り。中には性的なアイデンティティーを確定させない方も存在する。近年のアンケートや各種メンバー登録などでは性別につき「回答しない」という選択肢を設けてあるのが大半だし、そもそも性別を問うことがなくなったりもしている。

 

世にダイバーシティーという言葉が流布し、各人の多様性を認めた上で、その属性による差別をなくしていこう、という大きなムーブメントの方向性は間違っていないとは思うが、実際にはLGBTQの皆様にとってはまだまだ「一般人」との間には高くて厚い壁が立ちはだかっているようである。例えば同性のパートナーは「普通」の夫婦と同じ権利は認められていない自治体が大半だ。集中治療室に入れない、本人の意識不明時に「家族」として意思を表明することが認められないなどが法的かつ端的な例で、特に人々の意識のレベルではまだまだLGBTQの方々への理解は「普通と違う性的指向の持ち主」程度のものにとどまっている。

もちろん私も理解の浅い人物の一人だ。親しい方にLGBTQの方がいなかったので、彼ら彼女らを理解する機会がなかったというのが一番の理由。業務の関係で新宿界隈を回っていた際に、たまに二丁目の近くにある得意先に行くと、ある種独特の雰囲気を勝手に感じて、居心地の悪い思いをしたことがあるくらいだ。統計的にいうと人口に占める同性愛者の割合というのは3%程度程度だと推測されるというのを以前何かの本で読んだ記憶があるが、その割合でいくと、四十人のクラスに一人は同性愛者がいるという計算になる。私は男子高校の出身なのだが、当時のクラスメイトの顔を思い浮かべてみても、ピンと来ない。まあ、異端視されてきた歴史が長かったが故に、広言することが憚られたということもあるのだろう。ちなみに社会人になってから、雑誌の記事で「動く同性愛者の会」のことが取り上げられていた際に、同会のその当時の主要な地位の人物としてインタビューを受けていた人物が、私の一学年下の代の生徒会長だったことには驚いた。

 

思い出話が長くなってしまったが、LGBTQの方々に対しての社会一般の差別的意識は、容易に別の尺度の差別につながりやすい危険性を孕んでいる。学歴、所属企業、居住地、出身地等々。今のところこれらの要素は、精々お笑い芸人がネタにしている程度だが、どんなきっかけで、差別を受ける差異に転じてしまうかわかったものではない。そういう意味で、誰もが現在のLGBTQの皆様がおかれているのと同じような立場に立つ可能性があるのだ。彼ら彼女らの戦いを見届けることには一つのケーススタディとしての意味もある。のみならず、真の平等とは一体どんなものなのか、を考える大きな契機となる。あえて言わせてもらうが、LGBTQという「異端」の存在を考えてみることで真の理想的な社会の姿を模索し、その構築に向かう大きなムーブメントにつながっていくのではないだろうか。

 

ただ、この「理想の社会」って奴は主義主張によって様々に異なってしまうから始末に追えないという側面もある。左翼は左翼で、リベラルはリベラルで、保守は保守で、それぞれ考えていることが違い、その主張にLGBTQの権利保護の動きを利用しようとする企みをそれぞれの団体や政党が持っていたりする。「活動家」たちの言葉を絶対の正義として報道し続けるマスコミの姿に対して松浦氏が批判的な立場をとっているのは、こうした風潮故である。

マスコミの報道を絶対の真実として盲信する方は流石にいないであろうものの、一定の影響力があるのは事実で、報道に対して常に懐疑的であらねばならぬというのはLGBTQの諸問題に限ったことではないが、他の話題に比べ、少々情動的な力が働きがちであるようには思う。とりあえず、私自身は、もしLGBTQの方々が身近に現れたら、性的指向の問題は一旦脇において、その人の人柄を注視した上で付き合い方を決めていきたいと思う。みんな人間であることだけは変わらぬ事実だ。