近所の女子大の図書館にあるのを見かけて「衝動借り」してきたのが標題の書。
20年ほど前、当時の定番聴取番組だった『吉田照美のやる気MANMAN!』でアシスタントの小俣雅子氏が「長崎だらだら節」って勘違い発言をして吉田照美氏に思いっきり突っ込まれてたlことを思い出して手にとってしまった。
また私自身は『玄海つれづれ節』と混同していた。ぶらぶら節もつれづれ節も九州が舞台で、映画化されており、両方とも主演は吉永小百合氏。つれづれ節のTVCMで吉永氏、故八代亜紀氏、風間杜夫氏が主題歌(?)に合わせて変なポーズを取ったシーンも本書を手に取った時点では頭の中に浮かんでいた。当然の如く両者は全くの別物。『ぶらぶら節』の方は直木賞を受賞した立派な文芸作品だった。権威主義丸出しの表現ご容赦願います。
ストーリーは、日本有数の遊郭である長崎・丸山で芸妓としての人生を生き切った愛八こと松尾サダの生涯を描いたもの。サダは貧しい漁村に生まれ、10歳の時に丸山の遊郭に連れて行かれることとなる。丸山には先にサダの姉がいたのだが、すでに丸山一の美女として名が知れ渡っていた。姉と比べるとはるかに容姿の劣るサダは、ならば芸で丸山一になってやろうと、歌や三味線、舞といった芸に精進する一方で「横綱の土俵入りのモノマネ」という飛び道具まで身につけ、それが評判を呼んで、丸山屈指の売れっ子となる。後にはサダの妹も丸山入りするのだが、この妹がまた容姿に優れており、愛八という源氏名を得たサダはますます芸に精進していく。特に歌が得意で客からの評価も高かった、という設定。この辺の設定から、映画のキャストに異議あり。吉永小百合氏より容貌が勝るような方はそうそういねーよ!容貌のコンプレックスから芸事に精進するって設定、かなり無理がないかい?まあ、虚構の世界なんだし、演技力とか主人公としての格とかいうことを考えあわせると吉永氏しかいない、っていう事情もわからんではないが。そういう意味では、愛八を市原悦子氏が演じたTVドラマの方が小説の世界により近かったような気がする(失礼)。
しかし、花の命は短い。姉と妹は早々に落籍されて良家に嫁にいったというのに、愛八にはそうした話がないまま、女の盛りを過ぎてしまった。芸妓としての人気は高いものの、女としての評価という意味では姉や妹に差をつけられたと感じていた愛八の前に現れたのは古賀十二郎という文人。海外への唯一の窓口として多種多様な文化が入り混じり、独特の文化を育んできた長崎の姿を「長崎学」という形で世に示そうと奔走する知の巨人だった。
古賀を一目見た瞬間から惹かれてしまった愛八だったが、男と女という関係にはなり得ぬとハナから諦めた「初恋」だった。それでも何度かお座敷がかかり、交流は深まっていく。この過程で古賀が知を極めようとすることには熱心であるものの、経済的な観念が全くなく、相続した名家を潰してしまったことや、9人も子供を作っておきながら全く家庭を顧みず、女房に任せっきりであることなどが描かれる。人を惹きつける魅力はたっぷりながら、関わった人々は決して幸せにはなれない。そして古賀本人もそのことを理解はしているが、その生き方を改めることはしない。身近にいたらあまり関わりたくない人物だ(笑)。
そして古賀は愛八をビジネスパートナー、というよりはフィールドワークの助手として長崎の民衆の間に歌い継がれてきた歌を採集するという雲を掴むような研究の手助けを頼む。歌詞は聴いて書き残すことはできるが、メロディーは音楽的な素養がない人間では記録できない。録音機器などなかった当時、三味線を弾きこなし、メロディーを拾うことのできる愛八は助手にうってつけの存在だったのだ。経済的に困窮状態ゆえ、給金はなし。それでも愛八はただ古賀と一緒にいることができ、古賀の役に立てるという想いだけでその無理な願いを聞き入れ、古賀と一緒に隠れキリシタンたちの離島から91歳の稽古がいる宿場町まで長崎の各地を巡ることになる。
古賀は諸外国では、多くの場合歌は「空気」と同じ意味の言葉で表されると語る。人々がその時代のその生活の中で空気として吸い込んだ思いが、旋律に乗せた言葉という形で吐き出され、それを吸い込んだ別の人々がまた自分の思いを加えて吐き出していく。そうして歌は歌い継がれていくのだ、と。これは作詞家として数多くの「流行歌」を世に送り出してきた著者なかにし礼氏だからこそ書けた言葉だろう。時代時代の雰囲気を読んで、その雰囲気にあった言葉を紡ぎ、生まれた曲は時代の中を流れ、いつの間にか気持ちの一部分を形作っていく。お上品なクラシック音楽は正装して味わわなければならない高級ディナーだが、流行歌は町中華のようにさまざまなアレンジで日常生活の中にいつの間にか浸透し、根付いていく。流行歌を作るに際しての作者の心意気を私はこんなふうに勝手に解釈した。
愛八は曲の収集が終わった後、自分で曲を作ることを思い立ち、今までの知識を総動員して曲を作るとそれを古賀に聞かせ、歌詞をつけて欲しいと願う。この辺も「曲先」で作品を作り上げたことも少なくないであろうなかにし氏の経験が投影されているようで、ニヤリとしてしまった。こうして出来上がったのが題名ともなった『長崎ぶらぶら節』。レコードにも吹き込まれたこの曲は全国的にもヒットし、丸山遊郭の「テーマ曲」ともなった。
そして年老いた愛八が、この歌の正統な継承者に指名するのが雪千代。幼少期から花売りとして丸山に出入りしていた雪千代にとって愛八は残った花を全て買ってくれる上お得意さん。芸妓見習いになってからは先達として見習っていたものの、肺病を患い、命の灯火が消えようとする寸前だった。愛八の最晩年は雪千代の療養費を稼ぐためだけのものだったといって良い。
最初から最後まで、自分の気持ちを殺して他人のために奔走する愛八は愚かなのか?それとも尊い存在なのか?私は素直に後者の立場をとってしまった。なかにし氏の構成と筆運びが、皮肉な見方をするのを防いでくれたのだ。幸せな読後感に浸れた一冊だった。
