休職生活に入ってから2年半。現時点では、最もストレスフルな会社での人間関係はほぼなく、他人との交流は定期的な通院とわずかな友人との飲み会程度だ。
そんな中で、今一番ストレスフルなのが母親との関係。こちらもせいぜい月に1回か2回ほどではあるのだが。会えば必ず私が怒りを爆発させる結果となる。爆発させなくても、怒りやイラつきを沸点直前まで高められてしまうことがほとんど。で、この怒りは次回まで持ち越され、結局は爆発をもたらす。
うつ病が重い現在においては怒りを爆発などさせてしまうと多大な精神エネルギーのロスにつながってしまい、その後、少なくとも2、3日は何もできない状態に陥ってしまう。いい感じでエネルギーが復活してきたと感じている時に限って、母との面会なり電話なりがエネルギーをダダ漏れさせてしまうのだ。
一体なぜこうも母親にイラついてしまうのか?私なりに分析してみたところ、いまだに「子供は子供」という意識で、常に上からモノを言ってくる上、自分の意見は絶対に正しいのだから、私が母の意見に従うのは当然で、異なる意見を持つことすら許さないという態度をとるからだ、と気づいた。
いちばんの典型例が面会時に必ず現在の貯金残高を尋ねてくること。こちらもそうそうまめに記帳しているわけでもないので、大抵の場合答えられないのだが、そうなると母親は執拗に答えを求めてくる。その場に通帳もカードもなく、すぐには確認を取れない状態であるというのに、自分の望む答えが出てくるまでとにかく同じ問いを繰り返してくる。志村けんの往年の名ギャグ「ようこさんや、飯ぁまだかい?」という状態のように自分が質問したことすら忘れてしまうようなボケた状態ではなく、ただただ自分の思い通りにコトが進まないコトが不満で、その不満をぶつけ続けるのだ。で、こちらがたまらずに怒りを爆発させると「どうしてそうやってすぐ怒るんだ。私はお前のためを思っていくらお金があるか確認したいだけなのに。こんなふうに怒られるのならすぐに死んでしまいたい」みたいなことを言ってくる。何言ってやがるんだ、私と姪っ子ちゃん1号の誕生日記念食事会を催したレストランでは、主役二人を差し置いて、さっさと一番高いメニューを注文しやがったくせに。叩き殺したって簡単に死にやしねーわ、このくたばりぞこない!!
毒蝮三太夫師匠のような「愛ある毒」ではなく、心底から毒づいてしまった瞬間だった。でその直後に「育ててくれた恩ある親に向かってこんな感情を持って良いのか?」という後悔の念まで起こさせて、しっかり心のエネルギーを奪ってくれるという念の入りぶり。本当に母親と接すると疲れる。
で、こういう時の常で、Kindleの書籍検索欄に「母親が嫌い」というワードを打ち込んで一番最初にラインアップされたのが標題の書。読んでみたら、まあ、うちの母親とカブる事例のオンパレードで、「あるある、あるある」と共感し、しまいにはあまりに当たりすぎていて笑ってしまうまでになった。読後になんだかスッキリした気分になったという稀有な一冊だった。親との関係に悩む方は、ぜひご一読いただきたい。自分と同じ事例を発見するだけで、大きなカタルシスを感じることができるだろう。
そして、この本の最大の眼目は、一緒にいるだけで苦しいと感じさせられてしまうような親との関係をどうしていくのかということだ。ごくごく粗っぽく言ってしまえば、目の前の人物に対し、一旦「親」というフィルターをかけてしまうのをやめて、冷静な目でどんな人物かを分析し、その人物像にあった対処をしていくということになるだろうか。どのように分析していったら良いか、そして分析の結果わかったことにどう対処したら良いか、かなり細かく、具体的に綴ってあるので、ぜひとも一度本文にあたってみていただきたい。
さて、私の今後の対処法だが、母親が「恩義は感じているものの、嫌い」な存在であると改めて認識したし、老いもあって、もう一人前の「大人」とはみなせない人物だということにも気づいた。向こうが「子供なんだから、親の言うことを聞いて当たり前」と接してくるのと同様、私も「親なんだから、子供の意向を理解していて当たり前」だという考えを持っていたとも気づいた。親子とは言ってもお互いが一個の人格を持った別個の人間であり、お互いの「当たり前」は一致なんぞしようがないのだ。今後は、こっちが大人となって、過度な感情移入はしない。そして、もはや他人の気持ちなど推し量ることができなくなってしまったくらい(もっとも、母は昔から他人の気持ちになんぞ思いを馳せない人物ではあったが 笑)衰えた老人なのだから、今後の「向上」にも期待しない、というスタンスで接していく。私は冷たい人間なのではないか、という疑問をどこかに持ちながら、ではあるが。