久々に読んだ「紙」の本。書斎の本棚の最前面に並んでいたのをふと手に取って一気読みした一冊。
著者真梨幸子氏との出会いは『殺人鬼フジコの衝動』を衝動買いして、そのショッキングな内容に魅了されてから。それから紙の本でも電子書籍でも、当たるを幸い、買いまくってはいたのだが、他の書籍と同様、大半は積ん読山の中に埋没していた。この一冊も、イギリスの古い物語集である『カンタベリー物語』に何らかの関連があるお話なのかな?程度の関心で読み始めた。もっとも私は本家の『カンタベリー物語』読んだことはないのだが(笑)。
作者自身の解説によれば、この作品は「パワースポット」にちなんだ作品集なのだそうだ。元々の題名は『聖地巡礼』だったらしい。聖地巡礼というからには、スペイン巡るとか、五体投地でインド巡るとか、せめて出雲大社くらいには行きそうなものだが、当時の真梨氏の「身分」はフリーライター。フリーライターというのは、自分で文章を書くようになってから実際に体験したが、多くの場合取材費が一切出ない。取材に行く際の交通費が出れば上等な方で、大抵の場合は、全て込みで1文字1円とかの超ブラック労働だ。取材地への往復で2時間かけて、原稿書くのに3時間かかって、原稿料1000円とかいう案件ばかり。到底生業にはなり得ないし、副業としても割の悪い仕事ではある。
というわけで、この作品の舞台も、真梨氏の当時の生活圏内にあった「パワースポット」が舞台となっている。作品の雰囲気も、重苦しくはあるものの、後の真梨氏の作風ほどには「イヤミス」度は高くない、マイルドな仕上がりとなっている。一つのお話の登場人物が、次の作品で主人公になったりするところは『水滸伝』的な連作小説とでも言おうか。
これが、世に名が売れた後に書かれた作品であれば、新趣向と言えるのかも知れないが、実はこの本が、小説家としての真梨氏の処女出版作品だったということが解説でも触れられていた。いわば、小説家真梨幸子の原点は後のイメージからすれば随分とマイルドなものだったということがわかる。血みどろとか、異常心理を描くよりは、輝かしい青春時代を送っていた人物が罪人にまで転落し、醜く老いた姿を晒してみたり、順調だと思っていた生活が何かのきっかけで悪い方悪い方にまわっていってしまうというような、日常のどこにでもあるエアポケットを描いて、後味の悪さを描き出している。日常のどこにでも「嫌な思い」のタネは転がっているということを認識する目を持ち、それをうまく描き出す技術を持ち得ているからこそ、「普通」の生活の中ではあり得ないような荒唐無稽な状態をも描き切ることができるのだということをわからせてくれた作品集だった。
さてさて、私も真梨氏にとっての『殺人鬼フジコの衝動』に当たるような作品を書き上げられるように精進するとしましょう。先述の通り、フリーライター一本で食っていくのは容易なことじゃありませんからね。