脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

全てが中途半端だった「殺し屋」 『クーダ 殺し屋の流儀』鑑賞記

 

USB-HDD録り溜め腐りかけ映画鑑賞シリーズ。今回はほとんど溜めておくことなく観てしまった一作を紹介する。

 

主人公は殺し屋クーダ(アントニオ・バンデラス)。一度刑務所送りになって娑婆に出てきて、「仕事」に復帰したばかりという設定。まずこの殺し屋が全然強くない。ステゴロではボコボコにされるし、華麗なナイフ捌きを見せる訳でもない。唯一殺し屋っぽいのは、標的を仕留める時に躊躇がないこと。こんなんで殺し屋って言えるの?ってのがまず根本的な違和感。

弟子を志願するストリートファイターに「正業」で生きていくことを説いてみたり、離婚した妻との間の一人娘に惜しみなく愛情を注ごうとしたり、娘と同じ歳の家出少女を救おうとしてみたり。殺し屋じゃなくて教会の神父様みたいなことばっかりやってる。殺し屋の荒っぽさを描きたいのか、心温まる映画にしたいのか、どっちなんだ、一体?

 

クーダはヤバい仕事を生業としている組織に飼われているらしいのだが、この組織も強大かつ残虐であることが匂わされているだけで、実際の強大さ、残虐さを示す具体的なエピソードが何もない。女ボス役のケイト・ボスワースはそれなりの不気味さを醸し出していたが。敵対する組織も多いであろうと推察されるのに、屈強とはいえ本部に常駐しているのが用心棒一人だけってのは、いくらなんでも制作費のケチりすぎじゃねーか、おい!?マイアミで売り出し中の対抗組織も然りで、ボス格の男とその片腕らしき男しか本部にいない。だから、この両組織がどう対立して、どんな残虐な諍いがあったのかの描写がなく、盛り上がりに欠ける。

 

クーダが自らを飼っている組織に乗り込んで女ボスを銃殺し、返す刀で敵も倒すのが唯一の盛り上がりシーンであると言って良いのだが、先にも述べた通りのキャラ設定なので、戦闘シーンが全然華々しくない。まあ、リアルに殺し屋の戦闘方法を描いたのだと言われてしまえばそれまでだが。

 

で最後、クーダは戦闘で受けた傷が元で、マイアミに沈む夕日の中で息たえる。エンドロールでは弟子入り志願の若者が、組織の踊り子と駆け落ちし、自動車修理工として立派に自活し、ついでに家出少女はその修理工場手伝いとして自分の居場所を見つけているという実にヒューマンな大団円。私のようなヒネクレ者は、めでたしめでたしと涙することなんかある訳なく、一体この映画は何を訴えたかったんだろう?という疑問がしっかりと残ってしまった。アントニオ・バンデラスが渋くて良かった、とか、死んでいく姿が美しいとかいうような賛美コメントも少なからずあったが、私はこの作品、あまり他人様に勧めたくないので、完全にネタバレにしてやった。