大御所として関西の落語界にデンと腰を据えている桂文珍師匠。その師匠が落語のみならず、さまざまなタレント活動を行い、メディアへの露出量が最大であった頃合いの1990年代半ばに出版されたのが標題の書。『歴史街道』という雑誌に連載された師匠のエッセイを書籍化したもの。男女問わず、師匠の琴線に触れた日本史上の人物たちを取り上げてさまざまなエピソードを紹介しながら、最後はオチをつけるという落語形式の章が連なっている。
それぞれの人物に関しての紹介は是非とも本文をお読みいただきたい。くすくす笑いを誘われながら、各々の人物の像というものがかなり具体的に脳裏に出現する仕組みができている。客の脳内に噺の中の世界を出現させることを生業としている方であるが故の言葉選びのセンスは流石だとしか言いようがない。
文珍師匠は大学で講師を務めた経験もあり、教育に関する造詣も深い方ゆえ、笑いに包みながらではあるが、現状の歴史教育に関してかなり厳しい意見も述べている。それは歴史というものを無味乾燥な事実の羅列を暗記する科目として教えることの愚かさだ。教科書には、高潔かつ合理的な判断する人物たちが「偉人」として列挙されているが、ある人間が、ある行動を起こすにあたっては必ずその動機に業とか欲とかいうドロドロとしたものが含まれているという根本的なことを理解しない限り、歴史の本当の姿はわからないし、学ぶ意味もないという指摘は誠にもって正鵠を射ている。そして、人間の業と欲を抉り出し、その愚かさを笑いという手段を用いて満天下に知らしめるということにかけては、落語という芸能が最も適しているという持論にも納得させられた。
そうそう、たとえば合戦なんてのは、あっちの土地の方がコメが多く穫れそうだから占領しちまおうとか、あそこの土地の殿様の姫は美人だそうだからモノにしたい、なんてな極個人的な欲望がいつの間にか肥大して国同士の戦いに発展したものだ。そんなドロドロしたことから始まった傍迷惑なケンカが、勝った方によってもっともらしい高邁な大義名分を付与され、「公式記録」として高潔な人物が義のために戦い勝利したことで、その土地がますます栄えた、などいう物語が捏造される。そして教科書で教えられるのは、そうした「高邁な人物」たちが西暦何年に何をしたかという事実の羅列だ。味も素っ気もない受験科目としての歴史など面白くもなんともないと感じる児童生徒が増えるのは当たり前。歴史を学ぶ意義の一つである「同じ間違いを犯さないために先人の過ちを検証し、現在に活かす」ということなど望むべくもない。
さて、そんな感想とは別に、書かれた年代が1980年代中盤くらいから、1990年代初頭だったこともあり、やや人物の描写が「古い」と感じられた。例えば明智光秀や、石田三成などは、近年の新しい研究や、NHK大河ドラマでの描かれ方によって、必ずしも憎々しいだけの敵役とは見做されなくなってるが、まだこの書では旧来の見方しかされていない。史実は変わらないが、考え方の変化で、歴史上の人物の評価というものは変わるのだということがよくわかった。まあ、個人的な感じ方の問題だけかもしれないが。