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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

日本人の文章の「均一性」は没個性の象徴か?それとも基礎教育力の高さか? 『嘘みたいな本当の話』読後感

 

仏文学者にして武道家でもある内田樹氏と作家高橋源一郎氏のセレクトによる題名通りに「嘘みたいな本当の話」を集めた一冊。素人さんたちから投稿されたものを篩にかけて149編の物語を収録している。

 

この企画は元々、アメリカの作家ポール・オースター氏が実施したもの。俗に事実は小説より奇なり、などと言われるが、もしフィクションならいくらなんでも作りすぎじゃねーの?ってな趣のお話は本当に偶然の賜物としてそこいら中に転がっている。

 

卑近な例を一つ挙げてみよう。私は一昨年の10月、郷里の実家近くに引っ越した。私が通学した中学のすぐ近くだ。翌年4月の教員の定期異動でその中学に校長として赴任してきたのは、高校時代の剣道部のキャプテンだった人物だった。当家の最高権力者様と同じ大学を卒業しているので、夫婦共通の知人でもある。その人物から実家宛に手紙が届き、連絡を取り合ったところ、なんとその中学の教頭はその中学で私の同窓だった男であることも判明した。文章が拙くて、私の驚きの大きさがなかなか伝わらないとは思うが、全ての事実が判明した時の私の驚きは近年最大級のものではあった。

 

ま、こんな感じの短い、しかしもっと面白いお話が収められている。一つ一つの作品については是非とも本文をお読みいただきたい。

 

私にとって、興味深かったのは、数々のお話よりも、この一冊の前書き、並びに後書きで触れられていたことだ。アメリカでは、投稿された文章を読めば、物語の中心人物がどんなルーツを持っていて、どんな地区に住んでいるのかが一目瞭然なのだという。対して日本の場合は見事なほどに、どの文章を読んでもどこの地域でどんな生活を送っている人なのかがわからないそうなのだ。

 

人種の坩堝と呼ばれるアメリカは、さまざまな文化的背景を抱えた人たちがそれこそごちゃ混ぜに住んでいる。教育のレベルも、使う言語も生活習慣も本当にまちまちだ。それゆえ、使う言葉、同じ内容を表現するのに使う言葉(俗語など)などで、すぐに大体どんな人かわかるそうなのだ。いまだに「階級」が色濃く残っているイギリスなどはもっと極端で、どういう言葉を使ってるかで、どこの町のどの街区に住んでいるかまでわかってしまうそうだ。

 

対して日本というのは、「標準語」で作文を書くことを幼い頃から教育されていることもあって、会話体で方言が混じるようなことを除けば、全くと言って良いほど氏素性がわからない均質的な文章が投稿されてきたのだそうだ。

 

この辺は文化の違いとして非常に興味深い。タイトルにもした通り、没個性の象徴的な現象と捉えることもできるし、高度経済成長を支えた「高い基礎学力」の反映と見ることもできる。ざっくり言ってしまえば、極端なバカも少ないけど突出した才能も生まれにくい、というのが日本の特質のようだ。で、現在のところその特質は、国民全体の生産性は高い水準にあるものの、先端技術の競争で遅れをとるという事態にもつながっているのだが。

 

まあ、このことはどっちが良くてどっちが悪いという類の比較論ではない。日本人の文化的な営みが今後どのようになって行くかを考えるには興味深い事象であるということだけは言えると思う。

 

気軽に読み飛ばそうと思ったら、思いの外深いお話をはらんだ一冊だったと思う。