脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

支離鬱々日記Vol.164(休職日記2)

先週頭から休職に入ったが、まあ、実に激動の日々で実際問題として、会社の仕事をしている時よりよほど忙しかった。

 

月曜の昼に一息ついたと思ったら、夕刻義父が逝去。元々基礎疾患持ちだったが、直前に家人がコロナ感染し、救急車を要請しても搬送先が見つからないという状況の中で、最後は苦しんだそうだ。かろうじて「生きているという状態を維持している」延命処置だけで生きながらえるのも可哀想だが、この唐突な死も実にもって気の毒だ。まだ事情をよく理解できない幼い姪が「じいじいない」と無邪気な顔をして言って、その後すぐにはしゃいで甘えついてきたことが救いでもあり、より深い悲しみでもあった。

 

搬送先が決まらないまま逝去してしまったので、一応遺体は司法解剖の上、検死されることとなり、「死亡」の法的な確定までにかなり長い時間かかったことも事態を複雑にさせた。何しろ検視の結果が出ないことには、葬儀その他のスケジュールが決まらないのだ。まあ、実際の取り仕切りは喪主である義兄が全て執り行ったので、我々夫婦は姪っ子のご機嫌取りをしていればいいだけだったが。何しろ落ち着かなかった。

 

火曜日夜には、母がお世話になっていた親戚の家でコロナ感染者が発生。その日だけはなんとか泊まらせてもらったが、水曜日には一旦実家に戻ってきた。というわけで、その日にはケアマネージャーさんに実家に来てもらって、ショートステイの手続き。ケアマネージャーさんは辛抱強くいろんなことを聞き取ってくれたが、何しろ、自分が気になったワードが出ると、話の本筋に関係なくどんどん自分の喋りたいことを喋り始めるので、私が口を挟んで、本来の話題に戻さねばならず、なんだかんだで2時間近く、母のおしゃべりに付き合わされた上に、その日は実家にお泊まり。実に疲れた。当初の予定では、次の週の頭から入所にしていたのだが、親戚の家に泊まれなくなったことから、木曜の入所を希望し、それだけはなんとか叶えられたので一安心。

 

そもそも、ショートステイという、いわば非常手段を取らざるを得なかったのは、入所を希望した老人ホームにコロナ感染者が出て、保健所の許可が出るまでは新規入所者の引き受けを止められているからだ。こんなところでもコロナの影響。

 

木曜日は夕刻から義父を荼毘に付した。姪っ子は我々夫婦の姿を見て喜んで、遊ぼう遊ぼうと誘うのだが、場が場だけに、一緒になってはしゃぐわけにもいかず、なんとかなだめすかして、遺体が骨になるのを待った。

 

設立からかなり経った公共の施設で荼毘に付した上、コロナの関係で、その日の最後だったため、納骨の場には、帰りは服についた匂いのため車の窓を開けて走らざるを得ないほど、強く匂いが残っていた。公共の施設のため、仕方がないのかもしれないが、もう少しサービスレベルを上げるべきではないか?などと不謹慎にも思ってしまった。まあ、皆が皆少なからぬ悲しみに打ちひしがれている場ゆえ、抗議の声などもあまりあがらぬだろうから、改善しようという機運にはなかなかならないのだろう。

 

金曜日に簡単に実家を片付けた後、ようやく半日空きができた。自宅の書斎には実に久しぶりに入ったという気がした。机の上には様々な郵便物や書類、飲み終えたペットボトルなどが散乱しており、改めて余裕がなかったことが感じられた。これじゃ、何も考えられないし、何か物を書こうという気にもなれない。まずは、机の上のノイズを全部片付けて、一日遅れで原稿執筆。心の端っこの方に押しやっておいた焦燥感を一旦解消。夜は久々に酒を解禁した。

 

土曜は義父の葬儀。自分たちの結婚式以来という親戚が何人も来て、挨拶をしながらも、名前と顔が一致しない。まあ、向こうもあんまり近付いては来なかったし、ここでも姪っ子が一番の人気者で皆の耳目を一斉に集めてくれていたので、なんとか助かった。ただ姪っ子も初めて会う人ばかりで、少し緊張していたらしく、ママに抱っこされたまま離れようとしなかった。読経の際はぐっすりと寝ていてくれたので、逆に手がかからずに済んだが。

 

葬儀後は、このご時世で会食等々もなかったので、親戚と少しだけ話をして早々にお開き。家に帰り、女房殿のたっての希望で、ケーキを買ってきて食ってようやく深いため息が出た。

 

実に疲れた一週間だったが、モノゴトは確実に消化しつつあるので、今週は少し、本当の意味でのお休みを摂れるだろう。しっかり休んで、次のステップを踏みたいと思う。