脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

マンネリ化を避けるためにいろいろ努力してるってのは伝わってきたけどね… 『座頭市鉄火旅』鑑賞記

 

 

USB-HDDに録り溜めしておいた作品のラインナップを眺めていた時に、ふと目についた一作。そのまま一気に観切ってしまった。

 

今作は26作ある「座頭市シリーズ」の15作目。放浪を続ける座頭の市が、たまたまたどり着いた足利の宿場で、非道なヤクザと、そのヤクザと癒着した役人に鉄槌を下すというのが粗々のあらすじ。

 

ま、このシリーズは市がいかに格好良く居合斬りでバッタバッタと敵を倒すかがクライマックスで、そのクライマックスまでに、いかに敵役を憎々しく描くかがキモなので、今作もその「文法」に忠実に作られている。ただし、いくらなんでも全く同じ筋立てじゃ芸がないってんで、いろんな仕掛けだけはあった。

 

まず、最大の仕掛けは、市の居合を支える仕込み杖が寿命を迎えていると判明すること。足利の屋台で知り合った鍛冶屋の仙造(東野英治郎)が、「あと一人斬ったらこの刀は折れてしまう」と断言する。この仙造という鍛冶屋は元々は刀鍛冶で、市の仕込み杖は仙造の師匠が鍛えたものだという設定になっている。

 

さあ困った。元々盲目というハンデを背負っている市が、唯一絶対の武器を失ってしまったらどうなるのか?途方に暮れた市は按摩として生きることを決意するが、それを許してしまっちゃ、映画にならない。悪逆非道な県の岩五郎と岩五郎と結託した役人桑山の非道ぶりに、文字通り最期の一太刀を浴びせようと、市は立ち上がる。

 

仮に首尾よく桑山を斬ったところで、その後に群がり襲いくるヤクザたちはどうやって倒すのか?これについては本編をご覧いただきたい。一応辻褄の合う筋立ては用意されていた。なんとかマンネリの誹りを免れようとする、制作者たちの意図だけは痛いほど伝わってくる作品だが、結局はお約束の結末に帰結する。こればかりは如何ともし難い。

 

その他のマンネリ化対策としては、人気者を脇役として起用していること。

 

公開当時、『てなもんや三度笠』で人気が出ていた藤田まことが博打好きでお調子者の馬喰を演じている。『てなもんや〜』でのあだ名「うま」を意識した馬喰という役と軽妙な台詞回しは当時の観衆にはそれなりにウケたのではないかと思う。

 

冒頭で旅芸人一座の花形として登場するのが水前寺清子。この映画の公開は1967年の正月だが、1966年11月にリリースされた『いっぽんどっこの唄』を歌いながら、一座で歩いてくるという設定。おいおい、いくらなんでもこの時代に、あんなど真ん中の演歌なんぞまだ存在してねーだろうがよ、というツッコミを入れざるを得ない演出。なんとか人気者の水前寺清子を引っ張り出すために、時代考証は犠牲にせざるを得なかったのだろう。ま、歌もヒットしたし、水前寺清子ファンも一部は取り込めただろうから、製作者としては「してやったり」だったのかもしれないが…。

 

なんにせよ、柳の下のドジョウがかなり痩せ細ってきていた感のある一作だった。