脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

日本のキンは一体どこに行った? 『黄金の日本史』読後感

 

今を去ること約40年前、井上ひさし氏の超大作『吉里吉里人』が上梓され大ベストセラーになった。東北の一寒村が日本からの独立を宣言したことによって巻き起こる騒動を描いたもので、出版年の日本SF大賞を受賞するほどの、荒唐無稽な物語だった。当時私は中学生だったが、夢中になって読んだ記憶がある。(後年にも二度ほど読み返した)

 

 

 

その際、吉里吉里国が国際的に「国家」として認められる一因となったのが莫大な量の金を保有し、それを後ろ盾にした金本位制を敷いたこと。そして金本位制の根本とも言うべき「キンの魅力」につき「キンはピカピカと光って、ずっしり重量もあって高い価値を感じるのに十分な特質を備えている」と言うような趣旨の発言を登場人物にさせていたと記憶している。

 

本文中でも、加藤氏は現代ではどちらかと言えば「悪趣味」の代名詞として語られることの多い秀吉の「黄金の茶室」について、明かりの乏しかった当時において、目も眩むような光を放つ黄金の茶室こそは極楽浄土に代表される「別世界」を表現するのに最適な仕掛けであったと評価している。

 

前置きが長くなったが、標題の書は、このキンという人類を惹きつけてやまない物質を巡り、いかにしてその争奪戦が繰り広げられ、また歴史の勝者となった人物が、ある時には物質として、またある時には通貨としていかに蕩尽したかを解説した一冊である。

 

『本能寺三部作』の著書として名高い加藤氏はまた、金融関係のビジネスマンとして長らく第一線で活躍された方でもあり、かつて「黄金の国」と言われた我が国から、いかにしてキンが海外に流出して行ったか、そしてその結果として、「経済大国」と言われている我が国の現在のキンの保有量がいかに乏しいかについても触れている。

第二次対戦後、日本一と言われる貴金属店に踏み込んだマッカーサー元帥が、そのあまりのすっからかんぶりにひっくり返ったそうだが、現在においてもお世辞にも豊かな国とは言い難いお寒い状況は続いている。この状況は一体どこから生じたか?実は江戸末期に日本が鎖国を解いた瞬間から始まったのだ。

 

当時の世界基準では金1に対し銀15の交換比率だったが、日本では銀の保有量の少なさからそれが1:5であった。この交換比率の差を利用して、日本に来た外国人たちが上から下までとにかくキンを持ち出しまくったのだ。海外の情報など知る術のなかった開国直後の日本は、完全な食いものにされてしまったのだ。当時の日本人の間抜けぶりには歯痒さを覚えるし、同時に情報というものの重要性に思い至ることにもなった。

 

加藤氏は、標題の書の執筆動機について「日本史というものが、単なる記憶専門の受験科目として扱われ、『つまらないモノ』だとされている現状に憤りを感じたから」とも述べている。何年に何が起こったという事実の羅列を覚え込むだけの受験科目は確かにつまらないし、齢50を超えた今となってはほとんど忘れてしまってもいる。

 

ある事象がなぜ起こり、そしてその事象が現在にどのような影響を及ぼしているのかを考えることは非常に興味深いし、現代社会を理解する一助にもなる。過去の失敗を繰り返さないという意識の醸成にも役立つ。何より単純に「面白い」はずだ。少なくとも私はそうした学びかたが面白いと感じたからこそ、歴史書に多く手を伸ばしている。

 

いろんな人がいろんな場所で歴史の教育というものを、縄文時代から始めて、だんだん現代に近づいてくるという方法ではなく、現在の状況の解説から始めて、その原因としての歴史を遡っていくという方法にすべきだと述べているが私もその案に賛成である。キンの動向一つ取ってみても、現状の問題点を明らかにした上で、その原因を探ることの方が、はるかに「実用的」だと思う。まあ、現在の社会の問題点をまず述べるということは現政権の批判に通じることになってしまうという側面もあるから、なかなかには実現しないお話ではあるだろうけどね(苦笑)。