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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

設定は荒唐無稽だが、描かれているのは昔ながらの「親子関係」問題 『約束のネバーランド』鑑賞記

 

約束のネバーランド

約束のネバーランド

  • 発売日: 2021/05/19
  • メディア: Prime Video
 

 同名のコミックの実写化作品。原作は少年ジャンプ誌上で約4年間連載されたようなので、それなりに人気のあった作品なのだろうが、私は未読である。

 

物語の舞台は2040年代のとある孤児院。ママと呼ばれる院長、イザベラに愛情いっぱいに育てられている20人ほどの、幼児から思春期くらいまでの少年少女。彼らは、里親に引き取られる日を待ちながら何不自由なく暮らしている。引き取られていった子供たちもおそらくは幸せに暮らしているはずだ。彼らから孤児院には手紙が来ないが、それは彼らが幸せすぎて孤児院のことなど顧みている暇がないからだ…。

 

しかし、この手紙が来ない理由というのはひょんなことから判明してしまう。里親に引き取られていったはずの子供達は殺されて、「鬼」の食料になっていたのだ。この孤児院は鬼たちになるべく質の高い食料である子供たちを飼育する「農場」だったのだ。

 

このことに気づいたメインキャスト、エマ(浜辺美波)、レイ(城桧吏)、ノーマン(板垣李光人)の3人が孤児院からの脱走を画策するというのがメインストーリー。

 

原作を読んでいないせいか、何故鬼の食料として子供が飼育されるに至ったのか?「農場」の管理側に回る人間の選考基準はなんなのか?鬼と結託している人間がいるのは何故か?などの背景が全くわからないし、作品中で詳しく説明もされないので釈然とはしないのだが、とにかく、鬼は人間の子供を食料としており、人間社会は子供たちを生贄として、鬼の世界と共存することを選んでいるのだという与件だけは伝えられた。イザベラを出し抜くために、いかにメインキャスト3人が努力し、それとわからないような訓練を他の子供に施すか、というのが見どころとなる。

 

コミックの世界観を無理やり実写化したせいか、キャストのキャラが不自然。自毛があんな色した奴がいるわきゃねーじゃん。カツラカツラした髪型も不自然。たまにセリフが完全に棒読み口調になっちゃったりするところもご愛嬌とは言い難い。イザベラの北川景子が優しさの裏側にとてつもない残忍性を秘めた女性をうまく演じていただけに残念。

 

その他のキャストとしては渡辺直美が結構いい味を出していた。本来は道化役であるはずのピエロを怖がる子供がいるように、ユーモラスなんだけど結構怖いっていう役を好演していた。巨体なのに鬼ごっこで意外に素早く子供に追いついてしまうところなど、筒井康隆先生の傑作短編ホラー『走る取的』を思い出させた。彼女が思いもよらぬところからヌッと出てきたらそりゃ怖いわ(笑)。

 

さて、そろそろ題名のココロについて触れておこう。孤児院内で、外の世界のことを知らず、また知る努力も求められずにヌクヌクと暮らす孤児たちは、幸せな幼児そのものだ。「ママ」によって示される世界が全てで、そのことに対して何も疑問を持たず、衣食住は保証されている。考えてみれば、こんな安らかな暮らしは理想の暮らしだ。楽園に暮らし、知恵の実であるリンゴを齧ってしまう前のアダムとイヴの姿だと言っても良い。しかし、成長とともに、子供は「ママ」によって与えられた世界の外に、もっと大きな世界があることに気づいてしまう。その大きな世界に向かって踏み出していきたいという欲求は、社会的動物たる人間にとっては、閉じられた世界の中に安住する欲求よりも強力なのだ。かくして、子供は親の与えた世界から旅立っていく。そこにどんな危険性があろうと、なんの保証も無かろうと、そんなことを無視して突き進もうとするのだ。

 

子供を愛し、自分の分身だとまで感じている親は、かつては自分もそうして親の作った世界から飛び出してきたにもかかわらず、なるべく子供を自分の作り上げた世界の中に留めておこうとする。外の世界に飛び出そうとする子供たちをなんとか捕まえておこうと強力な障壁を作ってみたり、必要以上に外界の恐ろしさを説いたりしてなんとか子供を束縛しようとするのだ。

では束縛に抵抗しきれなかった子供が、親の作った世界に安住し続けたらどうなるのか?この物語では「鬼」の食料となって無惨な死を遂げる姿が描かれるが、現実の社会においては、実世界に適合できない「社会的死者」となるしかない。自力では生活できない、緩慢な死者の誕生だ。

 

外界から、深い崖と高い壁で隔絶され、情報も遮断された孤児院は実にわかりやすい「親の束縛」のメタファーだし、その隔絶された孤児院内の秩序を保ち、外界への欲求を感じさせないよう振る舞うママ、イザベラの姿は「毒親」そのものである。設定こそSFだが、物語の構造は、どんな親子関係にも常につきまとう、自立したい子供と自立させたくない親のせめぎ合いを描いたものだ。この作品がウケるということは、現実の親子関係に息苦しさを感じている、子供たちが多数存在することの証なのではあるまいか?