脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

3/20に発生した宮城県沖震源の地震に思う

先日、車を運転している際に、宮城県沖を震源とする地震に見舞われた。ちょうどその時は高速道路の出口付近を徐行走行中だったのだが、落下物を踏んだ時などと明らかに違う種類の振動に少々慌てた。すぐさまラジオをつけたら、女性アナウンサーが刻々と更新される震度や地域の情報を早口で喋り、その合間合間に津波への注意を呼びかけていた。車窓の外の無感情な車の流れとはかけ離れた興奮状態の口調を聴きながら思い出したのは、10年前の大震災の記憶。同乗の最高権力者様も同じ思いだったと見えて、しばらくはお互いに当日の思い出を語り合った。震災翌日の別口ブログの全文を再掲する。

 

 

″3/11(金)15:20頃、私は取引先からの電話を受けていました。その時、かなりの揺れを感じました。電話の向こうでも取引先の担当者の「あ、今地震来てますよね?」という不安げな声が聞こえていました。「うん、確かに揺れてますね。相当でかそうですから、電話切りますね」ちょうど用件も済んだところだったので、早々に電話を切りました。

まあ、いつもの通り、少し待ってりゃ治まるだろう、という予測は見事に外れました。揺れはひどくなった上、いつまで経ってもやみそうにありません。そのうちに電気が止まって暗くなり、警報が鳴り始めました。当時同じ部屋の中に7人の人間がいましたが、7人とも備え付けのヘルメットをかぶった上で、机の下にもぐりこみました。

地震がきたら、机の下にもぐりこめ」という訓練は小学生の頃から受けてきましたが、実際にもぐりこむのは初めての経験でした。強い揺れを感じながら、狭いところにもぐりこんでいることには強い恐怖を感じるものだということを初めて知りましたね。

どのくらいの時間そうしていたでしょうか?時計を見る余裕すらなかったので、詳しい時間はわかりませんが少なくとも5分くらいはもぐりこんでいたように思います。ようやく揺れがおさまったので、建物の外へと避難しました。

外には工場内のメンバーと、工場に隣接する研修施設で研修を受けていた社員がほとんど出てきていました。電気が止まってしまったので、当然生産ラインも止まります。幸いなことに火気をともなう作業はしていなかったようで、火災の心配はないようでした。

スマフォで情報を確認したところ「宮城北部で震度7」「工場所在地は震度5弱」という表示。工場のある地域は停電もしてしまったようで、信号からも光が消えていました。

その場で、工場の主だった面々の判断で、即休業で全員退社。徒歩や自転車で帰れる職住接近の人が大半なので、その点はあまり心配いりませんでしたが、問題は私自身。川崎某所にある工場から練馬某所にある自宅までどうやって帰ろうか?最寄り駅に乗り入れている電車はすべて止まっているらしい…。

総務の職務として、工場内の点検を簡単に済ますと、浦和まで帰らなければならない上司が悩んでいるのを横目にみながら最寄り駅を目指します(ちなみに上司はこの日、隣接する研修施設に泊まり、翌日の午後になってようやく帰宅したそうです)。

最寄り駅は人人人であふれかえっていましたが、「復旧の見通しはたっていません」というアナウンスを機械的に繰り返すだけで、ホームにすら入れてもらえませんでした。仕方がないので、駅の内部の本屋で何冊か本を買い、近くのファミレスでしばらく様子見。

ここで、軽い食事を取り、コーヒーを4杯おかわり(無料)して1時間ほど粘り、もう一度駅にいってみましたが、電車はピクリとも動く気配なし。ホームどころか、改札口の電気まで消されていました。

少々懐は痛むものの、タクシー使うか、と思ってタクシー乗り場に行ってみたら100m以上も行列が出来ていました。これはもう、覚悟を決めて歩いて帰るしかない、そう思い切ってスマフォのナビに自宅住所を入力。距離は21kmと出ました。1時間に5km歩いたとして4時間強。家に着くのは11時か、と思いつつ歩き始めました。

歩き始めてすぐにレンタカー屋が目に入ったのですが、道路の混雑がものすごかったのと、どれだけ歩けるか試してみたいという気持ちが勝ったということもあって、歩き始めました。

中原街道は歩いて帰宅する人々でごった返していました。休日の歩行者天国を歩いているのと大差ない人々の波が、黙々と川崎方面を目指して歩いていました。私はその人々の流れに逆らって都内を目指します。

歩き始めて改めて感じましたが「腹が減っては戦は出来ぬ」というのは真理ですね。お腹が満たされていたからこそ歩こうという意欲も湧いたし、その後もほぼ飲まず食わずで歩くことが出来ました。まあ、時間が早いうちはコンビニの棚にもまだ食い物はありましたけどね。

ナビをちらちらみながら1時間ほど歩いて、都内に入りましたが、ここからが長い。しかもここで、最高権力者様からメールが…。「友人と港区で行われた音楽会を聴きにいったが、電車が動かないので高輪の区民センターにいる」。途中で進路変更です。歩く距離はほぼ変わりません。

ここで一つの危機が。スマフォにはいろいろな機能があって便利なのですが、電池の減りが異常に早いんです。ナビを見たりメールを打ったりしているうちに電池が見る見る減っていきました。途中でauショップを見かけたので、充電器を買い求めようとしたら、スマフォ用の電池式充電器は純正品としてはないとのこと。その代わり無料で充電してくれる、というのでお願いしたのですが、満タンになるには1時間ほどかかると言うので、そんなには待てないと早々に引き上げることにしました。バッテリー残量計は黄色のまま。後々、ここでスマフォ用のアダプターだけでも買っておけばよかったと後悔することになります。

途中コンビニを見つけるたびに寄って充電器を探したのですが、皆考えることは一緒のようで、棚から充電器はきれいになくなっていました。たまにあっても、スマフォの端子には合わないものばかり。バッテリーはどんどん減っていきますが、どうすることも出来ません。不動産価値の高い土地ばかり歩いたので、家電量販店などまったく見当たりませんでした。

ナビをチラチラ見、メールを何回かやり取りしたところで、完全にバッテリー切れ。同時に高輪の区民センターへの道もまったくわからなくなりました。しかたがないので、コンビニを見つけるたびに入店して充電器を探す一方、店員に道を聞く、というのを繰り返したのですが、正確に区民センターの位置を知っている人にはついにめぐり合えませんでした。交番で聞いても解らなかったんですから^^;まあ区民会館だか区民センターだか名前をうろ覚えだったというのもありますが…。とりあえず高輪方面に向かって歩きます。

靴は毎日ウォーキングシューズですので歩くのはさほど苦ではないのですが、こういう日に限って外出の予定があったため普段のカジュアルな格好ではなくスーツを着ていました。別に動きにくくはないんですが、なんとなく拘束感を感じちゃうんですよね。ちなみに地震騒ぎのお陰で外出もヘッタクレもなくなっちゃいましたが…。

道を聞き、コンビニの棚を眺めながらの行程は3時間余にも及びました。途中、警察署で一回トイレ休憩を取りましたが、あとは飲まず食わずで歩き通しです。コーヒーがぶ飲み効果で飢えも渇きも感じませんでしたがね。

ふと、公衆トイレを見かけてそこで用を足し、外に出てふと見上げたら、そこが区民センターでした。最高権力者様はすぐに見つかりました。何度メールを送ってもレスポンスがないので、電波状況の確認のため、避難者の控え室として用意されていた地下の部屋から出てきていたのだそうです。そりゃレスポンスの返しようがありませんわ。バッテリー切れなんですから。

ちょうどその時、都営線が運転を再開したというニュースが飛び込んできました。高輪口から浅草線に乗り、その後大門で大江戸線に乗れば、自宅近くの駅まで行くことが出来ます。というわけで、今度は帰宅を急ぐ多数の人々と同じ方向に歩きます。

浅草線は混んでいたもののすんなり乗ることができましたが、大江戸線は予想を上回る大混雑。ホームに乗客が入りきれないので、警察官まで出動して、改札口と、ホームへ降りる階段で入場制限をかけるものものしさ。当家は、1時間ほど待ってようやくホームに降りられました。しかしホームもギッチギチ。すでに朝の通勤電車並みの満員状態。しかも入ってくる電車も寿司詰め状態。降りる人数以上に乗り込む客がいて、ものすごい状態で出発していくのですが、それでも乗り切れません。結局3本見送って4本目にようやく乗ることが出来ました。

この時点で時間はすでに真夜中を回っていました。方々から襲ってくる強烈なプレッシャーから最高権力者様をなんとかお守りして、車中の時間を耐え忍びます。不思議なのは、前の駅で、もう乗れない、と駅員が乗り込もうとして人間を引き剥がすようにしてドアを閉め発車した電車が次の駅にとまり、誰も降りないのに、また新しい乗客が乗り込んできてしまうことです。もうこれ以上乗るんじゃねーよ、という悪態を心の中でつきながら、ひたすら耐えるのみ。

救いの主は老紳士。自分の前の席が開いた瞬間最高権力者様を座らせてくれたのです。お陰でわたしまで多少楽をさせてもらえるようになりました。奇跡のような方でしたね。

なんだかんだで降車駅についたのは午前一時過ぎ。この駅は最寄り駅というわけではないので、10分ほど歩きました。ここでようやく最高権力者様が港区からいただいたミネラルウォーターを口にしました。6時間ぶりくらいに口にした水は美味かったですね。避難所に避難して不自由な思いをしている被災者の方々の気持ちがほんの少し理解できたような気がしました。

自宅マンションにたどり着くと、エレベーターの前には「地震発生後の安全確認が出来るまでエレベーターを停止します」という貼紙が…。文字通り重たい脚を引きずりつつ8階まで上ります。


家について、ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできた光景は…。ドアが開きっぱなしになってしまった冷蔵庫、そこから飛び出した数々の食品、真っ二つにわれたコーヒーメーカー、床に転がっている電子レンジ、部屋中に飛散した書籍の数々、粉々のワイングラス、扉が全開している洋服ダンス、タンスの上から転がり落ちていた衣装ケース…。震度5弱地震の威力をまざまざと見せ付けられました。私の部屋の積ん読山も完全に崩壊していました。

もう夜の2時近くでしたので、全部を片付ける気力もなく、布団を敷ける程度に片付けて、シャワーを浴びて早々に寝ました。

人間誰しも、「自分だけは災難に合わない」という根拠のない確信を持っているものですが、今回の件で、災難にあうことだって十分にありうるのだ、ということを思い知らされました。まあ、震源地近くで重篤な被害にあわれた方からすれば、取るに足らないような被害ではありますがね。

ま、20kmも歩くことができたというのは一つの収穫でした。

今回の震災で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。″

 

 

東日本大震災の直後に喚起された思いを書いた文章を読み返してみて、改めて気づいたことが二つある。

 

一つは、2011年当時との不気味な類似性だ。あの時も、3/11に先立つ2/22にニュージーランドで大地震が起き、甚大な被害が出た。今回もあの辺の地域で大きな地震があった約1ヶ月後に福島県で最大震度6弱という大きな地震が起きた。3/20の地震はおそらくその余震だろう。

 

10年前の教訓をもとに、沿岸地域の堤防が高くなったり、住宅地が高台に移動したりという対策は打たれたが、そんな対策を浅知恵と嘲笑うかのごとき大災害が起こる可能性は否定できない。しかも今度コトが起これば、避難所での三密の危険性までも回避する策が求められる。今は、あんなバカでかい災害が起こらないことだけを願うのみだ。

 

もう一つ。以前どこかで、災害が起こるから人心が不安定になるのではなく、不安定になった人心こそが天変地異を引き起こす負のエネルギーを生じさせるのだ、という設定のSFチックな小説だか、コミックだかを読んだ記憶がある。確か、そのお話の中では、大きな自然災害に先立って生じていた人心が不安定になる事件(戦争や疫病など)を例示していて、なるほどそういう見方もできるな、と感心した覚えがある。信じる気にはならなかったが(笑)。

 

この物語の世界観に倣って言えば、今回の日本ならびに南太平洋地域の大地震はコロナ禍がもたらした人心の不安定さがもたらしたものだと言えよう。先にも述べた通り、私自身はこの世界観を受け入れてはいないが、出口の見えないコロナ禍の状況下における人々のストレスのエネルギーは、そのくらいの地震を引き起こすくらいには高まっているような気はする。世の中を動かす立場にある方々には、この地震を民衆の怒りの発露だと感じてもらって、より一層の努力を望みたい。それこそ、全世界を一回ぶっ壊すくらいの覚悟がないと打開できない局面に来ているように思うのだが、日本は見切り発車の緊急事態宣言解除と、ゆっくりとした歩みのワクチン接種しかできていない。歯痒いなぁ…。