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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

一体誰が主人公?血生臭いスポ根マンガ 『野望の王国』読後感 →お題に乗っかって再掲載

今週のお題「一気読みした漫画」

 

 

 

Kindle Unlimited対象でなければ読まなかったであろう本の読後感シリーズ4作目。グルメコミックとして一世を風靡した『美味しんぼ』の雁屋哲氏が原作のバイオレンスコミック。ヤクザの妾の子として生を得た橘征五郎が様々な権謀術数を駆使して「天下」を手にするまでを描いた物語。

 

東大法学部首席の秀才にして、アメフトの実力者でもある橘征五郎は、首席を争うライバルでもあり、アメフトのチームメイトでもある片岡とともに、「実家」である川崎市を地盤とした橘組に「入社」することを表明。「普通」に就職すれば、東大教授も官僚を経て政治家に転じても大物になると目されていたような、心身ともに優れた超エリートの彼らが、なぜ、地方の中堅どころの暴力団に身を投じたのか?彼らには天下を手にするという野望があり、そのためには暴力という手段を手にし、それを活用する手立てを講じていく必要があったのだ。

 

大衆を動かす力となるのは暴力であり、国家ですら、警察力と軍事力という暴力を持っているために成立している、という皮肉な見方は、雁屋哲氏の「哲学」だろう。さらに物語の最終盤にはもう一つ人間を動かす力として宗教も登場してくる。神の名の下に、狂信的な行動を起こす人物は歴史上にも多々存在したし、今でも少なからず存在する。つい最近も、議会に乱入するという暴挙をしでかした輩がいたが、彼らを扇動したのは直前まで大きな権力を持っていたある種の神的な存在の人物だった。己の信ずるところ(あるいは己の信ずるところと錯覚させられたもの)に付き従うためには己の命すら惜しくない、と考える人物を出現させてしまう力は宗教しか持ち得ないというのも一面の真実ではある。

 

さて、征五郎と片岡のコンビは、橘組に属してはいるものの、それはあくまでも隠れ蓑。いかに組織を大きくし、強大な力を手に入れるかを綿密に考え、そのための策を巡らし、実施していく。自分たちに辛く当たってきた本家筋の兄弟を殺害し、その罪を対立する暴力団になすりつけ、警察と結託して一気にその勢力を配下に組み入れる。のみならず、全国的な勢力を誇る大暴力団にも戦いを挑んでいく。表面上は跡目を継いだ腹違いの兄である橘征二郎をあくまで立てながら、そして裏では川崎中央署の署長柿崎と結託しながら、暴力団としての拡大を図るのみならず、その上に位置する黒幕、その黒幕の息のかかった政治家までどんどん支配下に治めていくのだ。征五郎は、総合演出家として舞台を整え、その舞台の上で登場人物たちを踊らせていくのだが、その躍らされる人物たちが実に魅力的なのだ。特に、征五郎の動向に常に疑いを持ちながらも、深い兄弟愛ゆえに最後まで征五郎を信じ切った橘征二郎と、やはり東大法学部史上屈指の才能を持ちながら、征五郎同様、大衆を動かす力は暴力であると考え、その暴力の一つの極である警察組織のトップになるため、悪事にも平然と手を染める柿崎の二名は物語終盤まで本来の主役である征五郎、片岡のコンビを食ってしまう存在感を見せる。この二人が幾度か繰り広げる、血みどろの死闘こそが、この物語の最大の魅力だと言っても良い。

 

表立っての派手なドンパチもあれば、裏から手を回して刺客に襲わせての殺傷シーンもありで、流される血の量が半端ない。重工業の工場が集中している川崎市を舞台として、レバノンで起きたガスの大爆発もかくやと思わせるような、大規模なテロも起こる。この物語の中で描かれたような川崎市の大パニック状態を沈静化できるような政治家は現実にはいないのではないか?さらに言えば、平和ボケした日本なら、ちょっと気の利いたテロリストが潜入すれば、このような事態はいつでも引き起こせてしまいそうだ、という恐怖感も感じた。

 

まあ、とにかく次から次へとそれこそ息つく暇もなく、血みどろのシーンが繰り広げられ、裏切り、迎合、屈服など、人間の醜悪な、弱い部分も明示される。このドロドロとした暴力性と心理描写もすんなりと物語だけを追うことを拒む。現実にこういう人間はいるのだろうか?もし自分が同じ立場に放り込まれたらどうなるか?こうした考えが常に頭の中にありながら読み進めるしかないのだ。

惜しむらくは、最後の最後が、尻切れトンボのニヒリズムで終わってしまったことだ。様々な困難を乗り越え、「野望」を達成した征五郎のまわりからは盟友の片岡をはじめ、愛した人々が一人もいなくなってしまった。そんな「野望」など虚しい、というのは確かに一つのエンディングではあるのだが、私個人としては、「野望」を手にした後の征五郎の姿こそみてみたかった、という感想を抱いた。「野望」を手にしたらそれで終わり、というのであれば、「東大に入るために死に物狂いで受験勉強したが、いざ入ってしまったら何をやって良いかわからなくなった」という受験エリートと一緒ではないか。力を手に入れた征五郎が、その力をどう使って、どう、この日本を変えていくのか、こそが本当のこの物語の目的とすべきもので、頂点に立った征五郎の胸にはとてつもない虚無感が残った、だけでは、真っ白く燃え尽きた『あしたのジョー』の矢吹丈と一緒である。征五郎ほどの人物なら、そこで燃え尽きずに、何か現状の日本にも通用するような提言を物語の中で示して欲しかったと思う。